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第七話 影を置く村



 水上から戻った翌朝、佐伯の手帳は乾いていた。


 畳の上で濡れたページは波打ち、閉じても紙の端がそろわなくなっている。しかし、そこに現れた五つの集落名だけは滲んでいなかった。


 水上。

 影平。

 鳥越。

 日向。

 真木野。


 それぞれの文字を結んでいた水の線は、乾くと黒ずんだ筋に変わっていた。偶然に流れた水滴ではない。五つの名前を一つずつ拾い、最後に輪を閉じるように引かれている。


 筆跡は、佐伯自身のものに似ていた。


 水上の「上」がわずかに右へ傾き、影平の「影」の最後の払いが長い。取材中、急いで固有名詞を書き留めるときに出る癖だった。


 自分で書いたという感覚だけがなかった。


 佐伯は手帳を閉じ、机の引き出しへしまった。


 窓際では、及川が前日の取材メモを整理していた。文江に録音を禁じられたため、二人が記憶している言葉を照合しながら、水の役と集落内の選定制度を文章へ起こしている。


「文江さんの証言、記事に使いますか」


「裏が取れた部分だけだ」


「水利組合の帳簿も、水の役の名簿も撮影できていません」


「会計帳の内容は覚えている」


「記憶だけで、集落が子どもを選んでいたとは書けません」


「分かっている」


 及川はキーボードから手を離した。


「記事にしない方がいい、と言っているわけではありません」


「分かっている」


 同じ言葉を繰り返したせいで、今度は自分でも苛立っているように聞こえた。


 支局の壁には八月の予定を書き込んだ大きなカレンダーが掛かっている。真木野中学校の解体開始日は、赤い線で囲まれていた。


 八月四日。


 あと十九日だった。


「閉校舎の記事、来週には一本目を出したい」


 支局長の田村が、奥の机から言った。


「解体前、解体中、跡地利用の三本で組む。一本目は校史と卒業生の思い出だ。最初から重くしすぎるなよ」


 佐伯は資料から顔を上げなかった。


「昭和六十三年の文化祭を調べています」


「それは知ってる。何か出たか」


「行方の分からなくなった教師がいる。五つの集落に残る歌を復元して、全校生徒に歌わせたらしい」


 田村は椅子の背へ体重を預けた。


「行方不明届は?」


「確認中です」


「事件記録は」


「残っていない」


「家族の証言は?」


「親族を探しています」


「なら、今のところは昔話だな」


 田村の口調は穏やかだった。佐伯の調査を否定しているのではなく、紙面に載せられる材料と載せられない材料を分けているだけだ。


 それでも、胸の奥では古い感情がわずかに動いた。


 証拠が足りない。

 もう少し取材が必要だ。

 現段階では掲載できない。


 社会部で追っていた不正疑惑の記事を止められたときも、最初は同じ言葉だった。


「卒業生の思い出話だけなら、俺でなくても書けます」


 田村が眉を上げた。


「だから、お前に頼んだんだろ。思い出話の奥に何かあるなら、裏を取って書けばいい。ただし、最初から答えを決めるな」


「決めていません」


「そういう顔をしてる」


 田村は机上の新聞をたたんだ。


「社会部にいた頃もな」


 支局内の空調が低く鳴った。


 佐伯は返さなかった。


 田村が過去の事情をどこまで知っているのか、確かめたことはない。本社社会部から遠守支局への異動が、通常の人事ではなかったことくらいは把握しているはずだった。


「午前中、影平へ行きます」


「何がある」


「五集落の二つ目です」


「閉校記事の取材だと説明できる範囲にしろ」


 佐伯は資料を鞄へ入れた。


 及川も端末を閉じ、立ち上がる。


「私も行きます」


「音声の作業は?」


「終わっています。水上の録音はありませんから」


 最後の言葉だけが、わずかに硬かった。


          *


 影平は、水上とは反対に、山の中腹に開けた集落だった。


 県道から細い坂道へ入り、杉林の間を二十分ほど登る。木々が途切れた先に、緩やかな傾斜地と十数軒の家が現れた。


 日当たりは悪くない。


 集落名から、山陰に沈んだ土地を想像していたが、昼前の影平には強い日差しが降り注いでいた。


 ただ、どの家も軒が深かった。


 窓は小さく、南向きの座敷にも庇が張り出している。家と家の間には高い板塀が設けられ、道路に落ちる影が途切れないようにつながっていた。


「昔は炭焼きと林業の集落です」


 及川が市史の写しを確認した。


「共有林が広くて、昭和三十年代までは薪炭材の割り当てが、各家の生活を左右していたようです」


「水上では農地と水利。ここでは山か」


「土地の利用権が、そのまま村の中での立場になる点は同じですね」


 集落の中央に木造の集会所があった。


 その脇で、藤原志津が落ち葉を掃いている。


 七十九歳。真木野中学校で長く給食調理員を務め、昭和六十三年当時も学校にいた。現在は影平で一人暮らしをしている。


 電話で文化祭について尋ねた際、志津は「歌のことなら知らない」と答えた。三田園晴子という名前にも、心当たりがないと言った。


 ただ、電話を切る直前になって、


「来るなら、正午より前にしてください」


 と付け加えた。


「遅かったですね」


 志津は腕時計を見た。


 午前十一時四十分。


「十二時までには着くと伝えました」


「帰る時間の話です」


 志津は箒を集会所の壁へ立てかけた。


「影が東へ回る前に、下りた方がいい」


 日没までは七時間以上ある。


 理由を尋ねると、志津は道路に落ちた自分の影へ目を向けた。


「ここでは、日が高いうちでも、影が夕方になることがあります」


 集会所の内部には、古い学校教室に似た匂いが残っていた。


 壁には自治会の行事予定、山火事防止の標語、共有林の境界図が貼られている。一番奥には、歴代の自治会長と功労者の写真が並んでいた。


 その中に、不自然な空白があった。


 昭和三十一年と昭和三十二年の間に、一枚分の隙間がある。釘だけが残り、額縁が外されていた。


「ここには、誰の写真があったんですか」


 志津は答えず、湯飲みを三つ並べた。


「学校の話でしょう」


「昭和六十三年の文化祭について伺いたいんです」


「給食室にいましたが、発表は見ていません」


「三田園晴子という音楽教師を覚えていますか」


「知りません」


 答えは電話のときと同じだった。


「昭和六十二年に赴任し、翌年の文化祭で五集落の歌をまとめています」


「音楽の先生は、男の先生だったと思います」


 菊池も同じことを言っていた。


 当時の人事記録には三田園晴子の名前が残っている。それにもかかわらず、彼女を知っていたはずの者たちは、存在しなかった男性教師を思い出す。


 佐伯は文化祭前に撮影された全校集合写真を机へ置いた。


 五十八人の生徒は、五つの集落ごとに固まっている。


 影平の生徒たちは写真の右端に並んでいた。前列にいる男子生徒の顔を、志津はしばらく見つめた。


「藤原敦さんですね」


 及川が名簿を確認した。


 当時十四歳。志津の長男だった。


「今はどちらに?」


「仙台です」


「影平には戻らない?」


「戻りません」


 志津の答えは早かった。


「帰らせません」


 水上の文江と同じ言い方だった。


 生きていますから。


 あの言葉を、佐伯は思い出した。


「敦さんは文化祭で、影平の歌を歌っています」


「みんなで何か歌ったとは聞いています」


「その前から、変わった様子はありませんでしたか」


「何の話です」


「自分の影を気にする。立ち止まった後も、影だけが動く。夜中に、壁の影が外へ出ようとする」


 志津は急須を持つ手を止めた。


「誰から聞いたんです」


「まだ誰からも」


「では、なぜそんなことを」


「水上にも、選ばれた歌い手にだけ起きる前兆がありました。影平にも、同じような役があったと考えています」


「ここは水上ではありません」


 志津は急須を置いた。


「歌も、役も、私は知りません」


 窓の外で風が吹いた。


 入口へ立てかけた箒が壁へ当たり、乾いた音を立てた。実物の箒は何度か左右へ揺れた。


 しかし、床に落ちた箒の影は動かなかった。


 垂直に立ったまま、壁へ張り付いている。


 及川も気づき、佐伯の腕へ軽く触れた。


 志津は二人の視線を追い、箒の影を見た。


 顔から色が失われた。


「もう帰ってください」


「まだ正午前です」


「時間の問題ではありません」


 志津が立ち上がった拍子に、壁へ貼られていた共有林の境界図がわずかにめくれた。


 裏に、金属製の小さな扉が見えた。


「金庫ですか」


「古い帳簿が入っているだけです」


夕番(ゆうばん)の記録も?」


 志津の身体が止まった。


 佐伯自身も、なぜその言葉を口にしたのか分からなかった。


 夕番。


 誰かから聞いた記憶はない。


 それでも、言葉にした瞬間、それが影平の役の名だと確信した。


「いま、何と言いました」


 志津が尋ねた。


「夕番です」


「誰に聞いたんです」


「分かりません」


 志津は佐伯を見つめた。


 取材を拒む老人の顔ではなかった。


 長いあいだ忘れていた言葉を、他人の口から聞かされた人間の顔だった。


「夕番なんて、今はありません」


「昔はあった」


「山の見回りです」


「何を見回ったんです」


「盗伐や、火事です」


「何年ごとに?」


 志津は答えなかった。


 佐伯は境界図の前へ立った。


「帳簿を見せてください」


「記事にはしないで」


「見るだけです」


 同じ言葉を返され、志津は唇を結んだ。


 やがて諦めたように鍵を取り出し、金庫を開けた。


 中には共有林の割当帳、共同作業の出役簿、古い自治会記録が束ねて収められていた。


 最も古い帳簿は明治初期まで遡っている。


 夕番という文字は、毎年記されているわけではなかった。


 明治十二年。


 工藤市松、十八歳。


 名目は、共有林で相次いだ盗伐の監視。


 大正八年。


 藤原清吉、二十歳。


 炭焼き小屋の火災防止と夜間巡視。


 昭和三十一年。


 工藤初枝、十六歳。


 山火事警戒および入会林の境界確認。


 そして昭和六十三年。


 藤原敦、十四歳。


 名目は、林道における遭難防止と獣害の見回り補助だった。


 理由は時代ごとに異なる。


 盗伐。

 炭焼き小屋の火。

 山火事。

 境界争い。

 獣害と遭難。


 いずれも、その時代なら不自然ではない説明だった。


 しかし年代を並べると、別の規則が見えてくる。


 明治十二年から大正八年まで、四十年。

 大正八年から昭和三十一年まで、三十七年。

 昭和三十一年から昭和六十三年まで、三十二年。


「盗伐や山火事が、三十年から四十年おきに起きるんでしょうか」


 及川が言った。


 志津は答えなかった。


 夕番を出した家には、その前後のページで特別な配分が記されている。


 共有林の良質な区画。

 薪と屋根材の優先支給。

 冬季共同作業の免除。

 病人への見舞金。

 家屋修繕の人足。

 借金返済の猶予。


 水上の水の役と同じだった。


 危険な見回りを引き受ける家への補償という形を取りながら、実際には集落への借りがある家や、困窮した家へ役を引き受けさせていた。


「この人たちは、その後どうなりました」


 佐伯は三人の名前を指した。


 及川が新聞記事と市史の索引を検索する。


 工藤市松については、明治十二年九月、山中で失踪したという村の記録が残っていた。遺体は見つかっていない。


 藤原清吉は大正八年十月、炭焼き小屋から帰る途中に行方不明となった。捜索隊は林道に残る足跡を追ったが、尾根の途中で突然途切れている。


 工藤初枝は昭和三十一年九月、夕方に家を出たまま戻らなかった。


 こちらも遺体は発見されていない。


「三人とも消えている」


 佐伯が言った。


「山で人が消えることはありました」


「同じ周期で夕番になった人だけが?」


「事故です」


「大人たちは、事故ではないと知っていたんでしょう」


 志津は帳簿を見つめた。


「本人には見回りだと説明した。でも、選んだ大人たちは、その人が戻らないことを知っていた」


「知りません」


「敦さんの名前もある」


「やめてください」


「昭和六十三年、あなたは息子さんを夕番の候補として差し出した」


「違う」


 志津の声が鋭くなった。


「そんなことはしていません」


「帳簿に名前がある」


「私は知らない」


「あなたの署名もある」


 昭和六十三年のページの下には、集落の世帯主や役員の署名が並んでいた。その中に、藤原志津の名もある。


 志津は自分の署名を見つめた。


 そこに浮かんだのは、否認ではなかった。


 純粋な困惑だった。


「私が、書いたんですか」


「あなたの字では?」


 志津は指先で署名の線をなぞった。


「覚えていない」


 呟いた直後、集会所の照明が消えた。


 停電ではない。


 窓から強い日差しが入っている。それにもかかわらず、室内だけが夕方のような薄暗さへ沈んだ。


 壁際の影が、一斉に長く伸び始める。


 椅子の脚。

 机。

 湯飲み。

 三人の身体。


 正午前の太陽が作る長さではない。


 影は斜めに床を這い、壁へ上り、歴代自治会長の写真へ届いた。


 志津は両手で頭を抱えた。


「敦が、壁を見ていた」


 声が漏れた。


「何ですか」


「夜中に起きて、壁を見ていた」


 志津自身が、自分の言葉に驚いていた。


「どうして……」


 額へ手を当てる。


「どうして今まで、忘れて……」


 記憶が一度に戻ったのではない。


 硬く閉じていた場所にひびが入り、細い断片が漏れ出しているようだった。


 敦は十四歳の夏から、何度も自分の影を振り返るようになった。


 昼間でも足元を確認し、夕食中には壁へ映った自分の影を見て箸を落とした。夜になると、自分は布団の中にいるのに、壁の影が廊下へ出ていくと言った。


 家族が眠っている間、玄関へ立っていることもあった。


 本人は戸を開けようとしながら、


「影が先に行った」


 と泣いていた。


「どこへ行くと言っていたんです」


 佐伯が尋ねた。


「山の向こう」


 志津は目を閉じたまま答えた。


「五つの道が集まる、低いところへ」


 久那原。


 影平の者たちもその名を口にせず、ただ方角だけを伝えてきた。


「夕番の旋律は、誰が教えたんです」


「教えていません」


 志津は首を振った。


「言葉だけです。古い紙に残っていた。でも、歌い方は誰も覚えていなかった」


「敦さんは歌った?」


「夕方になると」


 最初は鼻歌だった。


 誰にも教わっていない旋律を、敦は日が傾く頃になると口ずさんだ。


 古老たちはそれを聞き、夕番が受け入れられたと判断した。


 旋律を知っている者はいないはずなのに、正しい歌だと分かった。


 志津はそこで言葉を止めた。


「それから先が、ない」


「思い出せない?」


「文化祭があったことは分かります。敦が熱を出したことも。でも、その間が……」


 志津は頭を押さえた。


「誰か女の人が、家へ来た気がする。でも顔がない。名前も……」


「三田園晴子です」


「違う」


 反射的な否定だった。


 しかし次の瞬間、志津は息を止めた。


「晴子」


 自分の口から出た名前を確かめるように、繰り返した。


「三田園、晴子」


 壁に伸びた佐伯の影が、本人より先に顔を上げた。


 影は志津を見ている。


 佐伯自身は動いていない。


「佐伯さん」


 及川が低く呼んだ。


 佐伯の影が右腕を上げた。


 指揮をするような動きだった。


 志津の顔に、さらに別の記憶が浮かんだ。


「先生が来た」


 言葉が震えている。


「この集会所に。敦の歌を聞いた。五つの集落に似た言葉があると言っていた」


「影平の節を渡したんですか」


「分からない」


「帳簿には、昭和六十三年に敦さんが夕番として記されている」


「出したくなかった」


 志津は机の端を握った。


「夫が山で怪我をしていた。薪も、屋根を直す材木も、集落から受け取っていた。敦を出せと言われたわけじゃない。ただ、これまで助けてもらった家が、今度は役に立つ番だと……」


 誰も脅さなかった。


 支援を打ち切るとも言わなかった。


 村が困ったときは、お互いさまだ。

 敦は丈夫だから心配ない。

 昔と今は違う。

 見回りをするだけだ。


 自分だけが拒めば、別の家の子どもが選ばれる。


 その親も、自分と同じように拒みたいはずだった。


 志津は署名した。


「三田園先生が、みんなで歌えば一人の役ではなくなると言ったんですか」


「違う」


 志津は首を振った。


「先生は、そんなことは知らなかった。私たちが勝手に思ったんです。一人で歌うから一人が消える。学校のみんなで歌えば、敦だけは取られないって」


 影平の大人たちは、節を学校へ持ち出すことを決めた。


 他の集落にも同じような役があることを、知らなかったわけではない。


 ただ、詳しく尋ねなかった。


 つながりを知ること自体を、長い間避けていた。


 自分たちの子どもを救うため、その禁忌を一度だけ無視した。


「文化祭の日、何を見ました」


 志津は答えようとした。


 だが、口を開いたまま声が出なかった。


 記憶の断片だけが、顔を通り過ぎていく。


 体育館の舞台。

 五十八人の生徒。

 敦の足元から離れた影。

 床を這い、舞台袖へ向かう無数の黒い形。

 一人の女が両手を上げている姿。


「先生が歌っていた」


 志津が呟いた。


「生徒の声が消えた後も、一人で」


「三田園先生が?」


「顔は思い出せない」


 志津は泣いていた。


「どうして今になって……。私は、こんなことを、ずっと忘れていたんですか」


 佐伯は答えなかった。


 ただ、思い当たることはあった。


 三田園が五十八人の生徒から何かを引き受けたとき、出来事の記憶も一緒に持ち去ったのではないか。


 真木野中学校が残っている間、その状態は保たれていた。


 ところが校舎の解体が決まり、三田園を現実側へつなぎ止めていた場所が失われ始めている。


 さらに佐伯が水上の節を理解したことで、三田園の中に集められていたものの一部が、佐伯へ移り始めた。


 文江の記憶が戻った。


 いま影平の制度を理解したことで、志津の記憶も戻り始めている。


 取材によって新しい事実を見つけているのではない。


 自分が近づくことで、封じられていた記憶を元の持ち主へ返している。


 そう考えると、佐伯の背中へ冷たいものが這った。


「敦さんは、文化祭の後どうなりました」


 及川が尋ねた。


「影が戻りました」


 志津は涙を拭わなかった。


「夜に歩かなくなった。歌も止まった。だから助かったと思った」


「三田園先生は消えた」


「誰かが代わりに持っていった」


 志津は佐伯ではなく、その背後の影を見ていた。


「でも、いま戻ってきている」


 集会所の奥、写真が外された壁。


 釘だけが残っていた場所に、少女の影が立っていた。


 身体はない。


 細い肩と膝丈の衣服。肩までの髪。


 昭和三十一年に失踪した工藤初枝だと、説明されなくても分かった。


 志津は立ち上がり、物置から布に包まれた額縁を持ってきた。


「これを飾ってから、夕方に影が増えるようになりました」


 布の中には、昭和三十一年の自治会集合写真があった。


 二十人ほどの住民が集会所の前に並んでいる。その後方、建物の白い壁に、少女の影が映っていた。


 影に対応する人物はいない。


 撮影時の太陽は正面から当たっており、住民たちの影は背後へ落ちている。


 少女の影だけが、壁の正面に立っていた。


「工藤初枝さん?」


 志津はうなずいた。


「消えた翌年の写真です」


「なぜ外したんです」


「今年の春、隣に別の影が出たからです」


 佐伯は写真へ顔を近づけた。


 少女の影の横に、薄い女性の輪郭がある。


 長い髪。

 細い肩。

 片腕を上げた、指揮者のような姿。


 三田園晴子の写真は、まだ見つかっていない。


 それでも佐伯には、その影が三田園だと分かった。


 学校の解体が決まった今年の春から、写真へ現れるようになった。


 志津はその事実を覚えていたのではない。


 いま初めて気づいたように、写真を見つめていた。


「この人……」


 指先が薄い影の輪郭へ触れる。


「私は、この人を知っている」


 その瞬間、佐伯の影が身体から離れた。


 足元にあった黒い形が、床を滑るように進み、壁へ上った。


 佐伯本人は椅子に座ったままだった。


 影だけが歴代功労者の写真の上を歩き、工藤初枝の影へ近づいていく。


「佐伯さん、動かないで」


 及川が言った。


「動いていない」


 佐伯の影は、写真の中の少女へ手を伸ばした。


 指先が触れたとき、印刷された少女の首がゆっくりと動いた。


 顔のない黒い輪郭が、佐伯の影を見上げる。


 集会所の外から、低い鼻歌が聞こえた。


 誰にも教えられない、夕番の旋律。


 志津が額縁を裏返した。


「帰ってください」


 声が震えている。


「影が東へ回る前に」


 佐伯の影は写真から離れ、共有林の境界図へ向かった。


 地図の上を歩き、五集落の中央で止まる。


 そこには地名が記されていない。


 何にも使われていない平野。


 久那原。


 影が振り返り、佐伯へ向かって口を開いた。


 声は聞こえない。


 それでも、何を言ったのか分かった。


 続きを。


 佐伯が目を閉じ、再び開いたとき、影は足元へ戻っていた。


          *


 影平を出たのは、午後零時十三分だった。


 志津が指定した時刻を、わずかに過ぎている。


 坂道を下り始めると、両側の杉林から細長い影が道路へ伸びてきた。太陽は頭上に近い。それでも影は西から東へ、夕方のように道を横切っている。


 及川は何度もサイドミラーを確認していた。


「何か見えるのか」


「後ろから来ています」


「車か」


「影です」


 佐伯はミラーを見た。


 道路には誰もいない。


 ただ、車の後方を一人の影が走っていた。


 人間の身体はない。


 黒い輪郭だけが、道路の上を両腕を振って追ってくる。


 速度を上げても離れない。


 影は車体へ近づき、やがて後部バンパーの下へ潜り込んだ。


 車内が一瞬、暗くなった。


 ダッシュボードの画面が点灯する。


 接続していないはずの音声ファイルが、自動的に再生された。


 真木野車庫で録音した五人の子どもの声。


 その後に、水上の節が流れる。


 ながるる袖を 水へ返せよ。


 以前の録音には、そこまでしか入っていなかった。


 しかし今度は、その先に別の声が重なった。


 低い少年の声だった。


 「夕影を…」


 続く言葉を、若い女の声が受け取る。


 「里にとどめて…」


 最後に、ひどく老いた声が加わった。


 「山を越ゆ…」


 及川が再生を止めた。


 車内には空調の音だけが残った。


「録音時間が延びています」


「何秒だ」


「九秒です」


 誰も音声を加えていない。


 佐伯は車を路肩へ止めた。


 携帯電話を取り出し、卒業文集の白紙ページを開く。


 最初のページには、水上の一節が見えている。


 「「ながるる袖を 水へ返せよ」」


 その下。


 これまで何もなかった場所に、二つ目の文字列が浮かび始めていた。


 薄い墨色が、紙の奥から染み出すように、一字ずつ輪郭を得ていく。


 「「夕影を 里にとどめて 山を越ゆ」」


 佐伯は声に出さなかった。


 それでも文字を目で追っただけで、旋律が喉の奥へ入り込んできた。


「何か見えていますか」


 及川が尋ねた。


 佐伯は画面を向けた。


「ここに一行ある」


 及川は白紙を見つめ、首を横に振った。


「何もありません」


 佐伯には、はっきりと読めていた。


 夕影を、里にとどめて、山を越ゆ。


 人間だけが山の向こうへ消え、影は里に残される。


 それは夕番たちの死を記した言葉ではない。


 影平に分けられていた、古歌の一節そのものだった。


 二つ目。


 五つに分けられた歌のうち、二つ目が佐伯の前へ戻った。


 佐伯は携帯電話の画面を閉じた。


 今度は歌わない。


 水上の節を読んだとき、旋律が勝手に声へ混じった。今回は口を開かないと決め、唇を強く結んだ。


 その意思を確かめるように、奥歯を噛む。


 しかし足元の影が先に動いた。


 影の頭が上を向く。


 身体には存在しない口が開いた。


 車内のスピーカーから、佐伯自身の声が流れた。


「夕影を」


 佐伯の唇は閉じたままだった。


 影だけが、見つけたばかりの節を、正しい旋律で歌い始めていた。

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