7話 オフサイドの罠
八月一日。
部室のホワイトボードの前に、サフィールと七海が並んで立っていた。
ボードには、七海の字でこう書いてある。
『サッカーのルール講座 第一回 オフサイド』
その下には、長方形のピッチの図。赤と青のマグネットが、二十二個並んでいた。
開け放した窓から、プールの塩素の匂いと、水しぶきの音が流れこんでくる。
「えっと……では、始めます」
七海は、少し緊張した声で言った。
マネージャーになって一年半。ルールを人に教えるのは、初めてだった。
部室の長いすには、残りの六人が座っている。
ローデリックは背すじを伸ばし、ボルグはおやつのバナナをむき、ミロは七海のペンケースに手を伸ばしかけて、タリクにそっと止められていた。セリオは一番前で、ノートを開いている。ゼノは――いつからいたのか、ロッカーの上に座っていた。
俺は、入り口の近くで腕を組んで見ていた。
航平の姿は、なかった。
スタメン発表の日から、航平は一度も練習に来ていない。
◇ ◇ ◇
「オフサイドっていうのは、簡単に言うと……」
七海が、青いマグネットを一つ、ゴール前に動かした。
「攻めている選手が、相手のゴールに近すぎる場所で待っていて、そこにパスが出たら、反則になるルールです」
「近すぎる、とは」
ローデリックが、手を挙げた。
「相手の、うしろから二番目の選手より、ゴールに近い位置です。キーパーを入れて、うしろから二番目」
七海が、赤いマグネットを指さす。
「この線より向こうで待っていたら、ダメ」
七人は、しばらく黙ってボードを見つめていた。
最初に口を開いたのは、サフィールだった。
「理屈は、わかった」
サフィールは、昨日の夜のうちに、ルールブックを全部覚えてしまっていた。条文の番号まで言える。
「だが、意味がわからない」
「意味?」
「なぜ、待ち伏せが反則なのだ」
サフィールは、青いマグネットをゴール前に置き直した。
「敵の守りの背後に兵を伏せ、合図とともに攻めかかる。わたしの国では、それは最も賢い戦術とされている。――待ち伏せを禁じるのは、賢さを禁じるのと同じではないか」
七海が、困った顔で俺を見た。
「えっと……ずるいから、じゃないかな」
「ずるい?」
「ずっとゴール前で待ってる人がいたら、その人にボールを蹴るだけで点が取れちゃうでしょ。それって、なんか……ずるいなって」
サフィールは、首をかしげた。
ずるい、という感覚そのものが、よくわからないという顔だった。
◇ ◇ ◇
その日の練習で、オフサイドのルールを実際にやってみた。
結果は、ひどいものだった。
八月の太陽が真上から照りつけ、白いラインの石灰が、まぶしく目を刺した。
ゼノが、十回、オフサイドになった。
笛が鳴るたびに、ゼノはディフェンスのはるか後ろで、つまらなそうに立っていた。敵の背後を取るのは、彼の体にしみついた動きなのだ。
「ゼノ、また! 線より前に出ちゃダメ!」
「……出ていない。俺は、最初からここにいた」
「だから、そこにいちゃダメなんだって!」
ローデリックは、反対に、ディフェンスラインを一人で上げ下げして、味方を混乱させた。
「下がれ! いや、上がれ! 全員、我の合図に従え!」
合図がバラバラなので、ラインはぐちゃぐちゃになった。
一番困っていたのは、セリオだった。
パスを出すたびに、「今、出していいですか」「オフサイドじゃないですか」と、いちいち確認する。確認しているうちに、ボールを取られる。
「セリオ、考えすぎ!」
奏太が、遠くから叫んだ。
自分が先輩に向かって叫んだことに気づいて、あわてて口を押さえた。
セリオは目を丸くして、それから、小さく笑った。
◇ ◇ ◇
練習のあと。
俺は職員室に、練習日誌を出しに行った。
菅野先生は、机の上に付せんだらけの入門書を広げていた。この一か月で、本はすっかりよれよれになっていた。
「早瀬くん。ちょうどよかった」
先生は、日誌を受け取ってから、少し言いにくそうに切り出した。
「スタメンのこと。……きみの案ではなく、サフィールくんの案を選んだのは、私だ」
俺は、黙っていた。
「言いわけになるけど、聞いてくれるかな」
先生は、眼鏡を外して、目もとをこすった。
「私はね、サッカーがわからない。わからない人間が、何を基準に十一人を選べばいいのか。……考えて、考えて、数字に頼った。数字は、私にもわかる言葉だったから」
先生は、少しだけ笑った。
「でも、戸田くんの顔を見て、思った。数字には、二年間が書いていない」
窓の外で、セミが鳴いていた。
「早瀬くん。私は国語の教師だから、こういう考え方しかできないんだけど」
先生は、眼鏡をかけ直して、俺をまっすぐ見た。
「キャプテンの仕事は、命令することじゃないと思うんだ。――通訳することなんじゃないかな」
「通訳……」
「あの七人は、私たちとはちがう言葉で考えている。強い、弱い、戦、掟。戸田くんは、くやしさの言葉で話している。大吾くんは、たぶん、がまんの言葉で。白石くんは、遠慮の言葉で」
先生は、指を一本ずつ折っていった。
「みんな、同じ日本語を話しているのに、言葉が通じていない。それをつなげられるのは、全員の言葉がわかる人だけだよ」
俺は、何も答えられなかった。
全員の言葉が、わかる人。
そんな人が、このチームにいるんだろうか。
「きみの戦術ノート、少し見せてもらったことがある」
先生が、ぽつりと言った。
「あれは、試合を見ている人のノートじゃない。選手の気持ちを見ている人のノートだと思ったよ」
◇ ◇ ◇
職員室を出ると、廊下の窓から夕焼けが差しこんでいた。リノリウムの床が、オレンジ色に光っている。
部室の明かりが、まだついていた。
のぞいてみると、サフィールと七海が、ホワイトボードの前で話しこんでいた。
「……やっぱり、わからない」
サフィールが、青いマグネットを指で動かしながら言った。
「ずるいから、だけでは、規則にする理由にならない。もっと別の理由があるはずだ」
俺は、部室に入った。
二人が、振り向いた。
七海が、あわてたように、サフィールから半歩はなれた。
その耳が、夕焼けのせいだけではなく、少しだけ赤くなっていた。
「たぶんさ」
俺は、ホワイトボードの前に立って、赤いマグネットの列を指でなぞった。
「オフサイドがあるから、ディフェンスは一列になって、いっしょに上がったり下がったりできるんだ。攻めるほうも、一人だけ前で待ってられない。みんなで、いっしょに前に進まなきゃいけない」
マグネットの列を、指でまとめて、少しだけ前に押し出す。
「一人だけ先に行ったら、反則になる。……全員で前に進むためのルール、なんだと思う」
サフィールは、ボードをじっと見つめていた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「一人では、運べない。一人だけ先には、行けない」
「ミナト。この儀式は、どこまでも、一人で勝つことを許さないのだな」
「……うん。たぶん、そういうスポーツなんだ」
サフィールは、ふっと息をはいた。
「わたしたちの世界にも、そういう掟が一つでもあれば――」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
「わたしたちの、世界?」
七海が、きょとんとした顔できき返した。
「……国の、まちがいだ。日本語は、まだ難しい」
サフィールは、マグネットをホワイトボードに戻した。
その指先が、ほんの少し、ふるえていたように見えた。




