失われた記憶
鐘の音が、町に響いていた。
カン――。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
カン――。
さっきまで道を歩いていた人たちは、足を止めていた。
店先にいた男も。
荷車を押していた女も。
遊んでいた子供たちも。
誰もが不安そうに辺りを見回している。
「……また鳴ったな」
俺が言うと、隣にいたフィアが頷いた。
「はい」
「この鐘が鳴ると、誰かが何かを忘れるんだったな」
「そうです」
フィアは鐘の音がした方向を見る。
町の向こう。
建物の屋根の間から、古い石造りの塔が見えていた。
「あそこです」
「あれが鐘楼か?」
「はい」
俺は塔を眺めた。
それほど大きくはない。
町の外れに建っている、古い鐘楼だ。
「行ってみよう」
「はい」
俺たちは鐘楼へ向かった。
昨日会ったパン屋の女性。
今日会った鍛冶屋。
二人とも、仕事そのものは覚えていた。
ただ、その仕事を続けてきた理由だけが分からなくなっていた。
パンを焼く。
剣を作る。
それは覚えている。
なのに、なぜそうしているのかが分からない。
俺は歩きながら考えていた。
あれは、本当に「忘れた」と言っていいのだろうか。
「レオンさん」
「ん?」
「どうしたんですか?」
「少し気になってる」
「何がです?」
「昨日のパン屋の木箱から、店を大切にしていた記憶が残ってた」
「はい」
「今日の鍛冶屋の金槌にも、父親らしい人との記憶が残ってた」
「それが……?」
「本人が忘れたものが、物には残ってる」
フィアが黙る。
「だから、消えたわけじゃないと思う」
「じゃあ、どこへ?」
「それを調べる」
それ以上は話さなかった。
しばらく歩くと、鐘楼の前に着いた。
近くで見ると、かなり古い。
石の壁には苔が生え、木製の扉も傷んでいる。
扉には鍵が掛かっていなかった。
「入るぞ」
「はい」
扉を開ける。
ギィ、と乾いた音が響いた。
中は薄暗かった。
小さな窓から光が差し込んでいるが、昼間でも少し肌寒い。
壁際には古い木箱がいくつか置かれていた。
中央には、上へ続く階段がある。
「誰もいないな」
「町の人も、ここにはほとんど来ないそうです」
「鐘を鳴らす人は?」
「いないはずです」
「なのに鳴る」
「……はい」
フィアの声が小さくなる。
俺は階段を見上げた。
「上へ行こう」
階段を上る。
古い木が、ぎしぎしと音を立てる。
最上階まで上がると、大きな鐘が吊るされていた。
金属の表面には、長い年月でできた傷がいくつも残っている。
鐘の下には、紐が垂れていた。
「これで鳴らすのか?」
「たぶん」
俺は紐を見る。
けれど、動かされた形跡はない。
「さっき鳴ったときも?」
「誰も触っていません」
俺は鐘に近づいた。
手を伸ばす。
触れる。
――何も感じない。
昔は使っていたらしいが、今回のことに関する記憶は残っていない。
「鐘には何もない」
「そうですか……」
フィアが少し残念そうに言った。
俺は鐘から手を離した。
鐘そのものに何かがあるわけじゃない。
なら、調べるべきなのは別の場所だ。
鐘が鳴ったあと。
何が起きているのか。
俺は一階へ戻った。
木箱を一つずつ確認する。
古い道具。
切れた紐。
蝋燭。
どれも長い間使われていないようだった。
そのとき。
「レオンさん」
「ん?」
フィアが壁際を指差した。
「これ……」
床に、紙が一枚落ちていた。
拾い上げる。
何度も折り畳まれた跡がある。
開いてみると、そこには短い言葉だけが書かれていた。
――忘れたものを、ここへ。
「……何でしょう?」
「分からない」
紙を裏返す。
何もない。
俺はその言葉をもう一度見た。
忘れたものを、ここへ。
そのときだった。
背後で、ガタン、と音がした。
「……!」
フィアが振り返る。
さっき確認した木箱が倒れていた。
「風でしょうか?」
「窓は閉まってる」
俺は箱を起こした。
散らばったものを拾い上げていく。
その中に、古い布袋があった。
持ち上げると、ずしりと重い。
「何か入ってます」
「開けてみよう」
袋の口をほどく。
中には、折り畳まれた紙が何枚も入っていた。
一枚を取り出す。
名前が書かれている。
知らない名前だった。
もう一枚。
また別の名前。
横には日付が書かれている。
「これ……」
フィアが紙を覗き込んだ。
「町の人の名前じゃないですか?」
「ああ」
何枚か確認する。
そして、その中に見覚えのある名前を見つけた。
「昨日のパン屋だ」
「本当ですか?」
「ああ」
名前の下には、短い言葉が書かれている。
――パンを焼く。
別の紙には、
――剣を作る。
さらに別の紙には、
――息子を待つ。
フィアが首を傾げる。
「何の記録でしょう?」
「分からない」
俺も紙を見つめる。
名前と、行動。
それだけだ。
けれど、パン屋の女性も鍛冶屋も、今まさにそこに書かれていることをしている。
俺は一枚の紙を手に取った。
指先が触れる。
――記憶が流れ込んできた。
暗い部屋。
机。
その前に座る誰か。
机の上には紙が並んでいる。
一枚を手に取り、袋へ入れる。
その人物は、黙々と同じ作業を繰り返していた。
やがて、鐘の音が聞こえる。
カン――。
人物が顔を上げる。
そして、机の上の紙を見る。
そこには、新しく一枚の紙が置かれていた。
名前。
その下に、短い言葉。
人物はそれを拾い上げ、袋へ入れた。
そこで、記憶が途切れた。
「……」
俺は紙から手を離した。
「何か分かりました?」
フィアが尋ねる。
「少しだけ」
俺は袋の中を見る。
「この紙は、鐘が鳴った人について書かれてる」
「鐘が鳴った人?」
「ああ」
俺はパン屋の名前が書かれた紙を見せた。
「昨日、パン屋の人が大切にしていたものが抜けた」
「はい」
「そのあと、この紙がここにある」
フィアが息を呑む。
「じゃあ……」
「まだ分からない」
俺は言葉を続ける。
「でも、この記憶を見る限り、昔も同じことが起きてた」
鐘が鳴る。
誰かが何かを失う。
その人の名前が、この場所に残される。
俺は紙に書かれた言葉を見る。
「この鐘は、ただ何かを忘れさせてるんじゃない」
「え?」
「人が大切にしていたものの、その理由を抜き取ってる」
フィアが紙を見る。
「理由……」
「ああ」
だから、みんな行動そのものは覚えている。
パンを焼いていたことも。
剣を作っていたことも。
家族の名前も。
でも、その奥にあった「なぜ」がなくなっている。
俺は紙の束を見た。
「そして、抜けた理由はここに集められてる」
フィアが黙って紙を見る。
しばらくして、彼女が小さく呟いた。
「……忘れたものを、ここへ」
「ああ」
最初に見つけた紙の言葉。
ようやく意味が繋がった。
人々から抜き取った記憶。
それを、この鐘楼に集めている人間がいる。
カン――。
突然、鐘が鳴った。
俺とフィアは顔を上げる。
鐘は動いていない。
紐も揺れていない。
それでも、音だけが鐘楼の中に響いた。
俺は手の中の紙を見る。
一番上にあった何も書かれていない紙に、ゆっくりと文字が浮かび上がっていく。
そしてまた一人。
大切な理由を失った。
その理由は、今ここに送られてきた。
「……間違いないな」
「はい」
フィアが頷く。
俺は紙を袋へ戻した。
誰がこんなものを作ったのか。
集めた理由を何に使うのか。
そこまでは、まだ分からない。
俺は鐘楼の外へ出た。
夕暮れの町を振り返る。
さっきまで歩いていた人たちの中に、また一人。
自分が何を大切にしていたのか分からなくなっている人がいる。
俺は鐘楼を見上げた。
「次は、誰が鳴らしてるのかだな」
隣で、フィアが頷いた。
「はい」
あの鐘の音の向こうに、何があるのか。
調べなければいけないことは、まだまだありそうだった。




