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第九話 戻りはじめたもの

 鳥越から戻った後も、佐伯の声はしばらく車内に残っていた。


 市街地へ入る頃には、後部座席から聞こえていた呼吸音は消えていた。カーナビも現在地を通常の県道へ戻し、山中に存在しない分岐を案内することはなくなった。


 それでも佐伯は、言葉を発するたび、それが本当に自分の喉から出たものなのか確信できなかった。


「支局へ戻ったら、音声を複製します」


 助手席の及川が言った。


 返事をしようとした瞬間、後部座席から佐伯の声がした。


「ああ」


 わずかに遅れて、佐伯の喉からも同じ音が出た。


 二つの返事はほとんど重なっていたが、完全に同時ではなかった。先に聞こえた方が、本人の声よりも落ち着いているように思えた。


 及川は振り返らなかった。


 佐伯もサイドミラーを見なかった。


 後部座席に誰もいないことは分かっている。しかし、空であることを確かめたところで、そこに声がいない証明にはならない。


          *


 翌朝、佐伯が遠守支局へ入ると、会議用の長机が窓際へ移されていた。


 机の上には、五集落周辺の住宅地図、市の道路図、旧真木野村の地形図が広げられている。その手前には三枚の紙が並べられ、上部にそれぞれ集落名が書かれていた。


 水上。


 影平。


 鳥越。


 及川は、これまでの取材で判明したことを、役の名称、周期、選定方法、前兆、最後に残されるものという項目に分けて整理していた。


「早いな」


 佐伯が声を掛けると、及川は返事をする前に、その口元を見た。


「今の声は、佐伯さん本人ですか」


「たぶん」


「冗談に聞こえません」


「冗談ではない」


 及川は椅子を引いた。


「三集落で分かったことを、一度整理した方がいいと思います。このまま次へ進むのは危険です」


「次というのは、日向か」


「もう行くつもりなんですね」


 佐伯は答えず、三枚の紙へ目を落とした。


 水上に置かれていたのは、「水の役」だった。


 三十年から四十年ほどの間隔で、少女や若い女が選ばれる。役を引き受ける家には、水利負担の免除や農地の貸与、共同作業の軽減、病人への援助が与えられた。


 選ばれた本人には、水を鎮めるための大切な役だと説明される。節の言葉は伝えられるが、旋律を教える者はいない。時期が近づくと、本人は水音に耳を澄ませ、水面へ話しかけ、水を恐れながらも夜になると川へ向かう。そして、誰にも教えられていない旋律を眠りながら口ずさみ、最後には水へ取られる。


 残るのは、袖や帯など、身につけていた物の一部だった。


 水上の完成した一節は、


 「「ながるる袖を 水へ返せよ」」


 影平に置かれていたのは、「夕番」。


 夕番もまた、おおむね一世代に一度だけ選ばれた。表向きの役目は、盗伐の監視、炭焼き小屋の火災防止、山火事への警戒、入会林の境界確認、遭難や獣害への備えと、時代によって変化している。


 夕番を出した家には、共有林の良質な区画や薪、屋根材が優先的に与えられ、冬季の共同作業や借金の返済を免除されることもあった。


 選ばれた者は、次第に自分の影を気にするようになる。


 立ち止まった後も、影だけが一歩進む。本人が見ていない方向へ顔を向ける。夜中には壁の上を歩き、日暮れが近づくと、身体を残したまま家の外へ出ようとする。


 やがて本人だけが消え、壁や地面には、その者の影が残される。


 影平の完成した一節は、


 「「夕影を 里にとどめて 山を越ゆ」」


 鳥越にあったのは、「呼び番」だった。


 荷を運ぶ者へ峠の先から声を渡す。山火事や遭難を知らせる。吹雪や濃霧の中で道を教える。防災連絡や鳥追い行事の呼び手を務める。


 これも時代ごとに合理的な役割を与えられていたが、実際には、峠の向こうから届く声へ返事をするための役だった。


 呼び番を出した家には、荷運びや除雪の免除、峠沿いの共有地を使う権利、商品の運搬支援、電話回線の敷設、借金の共同保証などが与えられていた。


 選ばれた者は、最も親しい人間の声で名前を呼ばれる。一度返事をすると声は次第に近づき、やがて、自分がまだ口にしていない言葉を、自分自身の声が別の場所から話すようになる。


 本人の声は少しずつ身体を離れ、電話、放送設備、録音機、あるいは峠の向こうから聞こえるようになる。最後には自分の声に呼ばれて峠を越え、本人が消えた後も、声だけが鳥越に残る。


 鳥越の完成した一節は、


 「「遠つ声 鳥越えゆけば 身を離る」」


 佐伯は三枚の紙を見比べた。


「別々の怪異に見えます」


 及川が言った。


「でも、仕組みはほとんど同じです」


 一定の周期が来る。


 集落の中から一人が選ばれる。


 役を引き受ける家には利益が与えられる。


 本人には、本当の結末を知らせない。


 節の言葉は人間が教えるが、旋律は怪異の側から渡される。


 そして歌い終えた者は、自分を構成していた何かを土地へ残して消える。


「水上では袖、影平では影、鳥越では声」


 佐伯は紙の上に並んだ言葉を指で追った。


「死に方が違うんじゃないのかもしれない」


「どういう意味ですか」


「人間から、別々のものを切り離している」


 水上では身体が水へ沈み、その身体に属していた衣服の一部が残る。


 影平では本人がいなくなり、その人間の輪郭だけが土地へ焼き付く。


 鳥越では声が身体を離れ、持ち主を失った後も人を呼び続ける。


 水、影、声。


 怪異は、一つの人間をそのまま奪うのではなく、その人間がそこにいた証拠を一つずつ取り分けているように見えた。


「残りの二集落でも、人間を形づくる別のものが取られると思いますか」


「まだ分からない」


 佐伯は答えた。


「ただ、五つを並べれば、一人の人間を分けたような形になるのかもしれない」


「一人を作るんじゃなくて、ばらばらにするために五つへ分けた?」


「それも仮説だ」


 佐伯は三つの節へ目を落とした。


 確かなのは、五つの集落にそれぞれ異なる節があり、異なる形で人間が失われてきたことだけだった。


 歌が五つへ分けられたから、怪異も分かれたのか。


 初めから別々に存在した怪異を、後から一つの歌へまとめたのか。


 その順序さえ、まだ分からない。


          *


 三つの集落に残っていたのは、過去の犠牲を示す記録だけではなかった。


 水上では、空の浴槽で帰省者が溺れ、深さ十センチほどの側溝で測量士が意識を失っている。学校の解体が決まった今年の春からは、子どものいない空き家や床下から、複数の歌声が聞こえるようになった。


 影平では、誰も住んでいない家の壁へ、身体を持たない影が戻り始めていた。昭和三十一年に失踪した工藤初枝の写真には、今年になってから、三田園らしき女の影まで現れている。


 鳥越では、解約された電話や使われなくなった呼び筒が住民の名前を呼んでいる。佐伯が集落を訪れるより前から、彼の声まで小田島和江の家へ届いていた。


 いずれも、今年に入ってから目立つようになった異変だった。


「なぜ、あの人たちは驚かなかったんでしょう」


 及川が言った。


「文江さんも、藤原さんも、小田島先生も、怖がってはいました。でも、初めて怪異を見た人の反応には見えなかった」


 佐伯も同じことを感じていた。


 三人とも、怪異の存在を進んで認めようとはしなかった。それでも水が畳を濡らし、影が写真から動き、解約された電話が声を発したとき、彼女たちは現実そのものが壊れたようには取り乱さなかった。


 長く来なかったものが、ついに戻ってきた。


 その事実を受け入れる人間の反応だった。


 まだ来ないと思っていた。


 自分たちの代までは持つと思っていた。


 子どもがいなければ、もう選ばれないと思っていた。


 学校が残っている間は、大丈夫だと思っていた。


 そうした期待が、とうとう外れたのだ。


「起きるはずのないことが起きたんじゃない」


 佐伯が言った。


「あの人たちにとっては、いつか来ると分かっていたものが、来てしまったんだ」


 及川は三枚の資料を見つめた。


「でも、今度は誰も役を引き受けられない」


 かつての怪異には、残酷ではあっても一定の順序があった。


 集落の大人たちが一人を選び、役の言葉を伝える。家族には土地や労働、金銭上の利益が与えられ、その者一人へ怪異が集められる。


 一人が消えれば、次の三十年から四十年まで土地は静まった。


 正しい制度ではない。


 許される制度でもない。


 だが、怪異が無秩序に集落全体へ広がることを防ぎ、犠牲を一人へ集中させる働きはあったのかもしれない。


 現在の三集落には、その仕組みを維持する力が残っていない。


 水上には、水の役を担わせる子どもがいない。


 影平では、共有林の権利や薪を与えたところで、夕番を引き受ける家がない。


 鳥越でも、峠の商い、荷運び、共同体による保証は、人を土地へ縛りつけるだけの価値を失っている。


 候補を選ぶ会議も、節を管理する家も、拒んだ者を共同体から排除する力もなくなった。


「役を継ぐ人がいなくなったから、終わったんじゃない」


 佐伯は言った。


「役へ押し込められなくなったから、外へ漏れ始めた」


「でも、それだけなら、なぜ今年なんですか」


 及川の問いに、佐伯は支局の壁へ目を向けた。


 八月四日。


 真木野中学校の解体開始日が、カレンダーの上で赤く囲まれている。


 まだ校舎は立っている。


 しかし、解体へ向けた作業はすでに始まっていた。校内に残されていた備品は運び出され、古い資料は箱へ移されている。電気や水道を止める箇所が確認され、長く閉ざされていた音楽室や倉庫にも、市の職員や業者が出入りしていた。


 工事のための測量も始まり、壁や床下の構造が調べられている。


 建物が完全に壊される日だけが、解体ではない。


 三十八年間動かされなかった物が移され、閉じられていた部屋が開かれ、校舎の内側に保たれていた形が、少しずつ崩されている。


 そして、それと前後するように、水上、影平、鳥越の異変が目立ち始めた。


 水上では、空き家や床下から歌声が聞こえるようになった。影平では、古い写真に三田園らしき影が現れた。鳥越では、持ち主から離れた声が、集落の外にいる佐伯へまで届いている。


 偶然と片づけるには、時期が重なりすぎていた。


「学校に、何かが残っているんでしょうか」


 及川が言った。


「分からない」


 佐伯は答えた。


「学校そのものが何かを抑えているのかもしれない。三田園先生が、あの場所で何かをした結果が、校舎に残っているのかもしれない」


 昭和六十三年の文化祭では、五集落に分かれていた節が、一つの発表として並べられた。


 その後、生徒たちの歌声が途切れ、三田園だけが舞台で歌い続けていたという、断片的な証言がある。


 しかし、三田園がなぜ一人で歌ったのかは分からない。


 五十八人の生徒を救おうとしたのか。


 五つに分かれていた何かを、自分一人へ集めようとしたのか。


 あるいは、本人にも理解できないまま、歌わされたのか。


 文化祭の後、三田園の姿は現実の記録から薄れ、彼女に関する人々の記憶も欠けていった。


 それが歌の結果なのか、学校に残された何かの作用なのか、それとも別の理由によるものなのかは、まだ判断できない。


「三田園先生が、五つに分かれていたものを、自分へ集めた可能性はある」


 佐伯は慎重に言った。


「でも、集めたことで何をしたのかは分からない。それが怪異を抑えたのか、別の形に変えただけなのかも」


「学校の解体準備で、その状態が崩れ始めた?」


「可能性はある」


 断定できる材料はない。


 ただ、三集落の異変が今年になって増えたこと、三田園らしき影が現れたこと、住民たちの失われていた記憶が戻り始めたこと。そのすべてが、学校の解体準備と時期を同じくしている。


 かつて集落ごとに怪異を一人へ集めていた役は、すでに失われている。


 その一方で、昭和六十三年以降、五つの節は学校で一度だけ結び合わされ、三田園という一人の教師へ何かが集中したようにも見える。


 集落の仕組みが崩れたこと。


 学校の形が失われ始めたこと。


 三田園の影が現れたこと。


 三つの出来事が、どこまで同じ原因につながっているのかは分からなかった。


「五つをつなげたから、こうなったんでしょうか」


 及川が三枚の資料を見つめた。


「それも、まだ分からない」


 佐伯は答えた。


「ただ、五つの集落と学校には何か関係がある。三田園先生が五つを一つに並べたことにも、理由があったはずだ」


「つなげると、何が起きるんですか」


「それを知っている人間がいるなら、最初から五つに分けたりはしなかっただろう」


 五つを一つへ戻せば、怪異が消えるのか。


 より大きなものが現れるのか。


 失われた人間が戻るのか。


 それとも、三田園に起きたことが、別の人間へ繰り返されるのか。


 いまの佐伯に分かるのは、三つの節へ近づくたび、自分の身体にも三集落の異変が重なっているということだけだった。


          *


 自分に起きていることを、佐伯はもう疲労や錯覚とは考えていなかった。


 水のない場所から歌が聞こえる。鏡に映った自分だけが唇を動かす。影は身体とは別の方向を見て、本人を置いたまま歩き出す。声は喉を離れ、佐伯より先に取材先へ到着する。


 水上、影平、鳥越。


 三集落で起きてきた怪異が、同じ順序で佐伯の身体へ重なっている。


 次の集落へ行けば、また別の異変が加わるのかもしれない。


 五つの節がそろったとき、自分がどうなるのかは分からない。三田園と同じように記録から消えるのかもしれない。あるいは、文化祭の夜に三田園へ起きたことを、別の形で繰り返すのかもしれなかった。


 やめなければならない。


 判断だけなら難しくない。


 日向の資料を閉じ、携帯電話から文集の画像を消し、田村に担当を外してほしいと伝えればいい。及川をこれ以上巻き込む前に、取材を終わらせるべきだった。


 しかし佐伯は、日向の封筒から手を離せなかった。


 恐怖よりも強い感情があることを、自分でも認めざるを得なかった。


 三つの節が並んだ瞬間、ばらばらだった事故と失踪が、一つの構造へ変わった。


 誰にも見つけられなかったものを、自分だけが見つけつつある。


 その感覚は、社会部にいた頃、長く追っていた不正の裏側へ初めて手が届いた夜と似ていた。


 今度こそ、最後まで書けるかもしれない。


 今度こそ、途中で奪われずに済むかもしれない。


 かつて握り潰された記事の代わりに、新聞記者としての自分を取り戻せるかもしれない。


 その期待が自分自身のものなのか、それとも身体を離れた声に考えさせられているのか、佐伯にはもう区別できなかった。


「佐伯さん?」


 及川に呼ばれ、佐伯は顔を上げた。


「何でもない」


 そう答えた直後、廊下の向こうから同じ声が聞こえた。


「何でもない」


 佐伯自身の声だった。


 昨日までは、本人が口にする前に話していた。


 今は、本人の後から言葉をなぞっている。


 及川が扉の方を見た。


 支局長の田村は市役所へ出ている。事務員も昼の買い物に出ており、支局内には二人しかいなかった。


「声が戻ってきたんでしょうか」


「戻る場所を間違えているのかもしれない」


 佐伯は立ち上がった。


 洗面所へ入り、蛇口をひねる。


 流れ出した水は透明だった。手を洗い、顔を上げると、鏡の中の自分も同じように顔を上げた。


 ほんのわずかに遅れて。


 佐伯は動きを止めた。


 鏡像も止まる。


 右手を上げる。


 鏡の中の右手も上がる。


 今度は遅れなかった。


 疲れているだけだ。


 睡眠が足りていない。


 そう考えたとき、鏡の中の佐伯だけが目を閉じた。


 現実の佐伯は目を開けている。


 鏡像は目を閉じたまま、ゆっくりと唇を動かした。


 音は鏡からではなく、排水口の奥から聞こえた。


 水上の旋律だった。


 佐伯は蛇口を閉めた。


 水は止まったが、歌声は止まらない。


 足元を見る。


 照明は佐伯の影を背後へ落としている。しかし影の頭だけが、身体とは別の方向を向いていた。


 洗面所の出口を見つめ、外へ出ようとしているように見えた。


「佐伯さん」


 入口から及川が呼んだ。


 佐伯が返事をするより先に、背後から自分の声がした。


「今、行く」


 振り返っても、狭い洗面所には誰もいなかった。


 及川は入口に立ったまま、険しい表情で佐伯を見ていた。


「言いましたか」


「言っていない」


「もう調査を止めるべきです」


 これまでより強い口調だった。


「少なくとも、一度病院へ行ってください。睡眠不足や疲労で説明できることがあるなら、それを先に除外するべきです」


「医者に、鏡の中の自分だけが目を閉じると話すのか」


「何もせずに、次の集落へ行くよりはいい」


「日向へ行くとは言っていない」


「資料を鞄に入れていました」


 佐伯は答えなかった。


 机の脇には、日向集落の住民資料と過去の事故記録をまとめた封筒が置かれていた。


 そこへ入れた記憶はない。


 それでも封筒の表には、自分の筆跡で「日向」と書かれていた。


          *


 午後、佐伯は取材データを消そうとした。


 携帯電話に保存された卒業文集の画像。


 三集落で見つかった完成節。


 鳥越で自動的に作成された音声ファイル。


 水上で濡れた手帳を撮影した写真。


 削除すること自体は簡単だった。


 画面を開き、対象を選び、確認欄へ触れればいい。


 削除確認の表示が現れた。


 佐伯がそこへ指を伸ばした瞬間、携帯電話のスピーカーから自分の声がした。


「消すのか」


 音声ファイルは再生していない。


 佐伯は指を止めた。


「消せば終わるのか」


 今度は、自分の口で言った。


 携帯電話から返事はなかった。


 画面には三つの完成節が並んでいる。


 「「ながるる袖を 水へ返せよ」」


 「「夕影を 里にとどめて 山を越ゆ」」


 「「遠つ声 鳥越えゆけば 身を離る」」


 この文字を削除すれば、少なくとも端末からは消える。


 しかし、水上で子どもが選ばれてきた事実まで消えるわけではない。


 影平で人間が消え、影だけが残されたことも、鳥越で声を奪われた者たちがいたことも変わらない。


 調査をやめれば、それらは再び別々の出来事へ戻る。


 水死。


 山中での失踪。


 家出。


 錯乱。


 古い集落に残る迷信。


 因果関係のない事故として整理され、やがて誰にも顧みられなくなる。


 記事を書かなければ、怪異が広がらずに済むのかもしれない。


 昭和六十三年の三田園も、同じような選択を迫られたのだろうか。


 生徒たちの歌を止めるために、自分一人で歌ったのか。


 五つへ分かれていたものを、自分へ引き寄せようとしたのか。


 それとも、歌の側に選ばれたのか。


 何一つ確かなことは分からない。


 ただ、三田園は文化祭の後に消えた。


 そして三十八年後、学校の解体を前に、彼女を知る者たちの記憶と、三集落の怪異が同時に戻り始めている。


 一人が秘密を抱えれば、本当に終わるのか。


 佐伯には分からなかった。


 ただ、黙ることが正しいという言葉に従うことだけは、どうしてもできなかった。


 かつて追っていた不正疑惑の記事でも、同じような説明を聞かされた。


 今は出す時期ではない。


 裏付けが弱い。


 地域経済への影響が大きい。


 取引先との関係も考えなければならない。


 関係者の名誉を損なう可能性がある。


 どれも表面上は理性的な言葉だった。


 だから記事は掲載されなかった。


 翌月、証言者は異動させられた。半年後には、問題を指摘した側が職場を去った。新聞には何も載らず、佐伯も最後には会社の決定に従った。


 怒鳴りもせず、原稿を外部へ持ち出すこともなく、遠守支局への異動辞令を受け取り、黙って荷物をまとめた。


 怒りを克服したのではない。


 怒りを表に出さないことだけが、上手くなった。


 あのとき、自分は記事を握り潰す決定を下した側ではなかった。


 だが、止められた後で沈黙した。


 結果として、都合の悪い事実をなかったことにする側へ加わった。


 その記憶だけが、いまも消えずに残っている。


 佐伯は削除画面を閉じた。

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