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第六話 水の役(えき)

 水上へ向かう旧村道は、五集落へ分かれる道の中で最も低い場所を通っていた。


 山から下りてきた幾筋もの沢が、道路の左右に掘られた用水へ集まり、やがて集落の中央を流れる川へ落ちていく。晴天が続いているにもかかわらず、路面のところどころが濡れていた。斜面から染み出した水だろうと佐伯は考えたが、水の跡は道路を横切らず、進行方向へ細長く続いていた。


 まるで、濡れた何かが先を歩いているようだった。


「住民票上は三十七人です」


 助手席の及川が、遠守市から取り寄せた資料を見ながら言った。


「施設へ移った人や、市街地の家族宅で暮らしている人も含まれています。実際に水上で生活しているのは、三十人を切っているかもしれません」


「子どもは」


「十五歳未満はゼロです。最後にいた一家も、八年前に転出しています」


 水上集落へ入る青い標識が現れた。


 その先には古い家が二十軒ほど、川に沿って並んでいる。手入れの行き届いた家より、雨戸を閉めたままの家の方が多かった。道路脇の水田は半分以上が荒れ、背の高い草の間に、かつての畦だけが残っている。


 人口が減った山間集落としては、珍しい光景ではない。


 ただし、水上では、耕作を放棄された田にも水が入っていた。


 稲のない田面を、濁った水だけが満たしている。風が吹いても波は立たず、空の色を映すこともない。黒ずんだ水面のところどころに、丸い輪だけが広がっていた。


 何かが、水中から息を吐いているように見えた。


「転出理由は、仕事や学校、交通の不便さ」


 及川が続けた。


「どの世帯も、書類上はそうなっています。ただ、子どもが生まれてから数年以内に出た家が多いんです」


「仕事が必要になる時期でもある」


「ええ。でも、家も農地も処分していない。誰かが戻る予定もないのに、相続だけ続けている家が多いです」


 集落を捨てたのなら、土地も手放せばいい。


 しかし、水上を出た者たちは、住むことをやめても、所有することまではやめていなかった。


 佐伯は川沿いの家の前で車を止めた。


 佐々木文江は、玄関先で二人を待っていた。


 七十三歳。昭和二十七年に水死した佐々木澄江の姪であり、現在は一人でこの家に暮らしている。電話では何度も取材を断られたが、澄江の死が一度だけの事故ではなかった可能性を伝えると、文江は長い沈黙の末、会うことを承諾した。


「録音はしないでください」


 挨拶を終えるより先に、文江が言った。


「ここで聞いた声を、外へ持っていかないで」


 及川は録音機を取り出さず、鞄の留め具を閉じた。


「分かりました。メモだけ取らせてください」


「書いたものも、歌に近づくことがあります」


 文江はそう言ったものの、二人を追い返しはしなかった。


 通された座敷には、大きな仏壇と古い箪笥が置かれていた。壁には数枚の家族写真が掛けられている。その中に、成人式の着物を着た若い女性の写真があった。


「娘さんですか」


 及川が尋ねた。


「由香です。今は盛岡にいます」


「昭和六十三年には、真木野中学校の二年生でしたね」


 文江は写真を見なかった。


「学校のことを聞きに来たんですか。それとも澄江叔母さんのことですか」


「どちらも、同じ話だと考えています」


 佐伯は、調べた四件の記録を机の上へ並べた。


 文化年間の過去帳。

 明治十四年の水難記録。

 大正六年の記事。

 昭和二十七年の佐々木澄江。


 時代は違う。亡くなった者の家も年齢も違う。


 共通しているのは、水上で暮らす若い女性か少女が水に入り、遺体より先に袖や帯など、身につけていた物の一部が発見されていることだった。


「澄江さんの死も、その一つではありませんか」


「昔は、川で人が死にました」


「三十年から四十年ほどの間隔で、似た形の死が続いています」


「昔の川は、今より深かったんです」


「文化年間の記録には『袖残る』とある。明治十四年には片袖、大正六年には帯、澄江さんのときも柳に袖が残った」


 文江は資料へ手を伸ばさなかった。


 座敷の外で、水が落ちる音がした。


 庭には雨どいも水鉢も見当たらない。それでも、一定の間隔で、深い場所へ雫が落ちている。


「水上に伝わる節について聞かせてください」


 佐伯が言った。


 文江の目が、初めて正面から佐伯を捉えた。


「誰に聞きました」


「まだ誰からも。古い整理券に、言葉の一部が残っていました」


「読んだんですか」


「ながるる袖を」


 言い終わる前に、文江が机を叩いた。


 軽い音だった。しかし、その瞬間、庭から聞こえていた水音が止まった。


「続きを言わないでください」


「あなたは知っているんですね」


「知っていることと、口にすることは別です」


 文江は立ち上がり、座敷を出た。


 二人はその後を追った。


 廊下の突き当たりには、納戸として使われている小部屋があった。文江は中から平たい木箱を運び出し、座敷の畳へ置いた。


 蓋を開けると、帳面が三冊入っていた。


 一冊は水利組合の会計帳。

 一冊は共有地や農作業について記した古い記録。

 もう一冊には題名がなく、表紙に年号だけが並んでいた。


 文江が最初に開いたのは、会計帳だった。


 昭和二十六年度の欄に、佐々木家への支援が記されている。


 水利負担金、五年間免除。

 共同耕作地、一反二畝貸与。

 農作業人足、春秋各六日。

 療養費補助。


「澄江さんの父親は、当時病気だったんですね」


 及川が言った。


「肺を悪くしていました。田にも出られなかった。家には借金があって、冬を越せるかどうかも分からなかったそうです」


「この援助と、澄江さんの死に関係があるんですか」


 文江は答えず、無題の帳面を開いた。


 同じ年のページに、澄江の名があった。


 佐々木澄江 九歳。

 水の役。


 その下に、家長たちの名字が並んでいる。


 佐伯は数えた。


 十一人。


 佐々木姓だけではない。水上に残る旧家のほとんどが署名していた。


「集落で選んだんですか」


 及川が尋ねた。


「会議をしたそうです」


「九歳の子どもを?」


「初めから澄江叔母さんに決まっていたわけではありません」


 文江は乾いた声で言った。


「その年頃の子どもがいる家を一軒ずつ挙げた。長男だから駄目だ、病弱だから駄目だ、跡取りが一人しかいないから駄目だ。どこの親も、自分の子を外す理由を話したそうです」


 誰も、自分の子を差し出したくなかった。


 だから、自分の子が選ばれない理由を並べた。


 その理由が積み重なるほど、最後に残った一人を選ぶ理由が出来上がっていった。


「佐々木家には娘が二人いた。姉のハルが残れば、家は絶えない。父親は病気で、援助がなければ田を手放すしかなかった。村が支えれば家族は助かる。澄江叔母さんは、水の役を受ければ家族を救えると言われたそうです」


「本人には、何が起きるか説明したんですか」


「水を静める、大切な(えき)だと」


「死ぬ可能性は?」


「死ぬとは言いません」


 文江の手が、帳面の端を強く押さえた。


「大人は、言葉にしなければ自分は嘘をついていないと思えるんです」


 集落は澄江を金で買ったわけではない。


 少なくとも、帳面にはそう書かれていない。


 困窮した家を支え、その家の子どもに名誉ある役を任せた。その形式を取ることで、誰も自分を加害者だと思わずに済んだ。


「歌は誰が教えたんですか」


「言葉だけです」


 文江は木箱の中から、一枚の古い紙を取り出した。


 水上の一節らしい文字が記されている。しかし、紙の中央から下は折り畳まれたままだった。


「節の文句は、いくつかの家に残っていました。でも、旋律は誰も教えられなかった」


「記録されていない?」


「前の子が歌ったのを聞いても、後になると思い出せないんです。鼻歌にしようとすると、水の音しか出てこない。録音したこともあったそうですが、再生すると川の音に変わっていた」


「それなら、澄江さんはどうやって歌ったんです」


 文江は庭の方を見た。


「時期が来れば、分かるんです」


 歌い手として名を記された後、澄江の様子は少しずつ変わった。


 最初は、水道や用水路の音へ耳を澄ませるようになった。


 家族が何を聞いているのか尋ねると、


「まだ遠い」


 と答えた。


 やがて、川や井戸へ話しかけるようになった。


 学校から帰る途中、橋の上で立ち止まり、水面へ向かって何度も謝っていた。姉のハルが腕を引くと、澄江は泣きながら、


「返事をしないと、家まで来る」


 と言ったという。


 その頃から、澄江は水を怖がった。


 風呂へ入れない。

 雨戸に当たる雨音を聞くと耳を塞ぐ。

 茶碗の水面に映る自分の顔を嫌がる。


 それでも夜になると、裸足で川へ向かおうとした。


 戸を縛っても、朝には縁側に立っている。寝間着は乾いているのに、足の裏だけが濡れていた。


「歌い始めたのは、亡くなる一月ほど前です」


 文江が言った。


「最初は、眠っている間の鼻歌でした。誰も聞いたことのない旋律だった。でも年寄りたちは、それが正しいと分かったそうです」


「聞いたことがないのに?」


「分かったんです。聞けば、自分たちがずっと忘れていた歌だと」


 澄江本人は、旋律をどこで覚えたか説明できなかった。


 ただ、


「水の中で、袖のない子が歌っている」


 と話した。


 歌声は一人ではなかった。


 幼い声も、若い女の声も、老婆の声もあった。水上で役を受け、過去に水へ消えた者たちが、川底から次の歌い手へ旋律を渡していた。


「最後の日、澄江叔母さんは、ハルおばさんに言ったそうです」


 文江は膝の上へ視線を落とした。


「向こうに、自分の場所がある。みんなが少しずつ詰めて、待っているって」


 翌朝、澄江は家から消えた。


 川沿いの柳に、片袖だけが残っていた。


 集落の大人たちは捜索に参加した。泣いた者もいた。佐々木家を支え続けると約束した者もいた。


 しかし、水利負担の免除は三年後に打ち切られ、共同耕作地も父親が亡くなると返還された。


「約束は守られなかったんですか」


「水が静まれば、役も終わったと考えたんでしょう」


 文江は会計帳を閉じた。


「生き残った家族より、次の田植えの方が大事だったんです」


 佐伯は無題の帳面を先へめくった。


 大正、昭和と年代が進み、同じような記載が繰り返されている。


 歌い手の名前。

 年齢。

 水の役という短い言葉。


 別の帳面には、その家へ与えられた農地、免除された負担、提供された木材や人足が記録されていた。


 怪異と村の暮らしは、別々に存在していたのではない。


 人の死が、土地と労働と借金へ換算され、集落を維持する仕組みの中に組み込まれていた。


「昭和六十三年には、誰が選ばれたんです」


 佐伯が尋ねた。


 文江は答えなかった。


 佐伯はページをめくった。


 昭和六十三年。


 そこに一人の名があった。


 佐々木由香 十四歳。

 水の役候補。


 確定を示す印は押されていない。


 その代わり、名前の上には何度も鉛筆の線が引かれ、紙が薄く破れていた。


 壁の写真で、成人式の着物を着ていた文江の娘だった。


「由香さんが選ばれていた」


 及川が小さく言った。


「候補です」


「何が違うんですか」


「最後まで決まってはいなかった」


 文江は強く言った。


 しかし、その声は途中で弱くなった。


 当時、文江の夫は山仕事で足を負傷し、長く働けない状態だった。家には農機具の借金が残り、所有する水田だけでは暮らしを維持できなかった。


 集落からは、使われなくなった水田の優先貸し付けと、水利費の免除、農作業の支援が提示された。


 由香が水の役を受けるなら、という条件だった。


「断ればよかった」


 文江が言った。


「今なら、そう思います。でも、あの頃はここを出て暮らすことなんて考えられなかった。夫の足が治らなければ、家も田も失う。由香には、歌を覚えるだけだと言われた」


「あなたは、過去の歌い手がどうなったか知っていた」


「知っていました」


 文江は否定しなかった。


「でも、由香だけは違うかもしれないと思った。歌っても必ず死ぬわけではない。澄江叔母さんの死は本当に事故だったのかもしれない。昔と今は違う。そう考えれば、署名できました」


 人は、信じたい説明だけを選べる。


 まして、それが自分と家族の暮らしを守る説明ならば、なおさらだった。


 由香は歌詞を覚えさせられた。


 旋律は教えられていない。


 それでも、数週間後から水辺へ向かうようになった。


 夕食の途中に席を立ち、台所の蛇口へ耳を当てる。

 風呂場の戸を開けられず、向こうに誰かがいると泣く。

 学校帰りに用水路へしゃがみ込み、水面へ話しかける。


「誰と話していたんです」


「最初は分かりませんでした」


 文江は、壁の写真へ初めて顔を向けた。


「そのうち、名前を呼ぶようになりました。澄江、ミネ、トヨ。帳面にあった子たちの名前です。由香には見せていなかったのに」


 夜中には、知らない旋律を歌った。


 文江が起こすと、由香は自分が歌っていたことを覚えていなかった。


 ただ、目を開けた直後に、


「水の中の人たちは、歌が短くなったと言っている」


 と呟いた。


「短くなった?」


 及川が尋ねた。


「一つしかないから、終われない。あとの歌が来れば、みんなで終われると」


 その頃、三田園晴子が水上を訪れた。


 真木野中学校の郷土学習として、集落に残る古い歌を調べていた。


 三田園は、水上の節と似た言葉が他の集落にもあることを話した。五つを並べれば、一篇の長い歌になるかもしれないと興奮していた。


 文江には、その言葉が救いに聞こえた。


 一人で歌うから、一人が取られる。


 全校生徒で歌えば、由香一人の役ではなくなる。多くの声へ分ければ、水は誰を取ればいいか分からなくなる。


「ハルおばさんは反対しなかったんですか」


「最初は、先生を帰せと言いました」


 妹の死を見ていたハルは、水上の節を外へ出すことを恐れた。


 しかし、由香が夜ごと川へ近づいていく姿を見て、最後には考えを変えた。


 由香一人を死なせるよりは、学校の発表にしてしまった方がいい。



「私が、先生に紙を渡しました」


 文江が言った。


「水上の節を書いた紙です。ハルおばさんは旋律を知らないと言った。先生も、言葉だけなら自分で曲を整えられると言いました」


「実際には、由香さんが旋律を知っていた」


「先生の前で、由香が歌ったんです」


 誰にも教わっていない古い旋律を。


 三田園はそれを録音し、音符へ起こした。


 水上の節が、初めて学校へ持ち出された。


「文化祭の日、何が起きたんです」


「由香は覚えていません」


「あなたは会場に?」


「いました」


 文江の返事は短かった。


「五つ目の歌が始まったとき、体育館の床から水が出ました。ほかの人には見えていなかったのかもしれません。私には、由香の足元まで川が来ているように見えた」


 文江は舞台へ上がろうとした。


 しかし、観客席と舞台の間に、存在しない川が流れていた。


 水の中には多くの人影が立っていた。


 澄江もいた。


 九歳の姿のまま、片袖を失い、舞台の由香へ向かって口を動かしていた。


 その後の記憶は、文江にもほとんど残っていない。


 三田園が一人で歌ったこと。

 教師たちが生徒を校外へ出したこと。

 由香が三日間、高熱を出したこと。


 熱が下がると、由香は水の役について何も覚えていなかった。夜の歌も止まり、水辺へ近づくこともなくなった。


 文江は翌年、由香を盛岡の親戚へ預けた。


 卒業後は住所も移し、水上へ戻らせなかった。


「由香さんには、事情を話していないんですか」


「話していません。自分は母親に村を追い出されたと思っています」


「それでいいんですか」


「生きていますから」


 その答えに、迷いはなかった。


 文江は帳面を木箱へ戻した。


「由香だけではありません。学校が閉じる前から、子どものいる家は出ていきました」


 集落に残れば、いつか自分の子が候補に挙げられる。


 選定を断れば、共同作業から外される。用水を後回しにされる。農地を借りられなくなる。年寄りから、村全体を危険へさらす家だと責められる。


 それなら、子どもが幼いうちに出ていく方がいい。


 仕事がない。

 学校が遠い。

 病院がない。


 どれも転出の理由だった。


 しかし、それだけではなかった。


「過疎になったから、役を継ぐ人がいなくなったんじゃありません」


 文江が言った。


「自分の子を選ばせないために、みんな出たんです」


 集落を離れた若者を、老人たちは最初、無責任だと責めた。


 農地を捨てた。

 家を絶やした。

 先祖からの役を放棄した。


 しかし、自分の孫が生まれると、帰ってこいとは言えなくなった。


 古い制度は、恐怖によって維持されてきた。


 その恐怖を知る者ほど、自分の子どもには継がせられなかった。


「今は、誰を選ぶんです」


 佐伯が尋ねた。


「選べません」


「子どもがいないから?」


「それだけではありません。土地を与えると言っても、耕す人がいない。負担を免除すると言っても、ここで暮らすこと自体に価値がない。昔のやり方では、誰も引き受けません」


「歌い手がいなければ、怪異はどうなるんです」


 文江は少しだけ首を振った。


「昔の人は、役を置かなければ水が勝手に探すと言いました」


「誰を?」


「分かりません」


 四年前、空き家を測量していた男性が、深さ十センチほどの側溝で意識を失った。


 昨年は、家財整理のため帰省した女性が、空の浴槽で溺れかけた。発見した親族によれば、浴槽には水がなかった。それでも女性の肺からは大量の水が出た。


 二人とも、事故の前に子どもの歌声を聞いていた。


「春から、水の音が増えました」


「今年の春ですか」


「学校を壊す話が決まってからです」


 文江は窓の外へ目を向けた。


「夜になると、空き家の中で何人も歌っています。川に近づかなくても聞こえる。水はもう、ここで待っていないんだと思います」


 真木野中学校は、五集落の子どもが集まり、五節が一つになった場所だった。


 三田園が古歌を一人で歌い直し、なにかを引き受けた場所でもある。


 その校舎が八月に解体される。


 佐伯は、自分の影が窓の外を見た夜を思い出した。


 あの影が向いていたのは、水上ではない。


 五集落の中央にある、誰も住まない平野だった。


「帳面を撮影させてください」


 佐伯が言った。


「駄目です」


「名前は伏せます。集落の制度を裏付けるために必要です」


「裏付けて、新聞に書くんですか」


「同じことが起きる可能性があるなら、記録するべきです」


「三田園先生も、同じことを言いました」


 文江の声には、怒りより疲労が滲んでいた。


「失われる前に残したい。土地の歌だから、子どもたちへ伝えたい。誰にも知られず消えるのは惜しい」


「私は歌を復元しようとしているわけではありません」


「違うものを、一つの話にしようとしている」


 佐伯は口を閉じた。


「水上だけなら、水上の話です。昔の事故も、村の悪い習慣も、ここだけで終わる。でもあなたは、ほかの集落にも同じものがあると思っている」


 文江は帳面を抱き寄せた。


「五つを一緒にしないでください」


 座敷の外から、子どもの声が聞こえた。


 初めは、集落の道を誰かが歩いているのかと思った。


 しかし、水上に子どもはいない。


 声は庭からではなく、家の床下から響いていた。


 一人の鼻歌を、別の声が引き継ぐ。


 幼い声。

 若い女の声。

 ひどく老いた声。


 年代の異なる歌い手たちが、水の底で同じ旋律を渡し合っている。


 文江の顔から血の気が引いた。


「言葉を思い出さないで」


 誰に向けた言葉なのか分からなかった。


 床板の隙間から、水が染み出した。


 一滴、二滴ではない。


 畳の縁に沿って細い流れが生まれ、佐伯の靴下へ向かって伸びてくる。


 及川が椅子を引いた。


 佐伯も立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。


 床下の歌が、第五話で聞いた旋律と重なっている。


 ながるる袖を。


 続く言葉が、喉の奥へ浮かんだ。


 水へ返せよ。


 口にしてはいけないと理解している。


 それでも舌が、音の形を確かめようと動く。


「佐伯さん」


 及川が肩をつかんだ。


 その瞬間、歌声が止んだ。


 畳の上に水はない。


 佐伯の靴下も乾いている。


 ただ、座卓の下に置いていた手帳だけが濡れていた。


 開かれたページには、佐伯が書いた覚えのない文字が並んでいる。


 水上。

 影平。

 鳥越。

 日向。


 そして最後に、


 真木野。


 五つの集落名を結ぶように、濡れた一本の線が引かれていた。


 文江はそれを見ると、木箱の蓋を閉じた。


「帰ってください」


 今度の声には、懇願が含まれていた。


「あなたはもう、水上のことだけを調べていない」


 佐伯は手帳を閉じた。


 玄関を出るまで、三人とも言葉を発しなかった。


 外は朝と変わらず晴れていた。山の稜線にも雲はない。それなのに、家の軒からは雨水のような滴が絶え間なく落ちていた。


 車へ戻る途中、及川が川の方を見た。


「佐伯さん」


 川岸に、一人の少女が立っていた。


 古い着物を着て、片方の腕には袖がない。


 少女は水面へ向かって何かを話している。


 声は聞こえなかった。


 やがて少女は顔を上げ、道路にいる佐伯を見た。


 口元だけが動いた。


 次は、あなた。


 そう見えた。


 及川が瞬きをしたとき、川岸には誰もいなかった。


 帰りの車内で、及川はしばらく黙っていた。


 水上口の停留所を過ぎ、集落の家並みが見えなくなってから、ようやく口を開いた。


「記事にするんですか」


「まだ調べる」


「文江さんは、五つを一緒にするなと言いました」


「彼女の証言が正しいかどうかも確認する必要がある」


「そういう意味ではないと思います」


 佐伯は前方から目を逸らさなかった。


「真実が断片のままなら、誰にも伝わらない」


「伝わらない方がいいこともあるかもしれません」


「それを決めるのは、隠してきた側じゃない」


 言葉は、ほとんど反射的に出ていた。


 記事を握り潰した編集幹部。

 証言者を異動させた自治体。

 沈黙した議員と企業。

 何もなかったように紙面を作り続けた同僚たち。


 遠いはずの記憶が、一瞬で胸の内側へ戻ってきた。


 また、都合の悪い事実を隠そうとしている。


 また、誰かが真実をなかったことにしようとしている。


 水上の住民が恐れているのは怪異なのか、それとも、自分たちが子どもを選んできた事実を知られることなのか。


 佐伯には、まだ区別がつかなかった。


 ただ、今度こそ途中でやめるつもりはなかった。


 信号待ちで車を止めたとき、フロントガラスに佐伯の顔が薄く映った。


 本人の口は閉じている。


 それでも、ガラスの中の佐伯だけが、ゆっくりと唇を動かしていた。


 水上で、誰にも教えられないはずの旋律を歌いながら。

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