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第八話 声を渡す峠

 影平で増えた九秒間の音声を、及川は翌朝までに十七回解析していた。


 佐伯が支局へ入ると、窓際の机にはヘッドホンと音声編集用の端末が広げられ、同じ波形が三段に分けて表示されていた。


 一段目は、真木野車庫で収録した原音。


 二段目は、水上の節が加わった後のもの。


 三段目は、影平から戻る途中で九秒間延びた音声だった。


「聞いてください」


 及川は佐伯へヘッドホンを差し出した。


 五人の子どもの声が流れる。


 続いて、水上の一節。


 その後に、影平の歌が三人の声で受け渡される。


「夕影を……」

「里にとどめて……」

「山を越ゆ……」


 そこまでは昨日、車内で聞いている。


「この後です」


 及川が再生位置を数秒戻した。


 老女の声が「山を越ゆ」と歌い終える。


 その直後、ごく小さな呼吸音が入っていた。


 息を吸い込む音。


 さらに、誰かが遠くから一度だけ呼んでいる。


「佐伯さん」


 及川の声に似ていた。


 しかし録音時、及川はその言葉を口にしていない。


「私の声ではありません」


「似ている」


「声紋を比べました。私の声ではない。でも、周波数も話し方も、かなり近い」


 及川は別の画面を開いた。


「それより、こちらの方が問題です」


 影平の節が追加された瞬間の波形だった。


 佐伯は車内で、唇を閉じたまま「夕影を」という自分の声を聞いた。


 その声は、ダッシュボードのスピーカーから流れていた。


 ところが録音データ上では、再生機器から出た音として記録されていない。


「車内の反響がありません。スピーカーから流れた声なら、ガラスやダッシュボードに反射した成分が入ります。でも、これはマイクへ直接入っている」


「俺が話したということか」


「佐伯さんは口を開いていませんでした」


「では、どこから録れた」


 及川は波形の先頭を指した。


「本来なら、佐伯さんが声を出す位置です」


 声帯の振動を拾ったような低い成分がある。


 それにもかかわらず、及川の目には、佐伯の喉も唇も動いていないように見えた。


「影が歌ったとでも?」


 佐伯が言うと、及川は冗談として受け取らなかった。


「少なくとも、声だけが身体とは別の場所にありました」


 佐伯はヘッドホンを外した。


 机の端に置かれた携帯電話が振動した。


 遠守市教育委員会から届いたメールだった。真木野中学校の文化祭に関する追加資料の所在が判明したという。


 昭和六十三年当時、国語科教諭として全校郷土研究に関わった小田島和江が、個人で音声資料を保管している可能性がある。


 現在の住所は、鳥越集落。


「三田園先生と一緒に、歌をまとめた教師です」


 及川が人事記録を確認した。


「現在七十二歳。平成二十二年に退職。真木野村出身で、旧姓も小田島です。鳥越で生まれて、そのまま地元の学校に勤めています」


「連絡は」


「昨日のうちにしました」


「話すと言ったのか」


「最初は、文化祭に関わった覚えがないと」


 佐伯は及川を見た。


「それでも、納戸に当時のカセットテープがあるそうです。なぜ自分が持っているのか分からない、と言っていました」


 及川は端末を閉じた。


「午後なら会うそうです。ただ、一つだけ条件があります」


「録音するな?」


「名前を呼ばれても、返事をしないでほしいと」


          *


 鳥越は、五集落の中で最も高い場所にあった。


 道は集落へ入る直前に大きく曲がり、左右を切り立った斜面に挟まれながら、狭い峠へ上っていく。かつては真木野村と隣町を結ぶ荷運びの道だったが、麓に新しい県道が開通してからは、鳥越の住民以外が通ることはほとんどない。


 峠の手前で車の窓を開けると、遠くの沢音が聞こえた。


 実際の沢は、山を二つ隔てた場所にある。地図で確認していた及川が、不思議そうに窓の外を見た。


「音が上がってきているんでしょうか」


 佐伯は速度を落とした。


 沢音に混じり、誰かが話している。


 言葉までは聞き取れない。老若の区別もつかない。斜面の上と谷底から、異なる声が同時に届いているようだった。


 道が峠へ近づくにつれて、声は明瞭になった。


「……真帆」


 及川が身体を固くした。


 女の声だった。


 母親が子どもを呼ぶような、柔らかな声だった。


「返事をするな」


 佐伯は言った。


 及川はうなずいた。


 今度は反対側の杉林から声がした。


「及川真帆」


 姓まで知っていた。


 及川の手が、膝の上で強く握られる。


 声は一度遠ざかった。


 その直後、佐伯の背後から、本人と同じ声が聞こえた。


「無視していい」


 佐伯はハンドルを握ったまま、後部座席を見なかった。


 自分は、その言葉をまだ口にしていない。


 及川がゆっくりと佐伯へ顔を向ける。


「いまのは」


「俺じゃない」


 数秒後、口の中に同じ言葉が浮かんだ。


 無視していい。


 言おうとしていた言葉だった。


 自分の声が、本人より先に話した。


 峠を越えると、声は急に途絶えた。


 鳥越集落は、山の尾根に沿って細長く延びていた。


 家々は道路を挟んで向かい合うように建ち、軒先には小さな金属製の筒や、割れた竹が吊るされている。風鈴ではない。風が吹いても音は鳴らず、筒の口はすべて峠の方角へ向けられていた。


「昔の呼び筒です」


 小田島和江は、玄関先で二人を迎えると説明した。


「向こうの斜面にいる人へ声を届けるために使ったと聞いています」


 白髪を短く整え、薄い灰色の上着を着ていた。背筋は伸びているが、話すときに相手の顔ではなく、口元を見る癖がある。


「今も使うんですか」


 及川が尋ねた。


「使いません」


 和江は道路の向こうにある竹筒へ視線を移した。


「でも、外すと家の中で声がするので、そのままにしています」


 二人を中へ通す前に、和江は念を押した。


「誰かに呼ばれても、返事をしないでください。知っている人の声でもです」


「鳥越では、よくあることですか」


「昔から、声は遠くまで届きます」


「届くだけですか」


 和江は答えなかった。


 家の中には、多くの本があった。


 郷土史、古典文学、民俗学、学校教育に関する書籍が、廊下にまで積まれている。居間の隅には古いラジオカセットが置かれ、その上から白い布が掛けられていた。


 和江は布へ触れず、納戸から段ボール箱を運んできた。


「教育委員会には、処分したと伝えていました」


 箱の中にはカセットテープが十数本と、文化祭の進行表、手書きの歌詞原稿、児童生徒への聞き取り票が収められていた。


 テープの背には、日付と集落名が記されている。


 水上。

 影平。

 鳥越。

 日向。

 真木野。


 それぞれ数本ずつ。


 最後の一本だけは、赤字で、


 全校郷土発表 匿詩


 と書かれていた。


「これを書いたのは、小田島先生ですか」


「私の字です」


「文化祭へ関わった覚えはないと聞きました」


「ありません」


 和江は即答した。


「でも、私の字です」


 箱の中には、和江が校内印刷用に整えたらしい原稿も残っている。五つの節を順番に並べ、発音や古語の意味を注記したものだった。


 ただし、節の本文に当たる部分は、すべて切り取られていた。


 紙そのものが失われたのではない。


 文字のあった長方形の範囲だけが、刃物で丁寧に抜かれている。


「誰が切ったんです」


「分かりません」


「卒業文集の四ページも白紙になっています」


「知りません」


「三田園晴子先生を覚えていますか」


 和江の顔から表情が消えた。


「音楽の先生は男性でした」


「人事記録には三田園先生の名前があります」


「記録が間違っているんでしょう」


「この原稿には、三田園先生の確認印がある」


 佐伯は右下の印を指した。


 三田園。


 赤い印影の上に、和江の筆跡で「旋律確認」と書かれている。


 和江はそれを見つめた。


 目が、紙の表面ではなく、その向こうにある何かを探すように揺れた。


「この印は……」


 指先が、赤い文字へ近づく。


 触れる寸前、居間の奥から電話が鳴った。


 固定電話だった。


 一度。

 二度。


 和江は手を引いた。


「出ないでください」


 三度目の呼び出し音が鳴る。


「電話線はつながっているんですか」


 及川が尋ねた。


「十年前に解約しました」


 四度目。


 和江は受話器の置かれた廊下へ背を向けた。


「鳴り終わるまで待ちます」


 五度目の代わりに、呼び出し音が途切れた。


 電話を取っていないにもかかわらず、受話器の向こうから声が漏れ始めた。


 若い男の声だった。


「和江先生」


 和江の肩が震えた。


「先生、聞こえますか」


 声は、古い電話機の受話口からではない。


 廊下の壁、天井、床下から同時に聞こえる。


「返事をしないで」


 和江は自分へ言い聞かせるように繰り返した。


「和江先生」


 今度は、少年の声だった。


 親しげで、少し甘えるような呼び方だった。


 和江の唇が動いた。


「聡……」


 声にはならなかった。


 佐伯はその名前を聞き取った。


「小田島聡さんですか」


「知りません」


 和江は首を振った。


「そんな子は知りません」


 及川が文化祭の生徒名簿を開く。


 鳥越集落の二年生に、小田島聡という十四歳の男子生徒がいた。


「親族ですか」


 和江は名簿を見ようとしなかった。


「甥です」


 答えた後、自分で驚いたように口を押さえた。


「どうして……」


 電話の声が笑った。


 少年の声ではなくなっていた。


 幼い子ども。

 若い女。

 年老いた男。


 複数の声が重なりながら、同じ名前を呼ぶ。


「和江」

「和江先生」

「小田島先生」


 最後に、佐伯の声が加わった。


「思い出してください」


 佐伯は何も言っていない。


 和江が、ゆっくりと顔を上げた。


「あなたが言ったんですか」


「言っていません」


 佐伯の返事とほぼ同時に、廊下から同じ声が繰り返された。


「言っていません」


 本人の声より、わずかに早かった。


 和江の目が、佐伯の口元へ向けられる。


「声が先に来ている」


 彼女はそう呟き、両手で額を押さえた。


「聡も、そうだった」


 忘れていた記憶が、声に引かれるように戻り始めた。


          *


 鳥越では、一世代に一度、「呼び番(よびばん)」が置かれた。


 毎年の役ではない。


 三十年から四十年ほどの間隔で、峠を越える声が増え始めたときだけ、一人が選ばれた。


 表向きの役目は、時代によって異なっていた。


 明治期には、荷駄の隊列が峠で離れないよう声を渡す者。


 大正期には、山火事や遭難を知らせる呼び手。


 戦後には、吹雪や濃霧の中で道を教える者。


 電話が引かれてからは、防災連絡や鳥追い行事の声出し役。


 どれも、峠の上で声を張る理由としては不自然ではない。


 しかし集落の大人たちは知っていた。


 呼び番は、人間へ呼びかけるために置くのではない。


 久那原の側から鳥越へ渡ってくる声に、返事をさせるための役だった。


「声は、誰のものだったんです」


 及川が尋ねた。


「前に呼び番になった人たちです」


 和江は、途切れ途切れに答えた。


 呼び番に選ばれた者は、最初、自分の名前を遠くから呼ばれるようになる。


 声は家族や友人に似ていた。


 亡くなった親のこともあれば、まだ生きている者のこともある。本人が最も返事をしたくなる声で呼ぶ。


 一度でも返事をすると、声は近づく。


 次には、自分の声が身体から離れ始める。


 まだ口にしていない言葉が、別の部屋から聞こえる。


 家へ帰る前に、玄関の中から「ただいま」という自分の声がする。


 眠っている間、峠の向こうで自分の声が誰かを呼ぶ。


 やがて本人の口から声が出なくなり、代わりに、離れた場所から本人の声が聞こえるようになる。


「旋律は?」


 佐伯が尋ねた。


「教えません」


 和江は水上と影平で聞いたものと同じ言葉を口にした。


「言葉だけです。選ばれた者には、古い節を覚えさせる。でも、歌い方を知っている人はいない」


「時期が来れば、本人が歌う」


 佐伯が言うと、和江はうなずいた。


「自分の声が、峠の向こうから歌うんです。本人は、それを聞いて覚える」


 最後の日、呼び番は自分の声に呼ばれ、峠へ向かう。


 家族が止めても、本人は、


「声を取り戻してくる」


 と言う。


 そして峠を越え、戻らない。


 身体が見つからない者もいた。


 遺体が見つかった者は、喉にも肺にも異常がないのに、死の直前まで一度も声を出さなかった。


 本人が消えた後も、その声だけは鳥越へ残る。


 軒下の筒。

 電話。

 ラジオ。

 井戸。

 学校の放送設備。


 時代ごとに、人の声を遠くへ届ける道具へ入り込み、次の呼び番を呼び続ける。


「選ばれる家には、何が与えられたんです」


 佐伯が尋ねた。


 和江は段ボール箱の底から、細長い帳面を取り出した。


 峠道の維持、荷運びの割り当て、共同作業、除雪などを記録した自治会の出役簿だった。


 呼び番を出した家には、負担の免除が記されている。時代が進むにつれて、利益の内容も変化していた。水上や影平と変わらず、大人たちは自分の子を外す理由を並べ、最後に残った者へ役を渡す構図が見てとれる。


 呼び番という名、補償という形式も、誰も自分を加害者だと思わずに済むための仕組みだった。


「昭和六十三年は、聡さんが選ばれた」


 及川が言った。


 帳面には、小田島聡の名があった。


 当時、小田島家は峠沿いに小さな商店を営んでいた。父親の保証した借金が残り、店を続けるには、集落からの共同保証と商品の運搬支援が必要だった。


 呼び番を引き受ければ、軽トラックの購入費を各戸で負担し、冬の仕入れも手伝う。


 小田島家は、その提案を受け入れた。


「私は反対しました」


 和江は言った。


「でも、兄夫婦に、代わりに借金を払えるのかと言われた。店を閉めれば家族はどこで暮らすのか。教師だから偉そうなことを言えるんだと」


「聡さん本人には?」


「鳥追いの呼び手だと伝えました。秋の行事で、峠から声を出す役だと」


 聡は、自分が特別な役に選ばれたことを喜んだ。


 最初のうちは、毎日峠へ行き、遠くの家へ声が届くか試していた。


 異変が始まったのは、夏休みの終わり頃だった。


 聡が帰宅する前に、家の中から「ただいま」という声が聞こえる。


 和江が学校で聡を呼ぶと、教室の外から返事がする。本人は教室の中にいて、口を閉じている。


 電話が鳴り、受話器を取ると、聡自身の声が、


「ここにいる」


 と繰り返した。


「どこにいるのか聞いたんです」


 和江の目が、居間の古い電話へ向く。


「そうしたら、五つの道が見えるところだと答えた」


 久那原。


 鳥越の者たちも、その名前は使わなかった。


 峠の向こう。

 下の平。

 声の落ちる場所。


 聡の声は、日を追うごとに身体から離れた。


 本人は話そうとしても、息しか出せなくなる。


 しかし、家の軒下や学校の放送室からは、聡の声が聞こえた。


 その声は、家族の名前だけでなく、集落の子どもたちを一人ずつ呼び始めた。


「三田園先生が調査に来たのは、その頃ですか」


 佐伯が尋ねた。


 和江は答えようとして、再び頭を押さえた。


「顔が見えない」


「無理に思い出さなくても」


 及川が言った。


「違うんです」


 和江は苦しそうに首を振った。


「思い出せないんじゃない。いま、思い出している」


 廊下の電話から、女の声がした。


「小田島先生」


 若い声だった。


 和江は顔を上げる。


「その声……」


「三田園先生ですか」


 和江は答えなかった。


 電話の向こうで、女が続ける。


「鳥越の言葉を、書いてください」


 和江の呼吸が止まった。


 居間の景色ではなく、三十八年前の教室を見ているようだった。


「私が、書いた」


 段ボール箱の中にある原稿へ目を落とす。


「聡が歌った言葉を、私が書き取った。三田園先生が音を取って、私が言葉を整えた」


「なぜ学校へ持ち込んだんです」


「聡を一人にしたくなかった」


 和江の声が崩れた。


 一人の声だから、一人が呼ばれる。


 全校生徒が同じ歌を歌えば、聡の声だけを見つけることはできなくなる。


 五十八人の声へ混ぜれば、呼び番の役目は薄まる。


 水上と影平の大人たちが考えたのと同じだった。


 自分たちの子ども一人を守るために、節を学校へ持ち込んだ。


「ほかの四集落の歌と、つながっていることは知っていましたか」


「似たものがあるとは知っていました。でも、同じ歌だとは……」


 和江は言葉を止めた。


「違います」


 自分で否定する。


「知りたくなかった。三田園先生が五つを並べたとき、分かったはずです。でも、聡が助かるなら、それでいいと思った」


 文化祭の日の記憶は、そこで途切れていた。


 体育館の舞台。

 全校生徒の声。

 放送用マイクから、誰も話していないのに呼ばれる名前。


 そこまでは思い出せる。


 その後がない。


「聡さんは、発表後どうなりました」


「声が戻りました」


 和江は自分の喉へ手を当てた。


「三日間、熱を出した。熱が下がった朝、普通に私の名前を呼んだんです」


「文化祭のことは?」


「覚えていませんでした」


「三田園先生は?」


 和江は首を振る。


「その人のことも、今まで忘れていました」


 和江は聡の家族へ、二度と鳥越へ戻さないよう頼んだ。


 聡は高校進学と同時に市外へ移り、その後は関東で暮らしている。自分が呼び番だったことも、声が身体から離れていたことも知らない。


「生きています」


 和江が言った。


 水上の文江と、影平の志津が口にしたのと同じ言葉だった。


「だから、これでよかったと思っていました」


 電話の向こうで、三田園らしき女の声が歌い始めた。


 言葉は聞き取れない。


 旋律だけが、遠い峠を越えるように細く伸びてくる。


 それに重なり、別の声がした。


 佐伯の声だった。


「和江先生」


 佐伯は口を閉じている。


 和江が佐伯を見た。


「その声が、先生を連れてきた」


「俺の声が?」


「あなたが来る前から、家の中で聞こえていました」


 今朝から、和江の家では佐伯の声がしていた。


 玄関から、


「岩手北辰新聞の佐伯です」


 と名乗る。


 居間では、帳面を見せてほしいと頼む。


 まだ聞かれていない質問を、廊下の向こうから繰り返す。


「だから、あなたが来ることも、何を聞くかも知っていました」


 和江の言葉を聞いて、及川が佐伯から離れた。


 恐れたというより、声の位置を確かめるためだった。


「佐伯さん」


 及川が呼ぶ。


 返事をする前に、天井から佐伯の声がした。


「ああ」


 佐伯の喉からも、ほぼ同時に同じ音が出た。


 二つの声が、わずかにずれて重なった。


 先に響いた声は、そのまま言葉を続ける。


「次を見せてください」


 佐伯は言っていない。


 和江は段ボール箱の中を見た。


 最下部に、一冊の薄いノートがあった。


 三田園晴子の研究ノートだった。


 表紙には、鉛筆で短く書かれている。


 五集落に分けて匿された詩。

 仮に「匿詩」と呼ぶ。


 佐伯が手を伸ばそうとすると、及川がその手首をつかんだ。


「触らない方がいい」


「ここまで来て、見ないのか」


「佐伯さんの声は、見ろと言っています」


 天井から、また佐伯の声がした。


「開いてください」


 本人の意思とは無関係に、声だけが先へ進もうとしている。


 佐伯は及川の手を外した。


「声に命令されているわけじゃない」


「同じことをしようとしているだけです」


 佐伯は答えず、ノートを開いた。


 鳥越の調査ページには、聡の名前と、声の異変が記されていた。


 本人の発声より先に声が聞こえる。

 電話、校内放送、録音機へ声が移る。

 本人は旋律を教わっていない。

 峠の向こうから聞こえる自分の声を模倣して歌う。


 その下に、節の言葉を書き取った痕跡がある。


 ただし本文は消えていた。


 水に濡れたのでも、切り取られたのでもない。


 鉛筆の線だけが、初めから何も書かれていなかったように薄れている。


 ページの下部には、三田園の筆跡で一文が残っていた。


 声は人から離れても、消えない。

 歌へ入れば、次の口を待つ。


 居間のラジオカセットが動き始めた。


 電源コードは抜かれている。


 回転音がし、カセットのない機械から子どもの声が流れた。


 真木野車庫の録音。


 水上の完成した一節。


 「「ながるる袖を 水へ返せよ」」


 続いて、影平の完成した一節。


 「「夕影を 里にとどめて 山を越ゆ」」


 その後に、聞いたことのない複数の声が重なった。


 最初は途切れた言葉だった。


「遠つ声……」


 別の場所から、少女の声が続ける。


「鳥越えゆけば……」


 最後の部分は、佐伯自身の声だった。


「身を離る……」


 機械が停止した。


 和江は両手で口を覆っている。


「それです」


「鳥越の節ですか」


「分かりません」


 そう答えながら、和江は泣いていた。


「でも、聡が歌っていた」


 佐伯は携帯電話を取り出した。


 卒業文集の白紙ページを開く。


 一つ目には、水上。


 二つ目には、影平。


 その下の白紙に、黒い点が現れた。


 インクが紙へ落ちたのではない。ページの奥から、文字が一つずつ浮かび上がってくる。


 遠。

 つ。

 声。


 及川が画面を覗く。


「何か見えていますか」


「まだ途中だ」


 佐伯が答えると、天井から同じ言葉が返ってきた。


「まだ途中だ」


 本人より先に話していた声が、今度は本人の後を追っている。


 文字はゆっくりとつながった。


 「「遠つ声 鳥越えゆけば 身を離る」」


 三つ目の完成した節。


 及川には、やはり白紙にしか見えていなかった。


 佐伯は文字を読まなかった。


 声へ出せば、自分のものではなくなる。


 そう理解している。


 ところが、居間の外から足音が近づいてきた。


 玄関の戸が開く。


「岩手北辰新聞の佐伯です」


 佐伯自身の声がした。


 三人とも動かなかった。


 玄関には、誰の姿もない。


 声だけが廊下へ入ってくる。


「小田島先生に、お話を伺いに来ました」


 それは、佐伯がこの家を訪れたときに使った挨拶だった。


 声は過去を繰り返しているのではない。


 玄関から廊下を進み、これから佐伯が座るはずの場所へ向かっている。


 居間の入口まで来ると、声が止まった。


 佐伯の背後から、呼吸音が聞こえる。


「返事をしないで」


 和江が囁いた。


 佐伯の声が、すぐ耳元で呼んだ。


「佐伯直人」


 自分自身に名前を呼ばれた。


 返事はしなかった。


 声はもう一度、今度はひどく親しげに呼ぶ。


「直人」


 佐伯は、自分の名前がそれほど柔らかく発音されるのを、長い間聞いていなかった。


 次の瞬間、及川が机を強く叩いた。


 声が消える。


「帰りましょう」


 及川は立ち上がっていた。


「これ以上いたら、佐伯さんの声が先に帰ります」


          *


 鳥越を出るとき、和江はカセットテープと三田園の研究ノートを渡さなかった。


 ただし、佐伯が必要な部分を手帳へ書き写すことだけは認めた。


「記事にはしないでください」


「約束はできません」


 水上でも影平でも、同じ答えを返してきた。


 和江は責めなかった。


「三田園先生も、残さなければ消えると思ったんでしょう」


「消えてはいけないものもあります」


「先生は、そう思ったんでしょうね」


 和江は玄関の外へ出ず、暗い廊下から二人を見送った。


「でも、声は残すものではありません。残った声は、いつか誰かに呼ばせるから」


 峠道を下り始めると、鳥越の家々はすぐに杉林の向こうへ消えた。


 及川は録音機を出していない。


 それでも端末の画面には、新しい音声ファイルが保存されていた。


 録音時間は二分四十七秒。


 作成時刻は、二人が鳥越へ到着する三時間前になっている。


「再生しますか」


 及川が尋ねた。


「しない方がいいと思っている顔だな」


「はい」


「支局へ戻ってから複製する」


「原本も開かない方がいい」


「内容を確認しなければ、記録にならない」


 及川は端末を鞄へしまった。


「佐伯さんは、声が身体を離れたことより、記録できなかったことを気にしている」


 佐伯は答えなかった。


 峠の途中に、古い案内標識が立っていた。


 右は鳥越。


 左は市街地。


 直進する道はない。


 しかしカーナビの画面には、二人が走っている県道の先から、細い一本の道が分岐していた。


 道は山を下り、五集落の中央へ向かっている。


 目的地表示はない。


 地図上では何もない平野。


 【久那原(くなはら)


 車のスピーカーから案内音声が流れた。


「次の分岐を、直進してください」


「道はありません」


 及川が言った。


 案内音声が繰り返す。


「直進してください」


 機械の女声が、途中から佐伯の声に変わった。


「直進しろ」


 佐伯はハンドルを左へ切り、市街地へ向かう道を選んだ。


 ナビゲーションは再計算を始めなかった。


 画面上の車だけが、実際の車から離れて直進していく。


 存在しない道を走り、久那原へ向かう。


 佐伯はサイドミラーを見た。


 後部座席には誰もいない。


 それでも、自分の声だけが座っていた。


 姿はない。


 座席のくぼみもない。


 ただ、呼吸する音が聞こえる。


 その声は、鳥越で見つけたばかりの節を、低く繰り返していた。


 「「遠つ声 鳥越えゆけば 身を離る」」


 佐伯は歌っていない。


 だが今度は、唇を閉じているだけでは足りなかった。


 声はすでに、佐伯の身体を離れていた。

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