注意はもう、奪い合われている
気になる音がすればそちらを見る。動くものがあれば目で追う。新しい情報があれば反応する。
それ自体は、人間として自然なことだ。
けれど今は、その自然な揺れやすさが、ただの性質では済まなくなっている。
注意は、放っておけば散るものではない。今では、奪い合われるものになっている。
1969年、ハーバート・サイモンは、情報が増えすぎた社会では、人々の「注意」そのものが希少な資源になると述べた。
半世紀以上前の見通しは、いまではかなり現実的なものになった。
総務省の情報通信白書も、プラットフォーム企業が利用者の時間と注意をできるだけ長く引きつけるために、データを使って「最も反応しやすいもの」を予測していると指摘している。
要は注意はただ散りやすいものではなく、価値を生む資源として扱われている。
誰かに長く見てもらえれば得になる。途中で離れられなければ利益になる。もう一度戻ってきてもらえれば価値になる。
だから、放っておいても守られることはない。価値があるものは、取りに来られる。
その変化は、目に見えにくい。 お金のように手元からなくなるわけではない。
しかし実際には、注意を向けた分だけ、他のことに向ける力は削られていく。
何かを見たあと、頭の中にその残りが居座る。 一つのことに戻ろうとしても、さっき見た刺激が邪魔をする。
集中したいのに落ち着かない。考えたいのに、思考が浅いところで切れてしまう。
注意が奪われるというのは、ただ目を引かれることではない。
そのあとに使うはずだった思考の力まで、少しずつ削られていくということでもある。
見落としたくないのは、注意を奪うものの多くが、必要な情報や楽しいものの顔をして現れることだ。
役に立ちそう。少しくらいなら大丈夫。今見ておいたほうがいいかもしれない。
そう思わせるものほど、強く入り込んでくる。
ここで重要なのは、注意が足りない自分を責めることではない。
大事なのは、注意がいまや価値を生むものとして扱われていると知ることだ。
注意は、ただ散りやすいものではない。
いまでは、囲い込まれ、価値に変えられ、奪い合われるものになっている。




