帰るべき場所
しばらく、誰も話さなかった。
地下には装置の低い音だけが響いている。
男は壁にもたれ、目を閉じていた。
「……俺は」
やがて、男が言った。
「本当に、おかしくなったんだろうか」
独り言のようだった。
「大切だった人を、前ほど大切だと思えなくなるなんて……」
俺は装置へ視線を戻した。
「俺には、あんたの過去は分からない」
男は黙って聞いている。
「でも、大切だったってことは覚えてるんだろ」
「ああ」
「だったら、忘れたわけじゃない」
「……」
「一緒にいたことも、話したことも。大切だったことも、ちゃんと知ってる」
俺は少し考える。
「ただ、同じ気持ちをずっと持ち続けられるとは限らない」
男の表情が固まった。
「そんなこと……」
「俺だって分からない」
俺は自分の胸に手を当てた。
ここには、今まで取り込んできた記憶がある。
自分のものではない、たくさんの記憶。
「でも、それで全部が消えたわけじゃない」
男が俯く。
「俺は……」
小さく息を吐く。
「自分のせいだと思いたくなかった」
今度は、はっきり聞こえた。
「だから、理由が欲しかった」
昔の記録。
鐘。
装置。
町の人々。
全部を使って、自分の考えを証明しようとした。
「そうすれば、俺は悪くないと思えた」
男は笑った。
今度の笑いには、自嘲が混じっていた。
「俺はずっと、探していたんだ」
「何を?」
「失ったものを戻す方法を」
男は装置を見る。
「でも、見つからなかった」
俺は装置に手を置いた。
取り込んだ記憶が、まだ自分の中に残っている。
「……なら、終わりにしよう」
「何をする」
「鐘を止める」
男が顔を上げた。
「装置も止める。もう、これ以上は集めない」
「だが、それだけじゃ……」
「ああ」
俺は頷いた。
「町の人たちは戻らない」
鐘を止めても。
装置を止めても。
一度切り離されたものが、自動的に元へ戻るわけではない。
そこまでは、もう分かっている。
「だから、返す」
男が目を見開いた。
「返す?」
「ああ」
俺は自分の中を意識する。
ここにある。
町の人たちが積み重ねてきた時間が。
大切にしていたものが。
誰かを思った記憶が。
「一度だけできたことがある」
理屈は分からない。
どうしてできたのかも。
それでも、確かにできた。
「だから今回も、できるはずだ」
フィアが俺を見る。
「レオンさん……」
「大丈夫」
そう言って、俺は装置から手を離した。
そして、男へ近づく。
「……何をする」
「少しだけ、触らせてくれ」
男は戸惑ったように俺を見る。
けれど、拒まなかった。
俺は男の肩に手を置いた。
その瞬間。
記憶が流れ込んできた。
古い家。
窓から差し込む夕方の光。
誰かと並んで食べた食事。
笑い声。
何気ない会話。
何度も繰り返した、ありふれた日々。
そして――その人がいなくなった後の時間。
俺は、男の記憶を見た。
消えてなんかいない。
そこに、ちゃんと残っている。
「……ある」
男がわずかに眉を動かした。
「何が……」
「残ってる」
俺は男を見る。
「全部じゃない。今までと同じようには感じられないのかもしれない」
それでも。
「でも、なくなってない」
男の表情が揺れた。
「一緒にいたことも、話したことも、笑ったことも」
俺は手を離さない。
「ちゃんと、あんたの中に残ってる」
「……」
「だから、なくなったわけじゃない」
男は何も言わなかった。
握りしめていた拳が、少しずつ緩んでいく。
「俺には……」
男の声が震えた。
「もう、何も残っていないと思っていた」
「違う」
俺は静かに言った。
「残ってる」
それだけだった。
男は俯いた。
長い沈黙のあと、ようやく小さく息を吐く。
「……俺には、できなかった」
その声は小さかった。
「何が?」
「失ったものを、取り戻すことが」
俺は答えなかった。
ただ、男の肩から手を離す。
そして、地下の奥に残された装置を見る。
「だったら、今度は俺がやる」
俺は立ち上がった。
「鐘を止める」
男は顔を上げた。
「それから、この装置も止める」
俺は階段へ向かう。
「そして――」
一度だけ、振り返った。
「みんなに返す」
男は何も言わなかった。
ただ、もう止めようとはしなかった。
握りしめていた手も、いつの間にか開いている。
長い間、誰かの記憶との繋がりを切り離してきた鐘。
その音を、今度こそ止めるために。
俺たちは、地下を後にした。




