残された記憶
最初に向かったのは、昨日のパン屋だった。
店の前には、今日も看板が出ている。
パンを焼く。
売る。
客に声をかける。
仕事そのものは、昨日と変わっていない。
ただ。
「いらっしゃいませ」
女性の声にも、どこかよそよそしさがあった。
俺たちを見ると、少し困ったように笑う。
「昨日も来てくれましたよね」
「ああ」
「何か分かりましたか?」
俺は少し迷ってから尋ねた。
「昨日、鐘が鳴る前に誰か来なかったか?」
女性は首を傾げた。
「誰か……?」
「客でも、知り合いでもいい」
「そう言われても……」
女性は考え込む。
「昨日は、普通に仕事をしていただけだったと思います」
「本当に?」
「はい」
やっぱり覚えていない。
俺は店内を見回した。
棚。
机。
パンを入れる木箱。
昨日触れた木箱が、壁際に置かれている。
俺はそこへ近づいた。
「触ってもいいか?」
「はい」
手を置く。
記憶が流れ込んできた。
朝。
まだ暗い店内。
女性が一人でパンを焼いている。
小さな子供が眠そうな顔で店の奥から出てくる。
『お母さん、今日も焼くの?』
『うん』
女性が笑う。
そして、木箱に焼きたてのパンを入れる。
何度も繰り返してきた朝。
その途中。
扉が開いた。
知らない男が入ってくる。
顔は、はっきりしない。
女性と何か話している。
俺はもっと深く記憶を追おうとした。
けれど。
そこで途切れた。
手を離す。
「……」
「何かありましたか?」
フィアが尋ねる。
「昨日見た記憶と同じだ」
「店を大切にしていた記憶ですか?」
「ああ」
俺は木箱を見る。
「でも、その前に誰かが来てた」
「本当ですか?」
「ただ、顔は分からない」
記憶がそこだけ曖昧になっている。
まるで、そこだけ切り取られたようだった。
「カイルが言ってたことと同じですね」
「ああ」
俺は店を出た。
次に向かったのは、鍛冶屋だった。
昨日会った男は、今日も炉の前に立っていた。
「おじさん」
フィアが声をかける。
「店に来た男のこと、少し聞きたいんです」
「男?」
男は考え込む。
「どんな人ですか?」
「分からない」
「何を話したかは?」
「それも……」
男は自分の頭を押さえた。
「思い出せん」
俺は黙った。
パン屋と同じだ。
誰かが来た。
でも、その記憶だけが抜け落ちている。
いや。
正確には、抜け落ちたのは「誰が来たか」という部分だけではない。
その人物と話したこと自体が、本人から切り離されている。
「レオンさん」
フィアが小さく言った。
「これって……」
「ああ」
俺は頷く。
「鐘が鳴ったあとだけじゃない」
男を見る。
「その前から、何かが始まってる」
鍛冶屋を出る。
俺たちはその後も町の中を歩き、鐘の影響を受けた人たちに話を聞いた。
けれど、結果は同じだった。
誰も、その前に何があったのかを覚えていない。
訪ねてきた人物について聞いても、曖昧な答えしか返ってこない。
まるで、その部分だけが抜け落ちている。
夕方になり、俺たちは宿へ戻った。
フィアは疲れたのか、椅子に座ったまま小さく息を吐いた。
「……手掛かり、増えませんでしたね」
「ああ」
俺は窓の外を見る。
町は静かだった。
鐘も、まだ鳴っていない。
「おかしいですね」
フィアが呟いた。
「記憶がなくなったわけじゃないのに、どうして本人だけ……」
「俺にも分からない」
俺は自分の手を見る。
今日、いくつもの物に触れた。
そのたびに、誰かの記憶が俺の中へ入ってきた。
娘の笑い声。
母親の手。
鍛冶屋の炎。
パンの匂い。
どれも消えてはいない。
むしろ、俺の中には残り続けている。
「……誰かが、間に何かを入れてるのかもしれない」
「間に?」
「ああ」
記憶と、その人の間に。
けれど、それ以上は分からなかった。
「カイルさんに聞いてみるのはどうでしょう」
フィアが言った。
「俺もそう思ってた」
あいつは、この町を調べている。
俺たちが気づいていないことを知っているかもしれない。
だが。
「どこにいるか分からないな」
「昨日みたいに探しますか?」
「ああ、そうするしかないな」
俺はベッドに腰を下ろした。
そして、ふと王都での旅を思い出した。
あのときも。
俺の中には、たくさんの記憶があった。
自分のものじゃない記憶。
それでも、俺の中に残っていた。
そして最後に。
俺は、それを人に返した。
どうやったのかは、今でも分からない。
何をしたのかも、正確には説明できない。
ただ。
あのとき、確かにできた。
「……返す」
小さく呟く。
今の俺なら、何か違うことができるのだろうか。
まだ分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
記憶は消えていない。
なら。
この町で起きていることも、どこかに残っているはずだ。
俺は目を閉じた。
明日は、カイルを探そう。
あいつが何を知っているのか。
そして。
鐘が鳴る前に、この町で何が起きているのか。
それを確かめるために。




