補助具を使いこなす主体は、自分だ
アドラー心理学もニーチェの哲学も仏教の教えもサルトルの実存主義も、そして生成AIもマーケティング心理学も。
これらはすべて、ある共通点を持っている。
使いこなす主体が自分でなければ、意味をなさない。
アドラーを妄信すれば、目的論という新しい縛りになる。
仏教に依存すれば、現実から逃げる言い訳になりうる。
生成AIに頼りすぎれば、自分で考える力を外に預けることになる。
マーケティング心理学を知っても、それを使って人を操る側に回れば、本書が批判してきた構造を自分で再生産することになる。
道具は、使う人間の意図で意味が変わる。
だから私は、一つの思想を「これが正解だ」と言い切りたくない。
本書でアドラーを紹介したのも、仏教に触れたのも、ニーチェを引いたのも、「これを信じろ」という意味ではない。
自分という実存を定義していくための、選択肢を渡したかったからだ。
選択肢は多いほどいい。 自分に合うものを試して、合わなければ置いて、また別のものを手に取る。 その過程そのものが、自分を定義していく作業だ。
ブレインハックは、その選択肢を狭める方向に働く。 同じものを見続けさせる。同じ反応を繰り返させる。同じ不安を刺激し続ける。
だから、選択肢を意識的に広げることが必要だ。 思想も哲学も心理学も技術も、広げるための道具として使う。
そしてその道具を選ぶのも、組み合わせるのも、捨てるのも、自分だ。




