高度洗脳社会という名前
ここで私は、あえて強い言葉を使いたい。
現代は、単なる情報社会の延長ではなく、高度洗脳化社会へ移りつつあるのではないか、と。
洗脳という言葉には、どうしても抵抗があると思う。
命令、暴力、思想改造。 そうした古いイメージが強いからだ。
けれど、いま進んでいるのは、そういう露骨な支配ではない。
もっと静かで、もっと日常的な変化である。
快楽、利便性、承認、反復、最適化。
そうした心地よいものを通じて、人は無意識に近いところで反応し、続け、選び、やがてそれを「自分で決めた」と感じるようになる。
こうした違和感を、フィクションはときどき現実より先に描く。
『ユア・フォルマ』では、人間の内面に接続し、反応や記憶や選択に関与しうる技術が描かれていた。
『BEATLESS』における「アナログハック」という発想も近い。
人を無理やり動かすのではなく、環境や条件を整えて、自然にある方向へ行動や認識を流していく。
かつてはSF的な想像力だったものが、いまでは現実の設計思想と不気味なほど重なって見える。
留意すべきは、こうした仕組みの多くが、競争、利便性、効率、継続率、収益性といった、ごく普通の合理性の延長で強化されてきたことにある。
誰かが世界を支配しようと企んだからではない。
長く見てもらえるほど得になる。 使いやすいほど離れにくくなる。
便利なほど手放しにくくなる。 その積み重ねの結果として、ここまで来てしまった。
だからこそ、軽い言葉では足りない。




