第三章 童殿上 【1.霜夜の若灯】
第三章 童殿上
【1.霜夜の若灯】(しもよのわかび)
夜明け前、忠平邸の庭は凍てつく静けさに包まれていた。
白砂は霜をまとい、深く張り出した軒から落ちる雫は、凍りつく寸前の重さでぽたり、ぽたりと音を刻む。国豊はその音に背を押されるように目を覚ました。
浅葱の袴を整え、白い単衣の襟を正し、総角を結び直す。冬の冷気で指先はかじかんでいたが、幼い灯が自ら燃えようとするように、国豊は黙って身支度を進めた。
廊を歩くと、女房たちが炭櫃を囲みながら支度をしていた。
「まあ、若君様は、今日もお早いこと」
「寒いでしょうに、ほんにしっかりしておられるね」
国豊は恥ずかしそうに会釈し、頬を赤らめた。
その姿は、霜夜にほのかに揺れる灯のように、まだ小さいが確かな温もりを宿していた。
清涼殿に着くころ、空は白み始めていた。冬の宮中は、夏のために開放的に造られた寝殿造りゆえ、ほとんど屋外のように冷える。白木の柱は冷たく、御簾の向こうから漂う沈香の香りも、どこか硬く澄んでいた。
殿上の間には衣擦れの音が満ち、国豊の最初の役目である灯火の準備が始まる。
油を注ぎ、灯芯を整え、火を入れると、小さな炎がふっと揺れた。
「上手になったねえ」
年配の女官が微笑む。国豊はまた耳朶まで赤くした。
その炎は、まるで国豊自身のように、寒さの中で微かに、しかし確かに息づいていた。
主上の御前に供する湯水の支度も、童殿上の大切な務めだ。冬は湯の温度がすぐに下がるため、国豊は何度も手を添えて確かめる。
ある朝、主上が軽く咳をした。国豊はすぐに気づき、湯の温度を少し上げて差し出した。
「まあ……気が利く上童だこと」
「忠平さまが目をかけるわけだわ」
女房たちの囁きが、国豊の背にそっと温かさを落とした。
午前の儀式が終わると、国豊は学問所へ向かう。和歌、漢詩、書道、礼法、そして笛や琴の稽古。筆を持つ手は小さいが、線はまっすぐで迷いがない。礼法の稽古では、師匠が驚くほど早く所作を覚えた。
「若君は筋がよい。将来が楽しみだ」
国豊は深く頭を下げた。
その胸の奥で、小さな灯がひとつ、またひとつと強さを増していくようだった。
午後になると、国豊は再び清涼殿へ戻り、取次や雑務に走り回る。童殿上は「走る」のが仕事だ。文を運び、湯水を整え、時には皇女のもとへ文を届けることもあった。
「国豊、今日もありがとう」
皇女が微笑むと、国豊は驚き、畏れながらも、その温もりに胸がじんとした。
宮中の冷たさの中で、こうした優しさは、灯を守る風除けのように感じられた。
夕刻、主上の御膳の給仕を終えるころには、国豊の足は棒のようになっていた。それでも姿勢を崩さず、器の向きを揃え、主上が手を伸ばしやすい位置に置く。
「丁寧な小舎人だ」
殿上人の一人が呟いた。
国豊は聞こえぬふりをしたが、胸の奥が熱くなった。
そして夜――冬の宮中は、昼よりもさらに厳しい。殿上の間の板敷は冷え切り、息を吐けば白くなる。国豊は筵を敷き、その上に自分の衣を重ねて寝床とした。枕は木の台で、硬い。温石を懐に忍ばせても、寒さは容赦なく体に染みた。
それでも国豊は、眠る前に必ず母のことを思い出す。
宇治の木幡の別邸、朝霧、母の手の温もり。
「負けぬように」
小さく呟き、衣を肩まで引き寄せた。
その姿は、霜夜に息づく若い灯そのものだった。
その夜、廊の陰から忠平がそっと国豊を見ていた。筵にくるまり、寒さに耐えながら眠る小さな背中。
「……よう励んでおる。」忠平は目を細めた。人の見ていないところで努力する子こそ、本物だ。この若灯は、きっと大きく燃え上がる――
忠平の胸には、静かな誇りと期待が満ちていた。
そのとき、清涼殿の屋根の向こう、冬空の雲がわずかに裂け、細い月光が廊下に差し込んだ。冷たい光は、眠る国豊の頬を淡く照らし、その影は、先ほどよりもわずかに長く伸びていた。
忠平はその影を見つめ、静かに息をついた。
「影が伸びるは、灯明が強くなる兆しよ」
古くから宮中に伝わる言葉が、ふと胸に浮かんだ。
霜夜の冷気はなお厳しい。
だが、その只中で、小さな灯は確かに息づき、明日へ向けてほんの僅かに、しかし確かに、燃え盛る兆しを示していた。




