表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第一話 閉校記事

 真木野中学校が取り壊される。


 その話を聞いたのは、六月の終わりだった。


「地域面で一本。できれば写真付きで」


 遠守(とおもり)支局長の田村が、市役所の資料を佐伯の机へ置いた。


 旧真木野中学校校舎解体工事。


 着工は八月。校舎は築五十年以上。閉校から十一年が過ぎ、冬の積雪で屋根の一部が沈んでいるという。


 佐伯直人(さえきなおと)は資料を手に取り、解体前の校舎を写した小さな写真を眺めた。


 三十九歳。身長は百七十七センチ。肩幅のわりに身体は薄く、頬もわずかにこけている。細い目と下がり気味の眉のせいで、不機嫌そうに見られることが多かった。


 取材では、それが役に立つこともある。


 相手が警戒して口を閉ざす一方、沈黙に耐えきれず、聞いてもいないことまで話し始める人間もいた。


 佐伯が勤める岩手北辰(ほくしん)新聞は、盛岡に本社を置く地方紙だった。県内各地に小さな支局を置き、議会や事件だけでなく、農作物の市況、地域の祭り、学校行事、死亡記事まで扱っている。


 全国紙ほど発行部数は多くない。


 それでも山間部では、朝刊に誰の名前が載ったかを気にする家が多かった。県政の記事より先に、隣の集落で誰が亡くなったかを確認する読者もいる。


 佐伯は以前、本社の社会部にいた。


 事件、事故、裁判、行政の不祥事。人が伏せたがる事実を聞き出し、知らない誰かに読ませる文章へ変えてきた。


 二年前、遠守支局へ異動した。


 社内では通常の人員配置と説明されたが、佐伯自身は左遷だと思っている。


「卒業生の思い出を集めてくれ」


 田村は佐伯の向かいに腰を下ろした。


「市町村合併でなくなった村の学校。地域にとってどんな場所だったのか、そこで何があったのか。そういう記事だ」


「真木野村は、今は遠守市ですよね」


「平成の合併で編入された。向こうの年寄りはいまだに村と言うけどな」


 佐伯は資料をめくった。


 真木野中学校の全校生徒数は、最も多かった時期でも六十三人。閉校時は九人。


 旧真木野村には五つの集落があり、すべての子どもが同じ中学校へ通っていたという。


「話が集まりますかね」


「六十人もいなかった学校だ。全員が顔見知りだったんだろ。運動会や文化祭、修学旅行、先生に叱られた話。何かあるさ」


 田村は資料の校舎写真を指で叩いた。


「元校長に校内を案内してもらって、卒業生も何人か紹介してもらえ。昔の写真があれば借りてこい」


「紙面だけですか」


「ウェブ版も出す。思い出を話してもらって、声も録ってこい」


「インタビュー音声ですか」


「短く編集して、写真と一緒に載せる。文字だけより、本人の声があった方が伝わるだろ」


 佐伯は手帳を開き、取材項目を書いた。


 生徒数の推移。


 五つの集落から通った学校生活。


 運動会。


 文化祭。


 部活動。


 卒業生同士の現在の交流。


 記憶に残る出来事。


 最後に「音声収録」と書き加えた。


 地方支局では、記事を書く者が写真も動画も撮る。最近では、取材相手の声や周囲の音まで求められるようになった。


 佐伯は録音そのものを嫌ってはいなかった。


 文章では整えられてしまう言葉も、声にはためらいや息継ぎが残る。取材相手が何を語ったかだけでなく、何を語る前に黙ったかまで記録できる。


「案内はいつです」


「明日の午前十時。最後の校長だった菅原さんが来る」


「ずいぶん急ですね」


「解体前に中へ入れる日が、そこしかないらしい」


 翌朝、佐伯はカメラと小型の録音機を取材鞄へ入れた。


 簡単な閉校記事になるはずだった。


 校舎を撮影し、元校長の話を聞く。卒業生たちに、運動会や文化祭の思い出を語ってもらう。昔の写真と本人たちの声がそろえば、地域面の記事としては十分だった。




――――――――――――――――――――



 真木野までは、遠守支局から車で一時間半ほどかかった。


 国道を外れ、川沿いの県道へ入る。道幅は次第に狭くなり、センターラインは途切れた。山の斜面から伸びた枝が、車体の屋根を何度かかすめた。


 旧真木野村は、真木野(まきの)影平(かげひら)水上(みずがみ)鳥越(とりごえ)日向(ひなた)の五集落から構成されている。


 地図上では一つの地域として塗られているが、実際には谷と尾根によって細かく分断されていた。


 最初に通過した日向には、日当たりの良い斜面に新しい住宅が数軒並んでいた。その先の林を抜け、しばらくくだると水上の古い家並みが現れる。


 距離にすれば、離れていないが険しい山道を進むため思ったよりも時間がかかる。


 しかし何よりも不思議なのは集落をまたぐと、標識も石碑もないにもかかわらず、空気が切り替わるような感覚があった。


 家の造りが変わる。畑の作物が変わる。道端に立つ地蔵の向きさえ異なる。


 同じ旧村内でありながら、それぞれが別の土地のようだった。


 佐伯は信号のない道を走りながら、取材用の録音機を助手席に置いた。


 車窓の音も記録に使えるかもしれない。


 エンジン音。川の流れ。タイヤが砂利を踏む音。


 後にウェブ記事を編集する際、卒業生の証言の間に挿入すれば、土地の雰囲気が補強できる。


 録音ボタンを押した。


「六月二十九日、午前九時二十四分。旧真木野村へ向かう県道。天候、曇り」


 記者になったばかりの頃からの習慣だった。


 日時と場所を音声で残しておけば、帰社後の整理が容易になる。


「日向集落を通過。続いて水上――」


 そこまで言って、佐伯は言葉を切った。


 道路脇に、三人の老人が立っていた。


 バス停でも商店の前でもない。三人とも、山側へ続く細い道を見つめている。


 佐伯の車が近づくと、一人がこちらを振り返った。


 残る二人は動かなかった。


 佐伯は速度を落としたが、声はかけずに通過した。


 バックミラーを確認する。


 三人はそれぞれ別の方向を向いていた。


 学校は、旧村の中心部にあった。


 郵便局と診療所、閉鎖された商店を過ぎ、緩やかな坂を上った先に、鉄筋三階建ての校舎が見えた。


 外壁は雨と雪で黒ずみ、窓の一部には板が打ち付けられている。正門脇の校名板は苔に覆われ、「真木野」の下半分しか判読できなかった。


 門の前に、黒い長靴を履いた老人が立っていた。


 最後の校長を務めた菅原だった。


「岩手北辰新聞の佐伯です」


 佐伯が名刺を差し出すと、菅原は社名を確認してから胸ポケットに収めた。


「遠方からご苦労さまです」


「本日は校内も撮影可能と伺っています」


「危険な箇所がありますので、私の後ろをお歩きください」


 菅原は必要最低限のことしか語らない人物だった。


 佐伯が小型録音機を示すと、わずかに眉をひそめた。


「発言も録音させていただきます。記事用ですが、使用箇所は事前に確認いただきます」


「録音は必須ですか」


「正確に記事化するためです。ウェブ版では短い音声を使用する場合もあります」


 菅原は録音機から視線を外さなかった。


「私の発言だけでしょうね」


「もちろんです」


「校内の音は入れないでください」


 佐伯は思わず校舎を見上げた。


「工事音でもあるのですか」


「古い建物ですので、いろいろと音が出ます」


 玄関の鍵が開くと、冷えた空気が流れ出した。


 六月とは思えないほど、校舎内は肌寒かった。


 下駄箱には、閉校時の生徒名が貼られたまま残されている。


 佐伯はカメラを構え、数枚撮影した。


「閉校時は九名でしたね」


「ええ」


「最盛期でも六十名程度だったと」


「多い年で六十三名です」


「五つの集落から通学していたと」


「真木野、影平、水上、鳥越、日向。全員がここに通っていました」


 佐伯は録音機を菅原に向けた。


「人数が少ないと、学年を越えても交流は多かったのでしょうか」


 菅原は廊下の奥を見た。


「学校としては、通常通りでした」


「通常通り、とは」


「小規模校ですので、誰がどの家の子かは皆把握していました」


 回答はわずかに噛み合っていなかった。


 佐伯はそれ以上追及せず、一階の教室を見て回った。


 黒板には閉校式の日付が薄く残っている。


 窓際には割れた花瓶。教壇の中には赤い採点ペンが一本だけ置かれていた。


 二階の廊下には、歴代の卒業写真が並んでいた。


 いずれも十数名規模で、教師を中央に生徒が二列で並んでいる。


 佐伯は三枚目の前で足を止めた。


 配置に違和感があった。


 身長順でもなく、男女別でもない。


 生徒たちは五つほどの小さな集団に分かれている。


 集団同士の間には、肩一つ分ほどの空白があった。


「集落ごとに分かれているのですか」


 佐伯が尋ねると、菅原は写真に目を向けた。


「そうかもしれません」


「卒業写真でもですか」


「偶然でしょう」


 佐伯は隣の写真を指した。


「こちらも同様です」


 菅原は答えなかった。


 昭和六十三年度の写真には、生徒五十八名が写っていた。


 その年だけ、五つの集団の間隔が明確に広い。


 中央の教師二名を挟み、生徒同士は互いに距離を保って立っている。


「この年に何かあったのですか」


「過去のことです」


「文化祭や運動会の記録は残っていますか」


「資料室にあるかもしれません」


「卒業生に当時の行事について取材したいと考えています。印象に残っている出来事や、共同で取り組んだ活動などがあれば」


 菅原はしばらく写真を見つめていた。


「運動会は集落対抗でした」


「学校行事でありながら、ですか」


「以前からその形式でした」


「文化祭は」


 菅原の視線が昭和六十三年度の写真から外れた。


「記憶していません」


「校長就任以前のことですね」


「そうです」


「記録が残っている可能性はありますね」


 佐伯が歩き出そうとした瞬間、菅原が腕をつかんだ。


 強い力ではないが、明確に制止する意図があった。


「古い録音があっても、再生しないでください」


「録音ですか」


 菅原は手を離した。


「カセットテープです。昔の学校ですので、行事の記録が残っているかもしれません」


「取材資料として確認します」


「音質が悪く、内容が判別できないはずです」


「判別できないのであれば、なおさら確認が必要です」


 菅原は何か言いかけた。


 その瞬間、佐伯の録音機から微かな音が漏れた。


 再生操作はしていない。録音ランプも点灯したままだった。


 それでもスピーカーから、かすかな声が流れた。


 遠くで子どもたちが話している。


 言葉は判然としない。


 やがて、教師と思われる女性の声が一つだけ浮かび上がった。


「集落ごとに固まらないで」


 佐伯は録音機を持ち上げた。


 声はすぐに途切れた。


「今の音、聞こえましたか」


 菅原は録音機を見なかった。


「古い建物はいろいろと音が出ると申し上げたはずです」


「建物の音ではありません」


「資料室へ行くのであれば、急ぎましょう」


 菅原は先に廊下を歩き出した。


 佐伯は録音画面を確認した。


 音声は途切れることなく記録されている。


 波形の中央に、無音のはずの数秒間だけ微細な振幅が残っていた。


 再生すると、今度は何も聞こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ