第二話 白紙の共同作品
資料室は二階廊下の突き当たりにあった。
菅原が鍵を回すと、湿った紙と古い木材の匂いが流れ出した。室内には灰色の書棚が壁際まで並び、学校要覧、行事記録、卒業アルバム、学校文集などが年度別に収められている。閉校時に一度整理されたらしく、箱の側面には内容と年代が黒いペンで記されていた。
「解体前に必要なものは、市の資料館へ移すそうです」
菅原は入口の照明をつけた。
「残りは処分されます」
「どれを残すかは決まっていますか」
「正式にはまだです。卒業台帳や沿革資料は残るでしょうが、行事の写真や生徒の作文までは分かりません」
佐伯は棚を見渡した。
閉校した学校を記事にする場合、建物そのものより、そこに通った人間の記憶を拾う方が重要だった。校舎の傷みや生徒数の推移だけなら、市が作った資料を要約すれば足りる。しかし、それでは地域面の記事として弱い。
「卒業生の思い出を集めたいと思っています。運動会、文化祭、部活動、先生との出来事。写真や文集に名前があれば、取材先を探しやすい」
「昔のことを話したがる人ばかりではありませんよ」
「もちろん、無理に聞くつもりはありません」
菅原は返事をせず、棚の下段から一冊のファイルを引き出した。
表紙には「学校行事写真」とある。
佐伯は折り畳み式の机を開き、写真を年代順に見ていった。
運動会、入学式、校外学習、部活動の大会。どの写真にも、人数の少ない学校特有の近さがあった。生徒と教師の距離が近く、学年の異なる子どもたちが同じ作業をしている。
それでも、何枚か続けて見るうちに、一つの偏りに気づいた。
生徒たちは同じ集落の者同士で固まっていた。
運動会の応援席も、文化祭の準備風景も、遠足の集合写真も同じだった。学年別に並んでいる写真でさえ、列の中に目に見えない境界がある。
「集落ごとに班を分けていたんですか」
佐伯が尋ねると、菅原は写真へ目を落とした。
「そういう行事もあったでしょう」
「こちらは学年行事です」
「子どもは、近所の者同士で集まるものです」
説明としては間違っていない。
ただ、五つの集落はいずれも同じ中学校へ通う範囲にある。全校生徒が六十人にも満たない学校で、三年間を一緒に過ごしながら、写真を撮る瞬間まで集落ごとに分かれるものだろうか。
佐伯は昭和六十三年度のファイルを抜いた。
他の年度と比べ、写真が少なかった。
入学式、運動会、中総体、修学旅行。秋以降の行事写真がほとんどなく、文化祭に関するものは一枚も見当たらない。
「文化祭の写真は別に保管されていますか」
「残っていないのかもしれません」
「前後の年度には、かなりの枚数があります」
「撮影した先生が整理しなかったのでしょう」
菅原の返事は早かった。
佐伯は写真の下に重ねられていた書類へ手を伸ばした。
文化祭の準備日程、展示内容、当日の進行表。小規模校の行事としては、細かい資料が残っている。
文化祭の名称は「真木野祭」。
午前中には各学年の展示と発表があり、午後には演劇や合唱が組まれていた。
最後の演目は、午後二時十分から始まる全校郷土発表だった。
演目名が記されていたと思われる箇所は、黒い油性ペンで何度も塗り潰されている。紙を照明へ透かしても、下の文字は判別できなかった。
そのすぐ下に、鉛筆で小さな注意書きが残されていた。
発表後、音楽室使用禁止。
「これは、どういう意味ですか」
菅原は進行表を受け取ろうとせず、佐伯の手元から文字を見た。
「分かりません」
「発表後というのは、文化祭の後から使用禁止になったということでしょうか」
「誰が書いたものかも分かりません。正式な記録ではないでしょう」
「音楽室の床が傷んだのは、この時ですか」
「使用禁止になった理由と、床の傷みが同じだとは限りません」
菅原はそこで言葉を切った。
「記事に必要なことですか」
「閉校記事だけなら、必要ないでしょう。ただ、学校で何があったかを調べるなら必要です」
「何かあったと決めているように聞こえます」
「何もなかったなら、そう書きます」
菅原の眉がわずかに動いた。
棚の隅に、透明なプラスチック製のカセットケースが一つ置かれていた。
中身は空だった。
ケースに挟まれた紙には、手書きで三行だけ記されている。
昭和六十三年十月二十二日。
真木野中学校文化祭。
全校郷土発表。
「テープはどこにありますか」
菅原は、しばらく答えなかった。
「別の箱でしょう」
「先ほど、古い録音を再生しない方がいいと言いましたね」
「学校には、運動会や卒業式を録音したテープが何本もありました」
「この録音のことではありませんか」
「特定の一本を指したわけではありません」
「では、見つけた場合は聞いても構いませんね」
菅原の表情が硬くなった。
「声だけ残っていても、誰のものか確認できなければ記事には使えません」
「聞いたことがあるんですか」
菅原は答えず、カセットケースを棚へ戻した。
佐伯はそれ以上追及せず、学校文集の棚を調べた。
昭和六十三年度の一冊は、深緑色の表紙だった。中央には、雪をいただいた山と、その麓に建つ校舎が描かれている。
目次には、将来の夢、修学旅行、部活動、家族への感謝と、どの学校の文集にもありそうな題名が並んでいた。学年ごとの作文が終わった後、巻末に一つだけ、他とは異なる項目が設けられている。
全校共同作品。
「匿詩」
作者欄には、「全校生徒五十八名」と記されていた。
「この作品について、ご存じですか」
佐伯が文集を差し出すと、菅原は目次へ顔を近づけた。
題名を認めた瞬間、その視線が止まった。
「知りません」
「全校生徒の共同作品です。文化祭の郷土発表と関係があるのでは?」
「その年のことは、私も詳しくありません」
「菅原さんは当時、この学校にいなかった?」
「赴任したのは、もっと後です」
「それでも、閉校記念誌を作る際に過去の資料を確認していますよね」
菅原は佐伯を見た。
「どこで、それを?」
「校長室に記念誌の編集記録がありました。卒業生への聞き取りも行っています」
「昔の学校の思い出を、何人かに聞いただけです」
「この作品についても尋ねましたか」
菅原は文集から目をそらした。
「覚えていないと言われました」
「全員が?」
「人によって答えは違いました」
「どのように?」
菅原はすぐには答えなかった。
資料室の天井で、蛍光灯が低く鳴っている。窓は閉まっていたが、棚の奥で紙が一枚だけめくれる音がした。
「自分は書いていないという人もいました」
菅原は、やがて静かに言った。
「作品を見たことがないという人もいた。題名を知らない、全校発表などしていない、その年度の文化祭には出ていない。答え方はそれぞれでした」
「共通していたことは?」
「その作品は存在しなかった、と」
佐伯は指定されたページを開いた。
題名の次から、四ページにわたって何も印刷されていなかった。
五十八人の名を作者として掲げながら、本文は一文字もない。
紙は古びて黄ばんでいる。それでも、空白だけは不自然に整っていた。誤植や印刷漏れなら、訂正文や書き直した跡が残るはずだった。
佐伯はページを斜めに傾けた。
照明の光を滑らせると、紙の表面に細い凹凸が見えた。
何も印刷されていないのではない。
かつて、文字が書かれていた。
鉛筆か、筆圧の強いペンで記された言葉の跡が、紙の繊維へ押し込まれている。
「ここに、何か書かれています」
菅原の顔色が変わった。
「触らないでください」
それまで抑えられていた声が、資料室に響いた。
佐伯は文集から手を離した。
「紙を傷めるつもりはありません」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味ですか」
菅原は答えなかった。
机の上に開かれた四ページを見つめたまま、しばらく立ち尽くしている。
やがて、自分を落ち着かせるように息を吐いた。
「閉校時にも、その文集を確認しました」
「文字は見えましたか」
「何もありませんでした」
「筆圧の跡があります」
「それを読もうとした人もいました」
「誰です」
「卒業生の一人です。記念誌へ載せるため、昔の文集を確認してもらいました」
「読めたんですか」
菅原は、ゆっくりと首を横に振った。
「途中までは」
「何が書いてあると言っていました?」
「覚えていません」
「菅原さんが?」
「その人もです」
佐伯は文集へ目を戻した。
白紙の中央に、先ほどまでなかった黒い線が浮かんでいた。
短い筆跡だった。
印刷された文字ではない。細い墨で紙の上へ直接書いたように、数文字だけが並んでいる。
声にして、
佐伯は目を細めた。
その後ろにも、薄い文字が続いている。
はじめて忘れる。
声にして、はじめて忘れる。
音数を確かめるつもりはなかった。
それでも、最初の五音と、後に続く七音が、読む前から呼吸の中へ収まるのが分かった。
「菅原さん」
佐伯が顔を上げる。
「この言葉を見たことは?」
菅原は文集をのぞき込んだ。
白紙を見たまま、怪訝そうに眉を寄せる。
「何のことです」
「ここに書かれています」
「何もありません」
佐伯は再びページへ目を落とした。
文字は消えていた。
紙の表面には、古い凹凸だけが残っている。
「写真を撮ります」
佐伯はカメラを構え、四ページを順に撮影した。
液晶画面で確認すると、どの写真にも文字は写っていなかった。
菅原は文集を閉じた。
「今日の取材は、ここまでにしてください」
「まだ確認したい資料があります」
「市役所を通してください。私の判断で見せられる範囲を超えています」
「先ほどまで、処分予定の資料だと言っていました」
「だからこそです」
菅原は文集を棚へ戻し、資料室の照明を消した。
廊下へ出る直前、佐伯は机の下に細長い紙が落ちていることに気づいた。
古い原稿用紙の切れ端だった。
拾い上げると、中央に一行だけ書かれている。
声にして、はじめて忘れる。
今度は、はっきりと読めた。
「菅原さん」
呼び止めたときには、紙から文字が消えていた。
佐伯の指には、何も書かれていない原稿用紙の切れ端だけが残っている。
菅原はそれを見ても、驚かなかった。
「置いてください」
「これは、どこにあったものですか」
「知りません」
「文集と同じ言葉が書かれていました」
「何も書いていないでしょう」
菅原は資料室の中へ戻ろうとしなかった。
「持ち出さないでください」
佐伯は紙片を机へ置いた。
菅原が鍵を閉める。
施錠を確かめた後も、彼はしばらく扉の前から動かなかった。
「菅原さん」
「何ですか」
「閉校記念誌を作ったとき、その卒業生に何があったんです」
菅原の手が、鍵を握ったまま止まった。
「何もありません」
「では、なぜ記念誌に『匿詩』を載せなかったんですか」
「載せるものがなかったからです」
菅原は振り返らなかった。
「白紙だった。それだけです」
校舎を出ると、午後の日差しが山の向こうへ傾き始めていた。
佐伯は公用車へ乗り込み、運転席で撮影した画像を確認した。
文集の四ページは、やはり白い。
しかし最後の一枚だけ、紙面の左端に黒い文字が写っていた。
声にして、
そこまでで切れている。
佐伯は画面を拡大した。
文字の下には、鉛筆でなぞったような薄い線が続いていた。写真には写らなかった後半を、頭の中が勝手に補おうとしている。
はじめて忘れる。
その言葉を声に出しかけ、佐伯は口を閉じた。
車内には、自分しかいない。
それでも後部座席から、誰かが続きを待つように息を吸う音がした。




