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将門炎舞記 上巻  作者: 浮島太郎


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第三章 童殿上 【3.御簾に沁む笛】

【3.御簾に沁む笛】みすに しむ ふえ


その夜、清涼殿はいつになく静かだった。

春の風が御簾を揺らし、灯火の影が畳に淡く揺れている。

妙子は、その御簾の前に控え、胸の奥に沈むざわめきを抑えきれずにいた。


皇女は、ひとり清涼殿の北廂に座し、祈りの文を写していた。

その背には、十四歳の少女には重すぎる“役目”がのしかかっていた。

胸の奥に、言葉にならない痛みが広がった。


祈りの文を写す筆先が、ふと止まる。

「……わたくしは、どこへ行くのだろう」

その呟きは、誰にも届かぬはずだった。


だがそのとき、ふと、御簾の向こうで小さな気配がした。

御簾の外から小さな足音がした。


迷い込んだのは、七歳の童殿上――国豊であった。

夜の用事を終え、帰り道を間違えたらしい。


女房が慌てて声を上げる。

「其方は、ここがどこか分かっておるのか。姫宮様の御殿であるぞ。」

国豊は青ざめ、震えていた。


「これ、姫宮さまのお側を穢してはなりませぬ」

そのとき、御簾の奥から皇女の声が静かに響いた。

「よいのです。……」

女房たちは息を呑んだ。


皇女は御簾の向こうから、そっと手を差し伸べるように言った。

「よいのです。こんなに澄んだ瞳の童が穢れている道理がありましょうか」

国豊は御簾の前に膝をつき、深く頭を下げた。


「こちらへおいで。菓子を召し上がれ」

国豊は恐る恐る近づき、栗をひとつ口に運んだ。


その姿を見た瞬間、皇女の胸の奥で、何かがほどけた。

皇女の胸に、久しく忘れていた“温もり”が灯った。


「ああ……この子の前では、わたしは“皇女”ではなくていいのだ」



春の夜気が清涼殿を包み、灯火の影が揺れる中、皇女は御簾の奥で静かに座していた。

「坊よ……笛を、吹いてくれませんか」

国豊は頷き、忠平から贈られた水楓みずかえでをそっと取り出した。

笛の音は、春の夜気に溶けるように柔らかく、どこか幼い日の記憶を呼び起こすようだった。


「わたくしね……ずっと、ひとりだったのです」

国豊の指が笛の孔を押さえる力が、ほんの少しだけ強くなった。

最初の音が清涼殿に満ちた瞬間、皇女の肩がわずかに震えた。


国豊の笛が、澄んだ水のように流れ始めたとき――

女房たちは、ふと気づいた。

姫宮さまの肩が、わずかに震えている。

御簾の外の女房たちは息を呑んだ。


「母上の顔も……姉上の声も……わたしは、何ひとつ覚えていないのです」

御簾の向こうで、ぽたり、と小さな音がした。

涙が、畳に落ちた音だった。


「……姫宮さまは、泣いておられるのか」

その声は、誰にも聞こえぬほどの囁きだった。


若い女房・小少将は、唇を噛みしめた。

「姫宮さまは、いつも……わたくしたちの前では、決して涙など……」

弁子は静かに首を振った。

「お強いのではないのです。泣くことを許されぬお立場なのです」

その言葉に、小少将は胸が締めつけられた。


笛の音は、皇女の涙を包むように、さらに柔らかく、静かに流れた。

皇女はその音に身を委ね、涙を拭おうともしなかった。


皇女の声がかすかに震えた。

「あなたの笛の音だけが、わたくしの心を癒してくれる・・・」

御簾の向こうで、二筋目の涙が落ちた。


その言葉は、御簾を隔てていても、女房たちの胸を深く刺した。

小少将は思わず、御簾に手を伸ばしそうになった。

「姫宮さま……どうか、わたくしたちにお頼りくだされば……」

だが弁子がそっとその手を押さえた。

「いけません。姫宮さまが涙を見せられるのは、あの童だけなのです」



国豊は笛を吹きながら、幼い胸が熱くなるのを感じていた。

自分の音が、誰かの涙を受け止めるなど、思いもしなかった。


弁子は、御簾の向こうの皇女に向けて、声には出さず、心の中でそっと語りかけた。

(姫宮さま……どうか、その涙を恥じらわないでくださいませ。

わたくしたちは、あなたがどれほど孤独であられたか、ずっと見てまいりました)

小少将もまた、胸の奥で祈るように呟いた。

(どうか……どうか、あの童子が姫宮さまの心を支えてくれますように)

女房たちは、皇女の涙を止めようとはしなかった。

止めることができないのではない。

止めてはならない涙だと知っていたからだ。



その夜、皇女は生まれて初めて、“誰かの前で泣くこと”を許した。

そしてその相手は、七歳の童殿上――国豊だけだった。


笛の音が静かに続く中、女房たちは深く頭を垂れた。

(どうか、この童子が……姫宮さまの孤独を照らす灯となりますように)

その祈りは、誰にも聞こえぬまま、清涼殿の夜気に溶けていった。


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