失われたもの
俺は、装置に手を触れたまま動けずにいた。
取り込んだ記憶が、まだ身体の中を流れている。
町の人たちが過ごしてきた時間。
家族と笑ったこと。
仕事を覚えた日のこと。
誰かに言われた何気ない一言。
どれも、特別なものには見えない。
けれど、その人にとってはかけがえのないものなのだろう。
俺がそう考えていたときだった。
「……何をしている」
背後から声がした。
フィアが息を呑む。
俺はゆっくり振り返った。
そこに、一人の男が立っていた。
「その装置から離れろ」
男が言った。
「嫌だと言ったら?」
「……邪魔をするな」
思っていたよりも強い声だった。
俺は装置から手を離さない。
「これを動かしているのは、あんたか?」
男は答えなかった。
代わりに、地下の奥へ視線を向ける。
そこには、これまで集められてきた記憶がある。
「……そうだ」
しばらくして、男は認めた。
「俺が、この装置を動かした」
フィアが一歩前に出る。
「どうして……? みんなが苦しんでいるのに」
「分かっている」
「分かっていて、続けていたんですか?」
「……ああ」
男は目を伏せた。
その顔には、悪びれる様子がなかった。
けれど、何かを言い訳するような顔でもなかった。
ただ、自分でも答えを見失っているように見えた。
「俺は最初から、こんなことをするつもりだったわけじゃない」
「じゃあ、何のために?」
俺が聞く。
男はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……昔、大切な人を亡くした」
それだけだった。
名前も。
いつのことなのかも。
どんな人だったのかも言わない。
「最初の頃は、何をしていても思い出した」
男はこぶしを固く握り締めた。
「一緒に食事をしたことも、くだらないことで笑ったことも、最後に話したことも。何度も思い出した」
声は静かだった。
「けれど、何年か経つと、それが少しずつ変わっていった」
男は顔を上げる。
「記憶が薄れていく」
その声は先ほどまでと違い、頼りないものだった。
「何を話したのかも、どんな顔をしていたのかも。……前ほど、何も感じなくなった」
フィアが黙る。
俺も口を挟まなかった。
「悲しくなくなった」
男が言った。
「会いたいとも思わなくなった。大切だったはずなのに、その大切だったという気持ちが、少しずつ薄れていった」
男は自分の胸元を押さえた。
「俺は、それが許せなかった」
その言葉だけが、妙に強かった。
「時間が経てば仕方がない。そんなふうに言う人もいた」
男は笑った。
「でも、俺には受け入れられなかった」
――自分の中で何かがおかしくなっている。
そう思った。
大切だった人なのに。
あれだけ悲しかったはずなのに。
どうして、こんなにも何も感じなくなるのか。
「俺は、自分がおかしくなったんだと思いたくなかった」
男はそう言って、持っていた紙を見る。
「だから調べた」
古い記録。
記憶について書かれた本。
人の感情について書かれた資料。
そういうものを、何年も探した。
「その途中で、この町の記録を見つけた」
俺は地下の壁を見る。
そこに刻まれた古い文字。
「記憶は残っているのに、大切だったという感覚だけが失われる」
男が呟いた。
「俺のことが書かれているのかと思った」
「……違う」
「何?」
「それは、あんたのことじゃない」
男が俺を見る。
「昔、この町で起きたことだ」
「分かっている」
男は静かに答えた。
「だからこそ、俺は確かめたかった」
男の目が、地下の装置へ向く。
「この鐘が本当に、人から記憶そのものではなく、その記憶との繋がりだけを切り離せるのか」
俺は気づいた。
「……自分の考えが正しいって証明したかったのか」
「そうだ」
男は頷いた。
「俺だけがおかしくなったわけじゃない。何か原因がある。そう思いたかった」
だから、古い仕組みを調べた。
使われなくなっていた鐘と装置を見つけた。
残されていた記録を読み、仕組みを動かせる状態に戻した。
そして――。
「鐘を鳴らした」
「ああ」
「町の人たちに、同じことが起きた」
「……そうだ」
男の表情がわずかに変わった。
「記憶は残った。だが、そこにあったはずの気持ちだけが薄れた」
それは、男にとって証明だった。
自分だけがおかしかったわけではない。
自分のせいでもない。
そう思える証拠だった。
「最初は、それだけでよかった」
男は言った。
「本当に同じことが起きると分かれば、それで終わるはずだった」
「だったら、どうして続けた?」
「……分からなかったからだ」
男の声が小さくなる。
「どうしたら一度失くしたものを取り戻せるのか。それを調べたかった」
装置に集まったものを調べた。
記憶を一つずつ確かめた。
それでも、自分の中から消えていった感覚が戻ることはなかった。
「だから、もっと必要になった」
もう少し。
あと少し。
もっと多くの記憶を集めれば。
もっと調べれば。
自分が失ったものの正体が分かるかもしれない。
「でも……戻す方法は見つからなかった」
男は呟いた。
その声には、初めて疲れが滲んでいた。
「どれだけ集めても、どれだけ調べても」
男は装置を見る。
「何も戻らなかった」
俺はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開く。
「だったら、もう止めるべきだ」
「……できなかった」
「なぜ?」
「止めたら、全部無駄になる」
その言葉を聞いて、俺は男を見る。
「違う」
「何がだ」
「あんたはただ、止めるのが怖いだけだ」
男は答えなかった。
「でも、そのために今度は町の人たちが、あんたと同じものを失ってる」
「……」
「自分のせいじゃないって確かめるために」
俺は地下に集められた記憶を見る。
「他の人まで巻き込んだんだ」
男の顔が歪んだ。
けれど、反論は返ってこなかった。




