第五話 水へ返すもの
真木野車庫で録音した音声を、佐伯が改めて聞いたのは翌日の夕方だった。
記事に使用する証言だけを抜き出すつもりで再生を始めたものの、菊池が文化祭について語り始める辺りから、画面に表示された波形は、二人の会話とは別の細かな揺れを帯びていた。
川の音や車体の軋みなら、録音全体へ不規則に混じるはずだった。しかし、その揺れは一定の間隔を保ち、佐伯が質問を終えるたび、返事を待つように現れている。
問題の箇所まで音声を送った。
整理券に記されていた文字を読む、自分の声が流れる。
「ながるる袖を」
ほんのわずかな空白を挟み、菊池が叫ぶ。
「読むな」
二人の声の間には、車庫で聞いたときと同じ、子どもの歌声が残されていた。
一人目に重なって、二人目の声が入る。さらに遅れて三人目が加わり、四人目、五人目と続く。初めから合唱していたのではなく、ばらばらの場所にいる子どもたちが、先に聞こえた声を頼りに同じ節へ近づいていくような歌い方だった。
最後に、女の声が重なる。
かえせ。
録音機は佐伯の膝の上に置かれていた。女の声には、車内の壁や窓へ反射した響きがない。マイクよりも近い場所から、唇を触れさせるほどの距離で囁かれたように聞こえた。
「何を聞いているんですか」
背後から声をかけられ、佐伯は再生を止めた。
及川真帆が、取材鞄を肩に掛けたまま立っていた。
二十七歳。遠守支局では最も若い記者で、紙面記事のほか、ウェブ版に掲載する映像や音声の編集も任されている。小柄で、肩に届かない髪を耳へかける癖があった。話し方は柔らかいが、相手が曖昧にした部分をそのまま見逃すことは少ない。
「市営バスの運転手への取材だ」
「閉校記事ですよね」
「ああ」
「閉校記事にしては、ずいぶん難しい顔をしています」
及川は佐伯の返事を待たず、机の反対側へ回り込んだ。画面には、一時間に満たない音声の波形が表示されている。
「変な音でも入りましたか」
佐伯はしばらく迷った末、ヘッドホンを差し出した。
「声の数を確認してくれ」
及川は最初に通常の速度で聞き、次に再生位置を戻して目を閉じた。三度目には音量を下げ、机の上へ指を置いたまま、歌声が重なる間隔を取っていた。
「子どもは五人ですね」
「一人の声を、重なっているように聞き違えている可能性は?」
「声の高さも息の入り方も違います。少なくとも、同じ子どもの声ではありません」
及川は録音データを自分の端末へ複製し、人の声に近い音域だけを抽出した。
音の速度を落とすと、短い歌はひどく歪み、深い水の中から引き延ばされた声のようになった。それでも、一人目が発した音を二人目が受け、五人目まで順に渡していることは分かった。
「五人で一つの言葉を作っているように聞こえます」
「五人で?」
「全員が同じ部分を歌っているんじゃありません。少しずつ違うところを受け持っている。普通の速さで再生すると、一つの節に聞こえるんです」
及川が分離した五本の波形を見ながら、佐伯は、バスの行き先表示に並んでいた地名を思い出した。
真木野。水上。影平。鳥越。日向。
五つの集落。
数が一致しただけなら偶然で済ませられる。しかし、旧中学校の集合写真でも、生徒たちは五つの塊に分かれていた。菊池たちは互いの顔も名前も知りながら、卒業後は集落を越えた関係を深めようとしなかった。
知らないのではない。
つながないようにしている。
佐伯は昭和六十三年九月の記事を机へ広げた。水上集落の農家で、十四歳の菊池が老女から聞き取りをしている写真である。
「この女性を調べたい」
「佐々木ハルさんでしたね」
「菊池は顔も名前も知っていた。ただし、この日に何を聞いたかは覚えていない」
「亡くなっているんですか」
「平成十六年。九十二歳」
及川が社内のデータベースを開き、佐々木ハルの名を検索した。
死亡広告のほかには、婦人会や長寿者表彰の記事が数件あるだけだった。年代をさらに遡ると、昭和二十七年八月の紙面に、同じ名字を含む短い記事が見つかった。
記事は紙面画像で保存されていた。印刷が潰れ、細かな文字の一部は読みづらかったが、内容は判別できた。
水上集落で、九歳の少女が用水路へ流されて死亡した。
少女の名は、佐々木澄江。
ハルの妹だった。
夕方になっても帰宅しないため、住民が夜通し捜索を行い、翌朝、下流の堰で遺体が発見された。捜索の手掛かりになったのは、用水路沿いの柳に絡んでいた着物の片袖だったという。
記事の末尾には、姉のハルが最初に袖を見つけたと記されていた。
「ながるる袖を」
及川が呟いた。
佐伯は録音を再生した。
子どもたちの声が重なった後、女が「かえせ」と囁く。
川に流された少女。
柳へ残った袖。
水上集落で伝えられていた歌。
三つをつなげれば、それらしい意味にはなる。しかし、一件の水難事故だけで、古歌の怪異を断定することはできない。
佐伯は記事データベースの検索欄に、「水上」「水難」「袖」と入力した。
最初に表示されたのは昭和二十七年の記事だった。検索年代を戦前へ広げると、大正六年の地方欄に、似た事故が見つかった。
水上集落の十七歳の娘が、川で死亡している。
祭礼の翌朝から行方が分からなくなり、三日後、集落の下流で発見された。川岸の榛の木には、娘が締めていた帯の一部が残っていた。
佐伯は紙面を印刷し、昭和二十七年の記事の隣へ置いた。
「三十五年差ですね」
及川が言った。
「偶然としては、まだ弱い」
さらに遡る。
明治十四年の新聞は本文までデータ化されておらず、見出しと人名しか検索できなかった。県立図書館が保存する地方記録の索引に、水上の若い女性が堰で亡くなったという記載がある。
遺体が見つかる前日、川辺で衣服の片方だけが発見されていた。
大正六年から三十六年前だった。
佐伯は椅子を引き、背もたれへ身体を預けた。
明治十四年。
大正六年。
昭和二十七年。
間隔は三十年以上ある。正確な周期とは言い切れないが、ほぼ一世代に一度、同じ集落で、若い女性か少女が水に取られている。
そして、そのたびに身体より先に、袖や帯の一部が見つかっていた。
「もっと古い記録があるかもしれません」
及川は市史のデジタル資料を開いた。
近世の災害記録、寺院の過去帳、旧家から寄贈された覚書。検索可能な文字は限られていたが、水上集落にあった寺の過去帳を翻刻した資料に、文化年間の記載が残っていた。
名の後ろに、死因を示す短い添え書きがある。
流れ死に。
袖残る。
年齢は十二。
佐伯は三件の記事と、過去帳の記録を年代順に並べた。
水上で同じ死が繰り返されている。
人数も、年齢も完全には一致しない。しかし、少女あるいは若い女性が水へ入り、遺体より先に衣服の一部が残されるという形は変わっていなかった。
「事故が続いたというより、同じ事故を繰り返しているように見えますね」
及川の言葉に、佐伯は返事をしなかった。
同じ事故なのではない。
同じ節が、歌う者だけを変えながら、何度も同じ死を起こしている。
そう考えた瞬間、パソコンの画面が一度だけ明滅した。
資料室で撮影した卒業文集の画像が、操作していないにもかかわらず開いていた。
四ページの白紙。
これまで何度拡大しても紙の繊維しか見えなかった最初のページに、薄い墨色の文字が浮かんでいる。
古い筆跡を印刷したような、細く揺れる一行だった。
「「ながるる袖を 水へ返せよ」」
佐伯は画面へ顔を近づけた。
「何ですか」
及川が尋ねる。
「文字がある」
「どこに?」
「ページの中央だ」
及川は佐伯の隣へ来て、同じ画面を覗き込んだ。
目を細め、角度を変える。しかし、やがて首を横に振った。
「私には白紙にしか見えません」
「この一行が見えないのか」
「紙の染みならありますが、文字はありません」
佐伯には、はっきりと読めていた。
理解したから現れたのか。
水上で繰り返されてきた死と、袖という言葉の意味をつないだことで、白紙の中に隠されていた一節が戻った。
その考えを否定しようとしたが、別の説明は浮かばなかった。
「「ながるる袖を、水へ返せよ」」
確認するため、佐伯は一語ずつ読み上げた。
最初は平らに読んだつもりだった。
しかし、「袖を」の後で声がわずかに上がり、「水へ返せよ」へ向かって、なだらかに音が落ちていった。
車庫の録音に残っていた節と同じだった。
「佐伯さん」
及川の声が、すぐ近くから聞こえた。
「今、歌いましたか」
「読んだだけだ」
「途中から旋律がついていました」
「つけていない」
思った以上に強い声が出た。
及川は何も言わず、一歩離れた。
佐伯は口を閉じ、白紙の画面を見つめた。
一行目の下には、まだ何もない。
ただし、次の行がどこから始まるのかだけは分かった。文字は見えないのに、その位置へ目を移すと、喉の奥で言葉になる前の音が動き始める。
画面を閉じた。
「今日はここまでにしましょう」
及川が端末を片づけながら言った。
「分離した音声は保存しておきます。原本には触っていません」
「ああ」
「佐伯さんも帰った方がいいですよ」
及川は三件の水難記事を机へ残し、支局を出ていった。
扉が閉じた後、佐伯はしばらく椅子から動かなかった。
室内には空調の音だけが残っている。
机上の新聞には、水上で亡くなった少女たちの名が並んでいた。時代も家も違う。互いに会ったこともない者たちが、同じ形で水へ渡されている。
記事には、誰が歌わせたかは書かれていない。
そもそも、歌についての記載すらない。
けれど佐伯には、彼女たちが事故の前に何をしたのか、分かりかけていた。
水上の節を歌った者が、水に取られる。
一人が死ねば、その後しばらく、集落は守られる。
佐伯は手帳へ書き込んだ。
歌い手が、犠牲になる。
ペン先を紙から離したとき、自分の右手の影だけが、まだ文字を書き続けていた。
佐伯は動かなかった。
机の照明が作る影は、壁の下半分へ細長く伸びている。
本人の手は止まっている。
しかし影の指先は、見えない紙の上をゆっくりと進み、最後に一度、何かを打ち消すような線を引いた。
それから影は顔を上げた。
佐伯が見ている画面ではなく、支局の北西にある窓の方角へ。
五つの集落の中央に横たわる、誰も住まない平野の方へ。




