5話 異世界の身体能力
「それでは、部内体力テストを始めます!」
七海が、ストップウォッチを高くかかげた。
首から下げたバインダーには、十六人分の記録用紙がはさんである。七海が夜中までかかって作った表だ。数字と枠が、定規で引いたみたいにきっちり並んでいる。
「種目は五つです。五十メートル走、垂直とび、シャトルラン、キックの精度、それから一対一。一年生、計測の手伝いをお願いします!」
「はーい!」
吉野と堀が、メジャーとコーンを抱えて走っていった。
七月の太陽が、グラウンドを容赦なく照らしている。砂の照り返しで、足もとから熱気がのぼってきた。セミの声が、どこかの木でうるさく鳴いていた。
「ねえ、湊」
小日向が、俺の横にしゃがみこんで、小声で言った。
「正直、どうなると思う?」
「何が」
「あの七人。昨日はめちゃくちゃだったけどさ。体力だけなら、もしかして」
俺は、答えなかった。
昨日の、ローデリックの突進。
はじき飛ばされた大吾。
消えては現れる、ゼノ。
本当は、うすうす気づいていた。
あの七人は、たぶん――ふつうじゃない。
◇ ◇ ◇
最初は、五十メートル走だった。
日本人で一番速いのは、航平だ。中学のころから、足には自信があった。
「位置について。よーい」
七海の笛が鳴る。
航平は、きれいなスタートを切った。腕をしっかり振って、ゴールまで一直線。
「六秒四!」
おおっ、と声が上がった。部内の新記録だった。
航平は息を切らしながら、ちらりと七人のほうを見た。どうだ、という顔だった。
次の組は、ゼノとローデリック。
笛が鳴った。
――と思ったときには、ゼノはもうゴールラインを越えていた。
「え」
七海が、ストップウォッチを見つめて、固まった。
「……五秒、六」
グラウンドが、しんとなった。
五秒六。
陸上部の短距離の選手でも、めったに出せない数字だ。
ゼノは、息ひとつ乱していなかった。
ゴールの向こうで、つまらなそうに自分のスパイクのひもを見ている。
その後ろから、ローデリックが走りこんできた。
「六秒、一!」
重そうな体で、航平より速い。
航平の顔から、表情が消えた。
◇ ◇ ◇
垂直とびでは、ボルグが壁につけた目盛りの一番上をはるかに越えて、手のひらで壁をたたいた。
目盛りが足りなくて、測れなかった。
「ボルグ先輩、もう一回! 今度は、こっちの柱で!」
堀が、興奮して叫んでいる。
ボルグは、のそりと柱の前に立った。
「……とんだら、甘い物はもらえるか」
「あげます! 俺のアメ、全部あげます!」
ボルグは、とんだ。
柱のてっぺんに、手が届きそうだった。
シャトルランは、サイレンが鳴るたびに、二十メートルを往復する持久力のテストだ。
ここで、初めて意外なことが起きた。
最初に脱落したのは、ゼノだった。
四十回をすぎたあたりで、ゼノの足が急に止まった。ラインの手前で、ひざに手をついて、肩で息をしている。
「……もう、いい」
それだけ言って、ゼノはコートの外へ出ていった。
七十回をすぎると、日本人も七人も、次々に脱落していった。
サフィールは、ずっと集団のまんなかを走っていた。速くもなく、遅くもなく。息の乱れ方まで、計算しているようだった。
九十八回。サフィールは、自分から足を止めた。
「……ここまでで十分だ。限界まで走れば、明日の練習にひびく」
涼しい顔でそう言って、タオルで汗をふいた。
最後まで残ったのは、ローデリックとタリクと、それから――大吾だった。
百回をこえても、大吾は走り続けた。
毎朝、誰よりも早く来て走っている大吾の足は、ここでだけは七人に負けなかった。
最後は三人同時に止まった。
大吾は、汗だくの顔で、小さくこぶしをにぎっていた。
◇ ◇ ◇
四つ目は、キックの精度だった。
ゴールの上のすみに、小さな的をぶら下げる。ペナルティエリアの外から十本蹴って、何本当てられるか。
日本人で一番うまいのは、奏太だった。十本中、三本。
俺は、二本。航平は、一本だった。
最後に、セリオの番が来た。
セリオは、ボールの前で、ずっともじもじしていた。
昨日、トラップもまともにできなかったセリオだ。蹴り方だって、まだわかっていない。
「無理しなくていいよ、セリオ」
奏太が、心配そうに声をかけた。
すると、サフィールがセリオの横に立って、小さな声で何か言った。
俺には、聞きとれなかった。ただ、最後の言葉だけが、風に乗って届いた。
「――的だけを、見ろ」
セリオの顔つきが、変わった。
さっきまでのおどおどした目が、すっと細くなる。
背中が、まっすぐに伸びる。
肩から、余計な力が抜けていく。
その姿は、弓を引きしぼる射手のようだった。
風が、ぴたりとやんだ。遠くで、セミだけが鳴いている。
セリオは、右足を振り抜いた。
フォームは、めちゃくちゃだった。サッカーの蹴り方じゃない。
それなのに――。
カンッ。
ボールは、ゴールの上のすみにぶら下げた的に、まっすぐ吸いこまれていった。
二本目。カンッ。
三本目。カンッ。
十本目が的を揺らしたとき、グラウンドの誰も、声を出せなかった。
十本中、十本。
セリオは、自分の足を見下ろして、不思議そうに首をかしげた。
「……当たって、しまいました」
◇ ◇ ◇
最後は、一対一だった。
攻める側と守る側に分かれて、ボールを奪われずに、小さなゴールまで運べるかを競う。
航平が、ローデリックに挑んだ。
航平のドリブルは、部で一番うまい。右に行くと見せて、左。体をひねって、相手の重心をずらす。中学時代、何十人もの選手を抜いてきた技だ。
でも、ローデリックは動かなかった。
フェイントに、まったく反応しない。
腰を落とし、両腕を少し広げて、航平の目と、腰と、ボールを、同時に見ている。
航平が仕かけた、その一瞬。
ローデリックの足が、すっと伸びた。
ボールは、ローデリックの足もとにあった。
「……なっ」
航平が、もう一度挑む。
また、取られる。
三回目も、四回目も。
「おまえの足は、剣士の足だ」
ローデリックは、ボールを航平に返しながら言った。
「速い。だが、仕かける前に、目が行き先を教えてしまう」
航平は、何も言わなかった。
ボールを受け取る手が、ふるえていた。
ミロは、日本人九人全員から、ボールを奪った。
奪ったボールを、なぜか一つずつ自分の足もとに集めて、満足そうにながめていた。
「ミロ、それ、ためこむ必要ないから」
「えー。だって、取ったものは取った人のものでしょ?」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
部室で、七海が記録用紙をホワイトボードに書き写していた。
部室には、汗と湿布と、使いこんだスパイクの革の匂いがこもっていた。
五十メートル走。一位、ゼノ。二位、ローデリック。
垂直とび。一位、ボルグ。
キックの精度。一位、セリオ。
一対一。一位、ミロ。二位、ローデリック。
上位は、ほとんど七人の名前で埋まっていた。
日本人の名前が一位に入っているのは、シャトルランの大吾だけだった。
みんな、ホワイトボードを見つめたまま、黙っていた。
最初に口を開いたのは、航平だった。
「……俺ら、いらなくね?」
笑っているような声だった。でも、目は笑っていなかった。
「あいつら七人に、鉄平先輩と大吾と、あと誰か二人入れときゃいいじゃん。そのほうが強いだろ。数字で、はっきり出てんだから」
「航平」
「だってそうだろ、湊。おまえだって、そう思っただろ」
俺は、答えられなかった。
思った。
思ってしまった。
セリオのボールが的に当たったとき。
ゼノがゴールラインを越えたとき。
ローデリックが航平のボールを奪ったとき。
――こいつらがいれば、勝てるかもしれない。
そう思った自分が、いちばん許せなかった。
◇ ◇ ◇
みんなが帰ったあと、俺は職員室へ行った。
菅野先生は、机の上に『はじめてのサッカー入門』を広げて、付せんをたくさん貼っていた。
職員室には、冷めたコーヒーと古い紙の匂いがした。
「早瀬くん。どうしたの」
「先生」
声が、思ったより大きくなった。
「サッカーは、遊びじゃないです」
先生は、ペンを置いた。
「足が速いとか、高くとべるとか、そういうのだけで勝てるなら……俺たちが二年間やってきた練習は、何だったんですか。毎朝走って、ボールを蹴って、負けて、また練習して」
言いながら、自分でも何が言いたいのか、わからなくなっていた。
七人に怒っているのか。
航平に怒っているのか。
それとも、何もできない自分に、怒っているのか。
菅野先生は、しばらく俺の顔を見ていた。
静かにきいた。
「早瀬くんは、どう思う?」
「……え」
「あの七人がいて、勝てると思う?」
俺は、少し考えてから、首を横に振った。
「わかりません。でも……今のままじゃ、たぶん勝てない。あいつらは、チームじゃないから」
「そうか」
先生は、それ以上何も言わなかった。
ただ、付せんだらけの入門書を閉じて、窓の外を見た。
夕焼けのグラウンドで、誰かがひとり、ボールを蹴っていた。
サフィールだった。
ボールを蹴っては追いかけ、また蹴っては追いかける。何度も転んでいる。そのたびに立ち上がって、またボールを追いかけていた。
キックの的当てでは、十本中一本も当たらなかった足で。
俺は、目をそらした。
カバンの中の退部届が、なぜか重く感じられた。




