規制は、根本的な解決にはならない
ただし、楽観はできない。
規制が広がることは、一定の意味がある。
プラットフォームに設計の責任を問うことは、正しい方向だ。
未成年をターゲットにした依存設計に、法的な歯止めをかけることには価値がある。
しかし、SNSを禁止することが、必ずしもSNS依存そのものを解消するわけではない。 SNSによって満たされてきた承認欲求や交流の刺激は、別のデジタル手段へと移行する傾向がある。
つまり、規制は「入口を閉める」ことはできる。
だがしかし、人間の脳の性質そのものは変わらない。
ドーパミンは期待に反応し続ける。間欠強化の構造は、どこにでも適用できる。承認の予感は、SNSが消えても別の形で現れる。
しかも、規制が届きにくい問題がある。
一つは、フィルターバブルだ。
人が一度気にしたもの、立ち止まったもの、反応したものに近い情報を、アルゴリズムは繰り返し返してくる。
似た考え、似た怒り、似た不安が重なると、人は偏った情報の中にいるという自覚がないまま、「何度も見た」「みんなそう言っている」という感覚を育てていく。
事実が強いから信じるのではない。繰り返し目にしたから、現実味が増していく。
これは一つのプラットフォームを規制しても、別のプラットフォームで同じことが起きる。
もう一つは、ディープフェイクだ。
映像や音声の偽装技術が危険なのは、単に偽物を本物らしく見せるからではない。
人がすでに信じかけていた物語に、「証拠らしいもの」を与えてしまうからだ。
人は証拠を見て信じるのではない。
信じたい話に映像や音声が与えられたとき、一気に確信へ滑り落ちる。
フィルターバブルもディープフェイクも、法律で入口を閉じることはできない。
なぜなら、利用しているのは人間の脳の性質そのものだからだ。
だから、規制は必要だが、それだけでは足りない。
規制の外側で、一人ひとりが持つ知識と実践が、最後の防衛線になる。




