第三話 残った学校
遠守支局へ戻った佐伯は、取材鞄を机の脇へ置くと、撮影データをパソコンへ移すより先に、手帳の新しいページを開いた。
上端に、昭和六十三年十月二十二日と記す。
真木野中学校文化祭。全校郷土発表。全校生徒五十八人。
少し間を空け、その下に二つの年を書き加えた。
平成二十七年、真木野中学校閉校。
令和八年、旧校舎解体予定。
三つの年を線で結ぶと、昭和六十三年の文化祭から学校の閉校まで、二十七年もの時間が横たわった。
もし、あの文化祭で何かが起きたのなら、学校はその後も長く存続したことになる。
生徒は翌日から同じ昇降口を通り、教師は同じ教室で授業を続け、春には新入生を迎え、三月には卒業生を送り出した。文化祭も運動会も、形を変えながら毎年行われたはずだった。
音楽室だけを閉ざしながら、学校そのものは何事もなかったように残り続けた。
佐伯には、そのことの方が不自然に思えた。
大きな事故は、たとえ表向き伏せられても、周囲に何らかの歪みを残す。教員の異動、施設の改修、保護者への説明、市町村議会の予算。新聞記事にならなかった出来事でさえ、別の名目を与えられ、記録のどこかに痕跡を残すものだった。
真木野中学校にも、何かあるはずだった。
佐伯は市教育委員会から受け取った学校沿革を開いた。
昭和六十三年度の欄には、校舎外壁補修、県中総体出場、真木野祭開催とある。文化祭の日付は十月二十二日。資料室で見つけた空のカセットケースに記された日付と一致していた。
その後に、休校や事故を示す記載はない。
翌年度の始業式も予定どおり行われ、生徒数は五十四人。教職員は十二人。学校は前年と変わらない顔で、新しい一年を始めていた。
ただし、教職員名簿から一人の名前が消えている。
三田園晴子。
昭和六十三年度に音楽を担当していた教師は、翌年度の名簿には載っていなかった。異動先の記載はなく、退職理由も記されていない。代わりに、隣町の中学校から音楽教師が週に二度派遣されている。
佐伯は社内の記事データベースを開き、三田園晴子の名を検索した。
該当した記事は三件だけだった。
一件目は、昭和六十二年四月の教職員人事。真木野中学校への赴任を伝える数行の記事。
二件目は、同年十一月の校内音楽発表会。地域に残る歌を生徒たちに調べさせている若い教師として、三田園の名が記されていた。
三件目は、昭和六十三年九月。文化祭に向け、五つの集落に伝わる古い歌を、生徒たちが聞き取っているという地域記事だった。
見出しは、「村の古歌、生徒の声で一つに」。
記事には三田園の言葉も残されていた。
同じ村に伝わる歌でありながら、集落によって言葉も節も異なる。生徒たちが一つの歌として声を合わせることで、村の歴史を確かめたい。
文化祭の一か月前の記事である。
それ以降、三田園の名前は紙面から消えていた。
異動も退職も報じられていない。県内の教職員人事欄にも、再び名前が現れることはなかった。
佐伯は書庫へ向かい、昭和六十三年十月から翌年三月までの縮刷版を運び出した。
古い新聞は、束になると紙そのものが重い。地域面を一日ずつめくり、文化祭前後の記事を確認していく。
十月二十三日の紙面には、集落の収穫祭と熊の目撃情報が掲載されていた。翌週には町道の改修、その次の週には初雪に備える除雪車の記事がある。
真木野中学校についての記事はなかった。
文化祭を開催したという、ごく短い記事さえ見当たらない。
準備の様子は取材されている。それなのに、本番の記事だけがない。
担当記者が現地へ行かなかった可能性はある。しかし、すでに一度記事にした企画なら、文化祭後に結果を確かめるのが自然だった。
佐伯は学校沿革へ戻り、昭和六十三年以降の行事記録を追った。
変化は、事故や中止ではなく、慣例の形で残されていた。
それまで毎年行われていた全校合唱発表会が、平成元年度から姿を消している。文化祭そのものは続いているが、学年劇、郷土史展示、農産物販売などが中心となり、全校生徒が一つの演目で声を合わせる企画は組まれなくなっていた。
生徒が少なくなった後も、複数学年が合同で歌った記録はない。
声を出す行事がなくなったのではない。弁論大会も、学年ごとの合唱も行われている。
避けられていたのは、全校生徒が一つの声になることだった。
音楽室については、平成二年度の施設台帳に短い記載があった。
旧音楽室、床面損傷につき使用停止。
翌年度には、二階の普通教室を音楽教室へ転用したとある。旧音楽室の修繕予算は、その後一度も計上されていなかった。
床が壊れたから閉じたのではない。
閉じるために、床が壊れていることにした。
佐伯は手帳へそう書きかけ、途中でペンを止めた。
推測と事実を同じ場所へ記すべきではない。線を引いて消し、代わりに「使用停止理由を確認」とだけ書いた。
学校は平成二十七年三月、最後の生徒九人を送り出して閉校した。
昭和六十三年の文化祭から二十七年後だった。
その後、校舎は十一年間使われないまま残され、令和八年八月から解体される予定になっている。
行政文書だけを読めば、人口減少によって役割を終えた山間部の中学校にすぎない。
だが、昭和六十三年を境に、真木野中学校からは、全員で声を合わせる行事だけが、理由を記されないまま取り除かれていた。
佐伯はパソコンへ取り込んだ写真を開いた。
資料室で撮影した卒業文集の四ページは、画面の上でも白紙のままだった。明度を落とし、コントラストを上げても、紙の繊維と小さな染みが見えるだけで、資料室で目にした文字の跡は浮かび上がらない。
次に、昭和六十三年度の全校集合写真を表示した。
校舎の正面に、五十八人の生徒と教職員が並んでいる。前列には教師が座り、その後ろに生徒たちが三列で立っていた。
集合写真でありながら、生徒たちは一つにまとまっていない。
五つの集落ごとに小さく固まり、それぞれの間には不自然な隙間が空いている。肩が触れないという程度ではない。互いの影まで重ならないよう、わずかに距離を取って立っていた。
中央に座る若い女性が、三田園晴子だろう。
学校要覧に掲載された顔写真と見比べると、肩まで伸びた黒髪と、細い輪郭が一致する。
彼女だけが、正面のカメラを見ていなかった。
身体は前を向いているが、顔はわずかに左へ傾き、生徒たちの間にある空白を見つめている。
佐伯は、その部分を拡大した。
最初は、制服の袖が写っているように見えた。
五つの集団の間にある空白に、誰かが一人だけ立っている。肩から下しか見えず、顔も足も写真の中にはなかった。
さらに倍率を上げると、像は粗い粒へ崩れた。
一度、写真を元の大きさへ戻す。
改めて同じ場所を拡大したときには、制服らしきものは消えていた。
佐伯が目を閉じ、眉間を指で押したところで、机の電話が鳴った。
支局長の田村は外出中で、ほかの記者も取材に出ている。受話器を取ると、総務担当者が、真木野中学校の卒業生から電話が入っていると告げた。
「菅原さんから、佐伯さんが昔の学校について話を聞きたがっていると連絡があったそうです」
電話を転送してもらう。
「岩手北辰新聞の佐伯です」
数秒の間を置いて、低い男の声が返ってきた。
「菊池隆一です。昭和六十三年には、真木野中の二年でした」
資料室で見た名簿にあった名前だった。当時十四歳なら、現在は五十二歳になる。
「ご連絡ありがとうございます。今は市営バスの運転手をされていると伺いました」
「ええ。菅原先生から、学校の記事を書く人がいると聞きまして」
「解体される校舎について、卒業生の思い出を紹介する予定です。運動会や文化祭、当時の友人関係などについて、お話を伺えればと思っています」
「昔のことですから、たいして覚えていませんよ」
菊池の声には警戒よりも戸惑いがあった。何を話せばよいのか分からず、連絡したことをすでに後悔しているようにも聞こえた。
「昭和六十三年の文化祭では、全校郷土発表が行われていますね」
受話器の向こうで、紙をゆっくり撫でるような雑音がした。
「全校発表ですか」
「五つの集落に残る古い歌を、一つの演目にまとめたものです」
「そんな発表は、なかったと思います」
「進行表と当時の記事が残っています。文化祭の一か月前には、準備の様子も新聞で紹介されていました」
「記事が間違っているんでしょう」
先ほどまで曖昧だった声に、初めて明確な否定が混じった。
「卒業文集にも全校共同作品が載っています。題名は『匿詩』。ただし、本文は白紙でした」
雑音が止まった。
電話回線そのものが切れたのかと思うほど、すべての音が消えた。
「菊池さん?」
「そんなものは、ありません」
一語ずつ、確かめるような声だった。
「俺たちは書いていない。文化祭で歌ってもいない。三田園という先生も知らない。音楽室で何かが起きたこともない」
佐伯は受話器を握ったまま、机上の手帳へ目を落とした。
三田園晴子の名も、旧音楽室のことも、菊池にはまだ伝えていない。
「なぜ、その先生の名前を知っているんですか」
菊池が息を呑んだ。
「今、俺は何と言いました」
「三田園先生を知らない、と」
「三田園……」
自分の口から出た名前を、初めて聞いたような繰り返し方だった。
その声の後ろで、女が歌い始めた。
遠く、細い声だった。
五音ほど上がり、七音ほどかけて下りていく、単調な節を繰り返している。
「そちらに、誰かいますか」
「いません」
菊池の声が小さくなった。
「今日は休みで、家には俺一人です」
歌声は電話の向こうから聞こえているのか、それとも支局の中から聞こえているのか、佐伯には判断できなかった。
やがて菊池にも聞こえたらしい。受話器から離れたところで椅子が倒れ、何かが床を擦る音が続いた。
「佐伯さん」
戻ってきた菊池の声は、囁きに近かった。
「記事にするなら、昔のことは書かないでください」
「なぜです」
「分かりません」
「理由も分からないのに、記事にするなと?」
長い沈黙の後、菊池は言った。
「思い出そうとすると、出来事より先に歌が浮かぶんです」
女の声が止まった。
代わりに菊池が、何かを口ずさみ始めた。
本人は意識していないらしく、話す途中の呼吸が、いつの間にか節へ変わっていた。佐伯には意味の取れない、古い響きの短い言葉だった。
「菊池さん。今、歌いましたか」
「歌っていません」
答えはあまりにも早かった。
次の瞬間、電話が切れた。
佐伯は受話器を耳へ当てたまま、しばらく動かなかった。
通常なら聞こえるはずの切断音がない。
代わりに、回線の向こうから、誰かが深く息を吸い込む音が聞こえていた。
長い一節を、これから歌い始めるための呼吸だった。




