第四話 五つの記憶
菊池隆一から再び電話があったのは、翌朝の九時を少し回った頃だった。
前日の通話について詫びることも、途中で電話を切った理由を説明することもなく、今日の午後なら会える、とだけ告げた。午後三時半に最終便を終える。場所は遠守市営バスの真木野車庫。取材はその後にしてほしいという。
佐伯が昨日聞いた歌について尋ねると、受話器の向こうで沈黙が続いた。
「私が歌ったのですか」
「短い一節です。言葉までは聞き取れませんでした」
「そうですか」
菊池は否定しなかった。
その返事には、自分の知らない失態を指摘された戸惑いよりも、長く目を背けてきたものが、とうとう他人の前にまで現れたことへの諦めが滲んでいた。
真木野車庫は、旧中学校から川沿いに二キロほど下った場所にあった。
車庫とはいっても、トタン屋根の整備場と小さな待合室があるだけで、停められている車両も二台しかない。市町村合併以前は村営バスの拠点だったらしく、色褪せた看板には、塗り潰された旧村章の輪郭が残っていた。
佐伯が到着して間もなく、山側の道から一台の小型バスが戻ってきた。
乗客はいない。
行き先表示には「真木野循環」とあり、その下に、五つの集落名が小さく並んでいた。
日向、水上、真木野、影平、鳥越。
一つの地域として地図にまとめられた場所を、バスは毎日、決められた順番で結んでいる。
菊池は車両を所定の位置に停めると、運転席の計器を確認し、座席を一列ずつ見て回った。忘れ物を探しているというより、誰も残っていないことを確かめているような、念入りな見回り方だった。
電話の声からは神経質な痩せた男を想像していたが、実際には肩幅が広く、上体だけがわずかに前へ傾いていた。五十二歳。短く刈られた髪には白いものが混じり、日に焼けた頬には、長年同じ道を往復してきた時間が皺となって刻まれている。
「岩手北辰新聞の佐伯です」
差し出した名刺を、菊池は受け取る前に一度読み直した。
「昨日も伺いました」
「改めて、です」
名刺を胸ポケットへ収めた菊池は、待合室ではなく、乗ってきたばかりのバスへ佐伯を案内した。
「事務所ですと、ほかの運転手が戻るかもしれませんので」
「聞かれたくない話ですか」
「学校の昔話など、誰も関心はありませんよ」
そう答えながら、菊池は後部扉まで歩き、きちんと閉じていることを手で確かめた。
車内には、一日の運行でこもった熱が残っていた。菊池が窓を少し開けると、川の冷たい匂いを含んだ風が入り、座席の布地に染みついた埃と暖房油の臭いをゆっくりと薄めていった。
佐伯は中央付近の座席に腰を下ろした。菊池は通路を挟んだ向かい側へ座り、膝の上で両手を組んだ。
「録音しても構いませんか」
小型録音機を示すと、菊池の視線が一瞬、前後の扉を往復した。
「奇妙な音が入っても、私の声として扱わないでください」
「昨日のような音ですか」
菊池は答えず、小さく頷いた。
佐伯は録音を開始し、日時と場所を読み上げた。
取材の初め、菊池は比較的よく話した。
真木野中学校は、全校生徒の名前だけでなく、家や家族関係まで誰もが知っているほど小さな学校だった。上級生は下級生の兄姉を知り、教師は保護者の仕事まで把握していた。運動会には家族も集まり、集落対抗の綱引きが最も盛り上がったという。
昭和六十三年に勝ったのは、たしか影平だった。
その年、綱の最後尾には大柄な農家の男が入り、競技が終わる前に縄が切れた。菊池は、倒れた生徒の人数や、土に擦れた掌の痛みまで覚えていた。
ところが、同じ年の文化祭へ話を移した途端、記憶の輪郭が崩れた。
劇をしたような気はする。自分も舞台に立ったかもしれない。しかし、演目も配役も思い出せない。衣装を着たのか、教室で展示をしたのかさえ曖昧だった。
年月による忘却とは思えなかった。
運動会については、天候も勝敗も、綱を握った指の感触さえ残っている。それなのに、数か月と離れていない文化祭だけが、白い霧の中へ落ちている。
「全校郷土発表は、本当に覚えていませんか」
佐伯が尋ねると、菊池は窓の外を見たまま答えた。
「覚えていないのではありません。ありませんでした」
その否定だけが、不自然なほど明瞭だった。
佐伯は鞄から、昭和六十三年九月の記事の複写を取り出した。
五つの集落に生徒が分かれ、それぞれの土地に残る古い歌を聞き取っているという内容だった。参加生徒として数人の名前が挙げられ、その中に菊池隆一の名もある。
掲載された写真には、十四歳の菊池と思われる少年が写っていた。
古い農家の座敷で、年配の女性と向かい合い、膝の上にノートを広げている。少年の口はわずかに開き、女性の言葉を確かめるような表情をしていた。
「こちらは菊池さんですね」
「そう見えます」
「記事には、水上集落での聞き取りとあります」
「私は鳥越の出身です」
「学校の活動で水上へ行ったのでしょう」
「そうなのでしょうね」
菊池は記事に触れようとしなかった。
写真を見ることさえ避けるように、川の流れる方角へ顔を向けている。
「写真の女性が誰かは分かりますか」
しばらく返事がなかった。
やがて菊池は、諦めたように息を吐いた。
「水上の佐々木ハルさんです」
「ご存じなのですね」
「村に住んでいれば、誰でも知っています。もう亡くなりましたが」
「それなら、先ほど分からないと答えたのは?」
「誰かと聞かれたので、答えただけです」
意味の通らない返答だった。
菊池自身も、それ以上説明しようとはしなかった。
「佐々木さんから、歌を教わった記憶はありますか」
「ありません」
「この写真が撮られたことは?」
「覚えていません」
「顔も名前も知っている。しかし、ここで何を話したのかは覚えていない」
菊池の指が、膝の上で強く組み直された。
「顔を知っていることと、関わりがあることは別です」
「中学生の頃に直接会っています」
「記事には、そう書かれているのでしょう」
「現在も水上の方をバスに乗せますね」
「乗せます」
「同級生も?」
「います」
「話をしないのですか」
「行き先を確認します。運賃を受け取ります。降車する際に礼を言われれば、こちらも返します」
「それだけですか」
「それ以上、何を話すのです」
拒絶する口調ではなかった。
菊池にとっては、それが本当に自然な距離なのだ。
顔は知っている。名前も分かる。どこに住み、誰の家族であるかも把握している。週に何度バスへ乗るかさえ、おそらく知っている。
それでも、親しくはしない。
昔の話を持ち出さない。
用件が終われば、それ以上の言葉を交わさない。
五つの集落の住民は、互いを知らないのではなかった。
知った上で、関係を深めないようにしている。
「卒業後、他集落の同級生と会うことはなかったのですか」
「会いますよ。この辺りに住んでいれば、道でも店でも会います」
「では、なぜ交流が続かなかったのでしょう」
菊池は窓の外へ目を向けた。
山の陰が川面を覆い始めている。
「必要がなかったからです」
「同じ学校で三年間を過ごした相手でも?」
「学校にいる間は、学校の人間です。卒業すれば、それぞれの集落へ戻る。それだけのことです」
言葉だけを取れば、理解できない話ではない。
しかし、佐伯には、それが人間関係の自然な疎遠ではなく、長い時間をかけて身につけた作法のように聞こえた。
誰かに禁じられたのではない。明文化された決まりもない。ただ、他集落の者と昔の記憶を持ち寄らないことが、挨拶や戸締まりと同じ習慣として身体に染み込んでいる。
忘れたのではなく、つながない。
佐伯は手帳の隅に、その言葉だけを書き留めた。
「昔のことを掘り起こせば、すべて明確になるとお考えですか」
不意に菊池が言った。
「必ずしも、そうではありません」
「記者というのは、分からないままではいられないのでしょう」
「仕事ですから」
「分からない方がいいこともあります」
ありふれた警告だった。
だが、菊池は秘密を知り、それを守ろうとしているのではない。何が隠されているかさえ知らないまま、自分がそこへ触れれば何かを思い出してしまうことだけを恐れている。
佐伯は記事を裏返し、膝の上へ置いた。
「昨日の電話で、三田園晴子という名前を口にしましたね」
菊池の顔から、わずかに表情が消えた。
「覚えていません」
「旧音楽室についても、何も起きていないと言いました」
「何も起きていません」
「私は、音楽室の話をしていませんでした」
菊池は口を開いたが、言葉は出なかった。
何かを否定しようとしたのではない。
自分が何を否定したのか、その対象を探しているようだった。
「当時の音楽教師は誰でしたか」
佐伯が尋ねると、菊池はしばらく考えた末、男性だった、と答えた。
名前は出てこない。
年齢も曖昧だった。若くはなかった。背が高かったような気がする。顔は覚えていない。
では全校集合写真のどこに写っているのかと尋ねたとき、菊池の視線が佐伯の肩越しへ滑った。
車内の後方。
「写真の話はやめてください」
声がわずかに強くなった。
佐伯は振り返らず、録音機の表示だけを確認した。
二人とも黙っている。
窓の外から川音が入っている。
それとは別に、波形が一定の間隔で細かく揺れていた。
短く吸い、長く吐くような振幅。
誰かが後ろの座席で呼吸している。
その考えが浮かんだ直後、菊池が立ち上がった。
「今日は、ここまでにしてください」
「最後に一つだけ」
佐伯は録音機を持ち上げた。
「昨日、思い出そうとすると、出来事より先に歌が浮かぶと言いました。どのような歌ですか」
「そのようなことは言っていません」
「私は手帳に記録しています」
「聞き間違いです」
「節だけでも覚えていませんか」
「歌などありません」
菊池は運転席へ向かい、車内灯を点けた。
薄暗かった車内が白い光に照らされ、最後列までが一度に視界へ入る。
人影はなかった。
ただ、後部扉から通路の中央へ、濡れた足跡が続いていた。
裸足の子どもがバスへ乗り込み、そのまま最後列まで歩いていったような、小さな足形だった。乾いた床の上で、一つひとつが黒く光っている。
菊池も足跡に気づいた。
頬から血の気が引いたが、驚きの声は上げなかった。運転席脇から雑巾を取り出し、それを手にしたまま、通路の先を見つめている。
「雨漏りですか」
「今日は降っていません」
「最終便に子どもは?」
「乗客はいませんでした」
菊池は確かめるように繰り返した。
「誰も乗っていません」
足跡は、最後列の手前で途切れている。
その座席の上に、古びた整理券が一枚置かれていた。
佐伯が通路を進み、拾い上げる。
表面には停留所番号ではなく、鉛筆で「水上」と書かれていた。黄ばんだ紙は、川から引き上げたばかりのように湿っている。
「この路線のものですか」
菊池は答えなかった。
整理券を裏返す。
そこにも、薄い鉛筆書きがあった。
ながるる袖を。
七つの音だった。
目で追っただけなのに、佐伯の耳の奥には、その前後に置かれるはずの言葉のための空白が生まれた。途切れた文章ではない。続きを失った歌の一部であることが、なぜか分かった。
「見覚えはありますか」
佐伯が整理券を差し出すと、菊池は一歩後ろへ退いた。
「見せないでください」
「何が書いてあるか分かるのですか」
「何も書かれていません」
佐伯はもう一度、文字を見た。
「ながるる袖を、とあります」
読み上げた瞬間、菊池の顔が歪んだ。
「読むな」
それまで保たれていた丁寧な口調が消えた。
「続きを言うな。意味を考えるな」
「続きを知っているのですか」
「知らない」
「それなら、なぜ止めるんです」
菊池は両手で耳を塞いだ。
佐伯の声を拒んでいるのではなかった。身体の内側から上がってくる何かを、外へ出さないよう押し戻している姿だった。
閉じられた唇が、かすかに動いている。
声はない。
それでも、その口が「ながるる袖を」の続きを形作ろうとしていることだけは分かった。
やがて喉の奥から、細い音が漏れた。
まだ言葉ではない。
五つの音で上がり、七つの音で落ちていく、節の形だけを持った声だった。
佐伯は録音機を止めた。
停止音が鳴ると同時に、菊池の喉から音が消えた。
川の流れと、二人の荒い呼吸だけが車内に残った。
「今日は、ここまでにします」
佐伯は整理券を元の座席へ置き、録音機を鞄へ収めた。
菊池は耳から手を離したものの、顔を上げようとはしなかった。
「記事には、私の名前を出さないでください」
「内容を確認した上で判断します」
「そうではありません」
菊池は掠れた声で言った。
「私が話したことにしないでください」
「録音は残っています」
「その声が私のものだと、決めないでください」
佐伯は返事をせず、バスを降りた。
公用車の運転席へ座った頃には、日は山の向こうへ隠れ、車庫の周囲は谷底へ沈むように暗くなっていた。
録音を再生する。
冒頭には、佐伯が日時と場所を読み上げる声がある。続いて、菊池が学校について語り始める。
集落対抗の運動会。
曖昧な文化祭。
水上の佐々木ハル。
存在したはずのない男性教師。
声は間違いなく菊池のものだった。
佐伯は終盤まで音声を送った。
整理券の文字を読む自分の声が流れる。
「ながるる袖を」
その直後に、菊池の「読むな」という叫びが続く。
記憶どおりのやり取りだった。
ただし、二つの声は直接つながっていなかった。
佐伯が一節を読んだ後、ほんのわずかな間に、子どもの声が入っている。
細い声が、同じ言葉を節に乗せて繰り返していた。
一人ではない。
二人目が少し遅れて重なり、続いて三人目、四人目と増えていく。音程も速さもわずかにずれているのに、最後には五人分の声が、一つの歌へまとまっていた。
その奥から、低い女の声が加わる。
聞き取れた言葉は、一つだけだった。
かえせ。
佐伯は再生を止めた。
顔を上げると、先ほどのバスに車内灯がついていた。
菊池は運転席に座り、ルームミラー越しに最後列を見つめている。
後部扉が開き、誰もいない車庫に降車を知らせる電子音が響いた。
菊池は振り返らないまま、乗客へ案内するのと同じ声で言った。
「水上です。お降りの方は、お忘れ物のないように」
濡れた足跡が、最後列から後部扉へ向かって、一つずつ増えていった。




