4話 ボールは敵か?
七月三日。放課後。
グラウンドに、十六人が並んでいた。
右側に、日本人の九人。
左側に、七人。
その間に、見えない線が一本引かれているみたいだった。誰も、その線をまたごうとしない。
グラウンドの土は昼の熱をため込んでいて、スパイクの底から、じわりと温かさが伝わってきた。
「えー、それでは」
菅野先生が、一歩前に出た。手には、本屋で買ったばかりらしい『はじめてのサッカー入門』という本を持っている。表紙に、まだ値札がついていた。
「今日は、新しい仲間と最初の練習です。私はルールを勉強中なので……早瀬くん、お願いできるかな」
全員の目が、俺に集まった。
キャプテンなんだから、当然だ。
わかっている。わかっているけど、のどがつまった。
俺は、七人の前に立った。
「えっと……サッカーのルールは、簡単に言うと、ひとつだけです」
足もとのボールを、つま先で軽く浮かせて、手で受け止める。
「このボールを、相手のゴールに入れる。たくさん入れたほうが勝ち。それだけ」
七人は、真剣な顔でうなずいた。
ローデリックは、腕を組んで「ふむ」とうなった。ボルグは、ボールをじっと見つめている。ミロは、なぜか俺のポケットのあたりを見ていた。
「ただし――」
俺は、ボールを持った手を、七人の前に突き出した。
「手を使っちゃいけない。使っていいのは、ゴールキーパーだけ」
その瞬間。
七人の表情が、いっせいに変わった。
「……手を、使わぬだと?」
ローデリックが、信じられないという顔で言った。
「剣を持たずに戦うのは、まだわかる。だが、手を使わずに、どうやって球を運ぶ」
「足で」
「足で!?」
ボルグが、自分の太い足を見下ろした。セリオは、自分の両手を見つめて、泣きそうな顔をしている。
ただ一人、サフィールだけが、うなずいていた。
「なるほど。だから、この儀式は面白いのか」
◇ ◇ ◇
まずは、二人一組のパス練習から始めた。
日本人と七人を、一人ずつ組ませる。そのほうが早く覚えるはずだ。
俺の考えは、正しかった。――はずだった。
三分後。
グラウンドは、戦場になっていた。
「ぬおおおおおっ!」
一番最初にやらかしたのは、ボルグだった。
大吾が軽く蹴ったボールに向かって、ボルグは全速力で突っこんでいった。そして、ボールに肩から体当たりした。
ボールは、ものすごい勢いで飛んでいった。
フェンスを越えて、隣のテニスコートへ。
「すみませーん!」
小日向が、テニス部に頭を下げながら、ボールを取りに走っていく。
「ボルグ、肩じゃなくて足! 足で止めるんだ!」
「止める?」
ボルグは、首をかしげた。
「向かってくるものは、倒すのが礼儀ではないのか」
大吾が、助けを求めるような目で俺を見た。
次は、セリオだった。
奏太が出したパスを、セリオは――両手でキャッチした。
「あっ」
「手! 手はダメ!」
セリオはびくっとして、あわててボールを地面に置いた。それから、どうしていいかわからない顔で、ボールと奏太を交互に見た。
「……すみません。体が、勝手に」
なぜか奏太まで「いえ、こちらこそすみません」と頭を下げている。
二人で頭を下げ合っているので、練習が進まない。
その横で、航平が叫んだ。
「おい、ボールどこやった!?」
航平の足もとにあったはずのボールが、消えていた。
組んでいたミロが、両手を広げて、にっこり笑う。
「なにが?」
「今、俺が持ってたボールだよ!」
「知らないなあ」
ミロのシャツのおなかが、まんまるにふくらんでいた。
「……おまえ、それ」
「え? これ? ちょっとお昼、食べすぎちゃって」
航平が飛びかかると、ミロはするりとよけて、シャツの中からボールを転がり落とした。
「ほら、手は使ってないよ? おなかで運んだだけ」
「そういう問題じゃねえ!」
◇ ◇ ◇
ゼノの組は、もっと不思議だった。
西村がボールを蹴ったとき、ゼノは目の前にいた。
ボールが届いたとき、ゼノはいなかった。
ボールは、むなしくゴールのほうへ転がっていく。
「あれ? ゼノ?」
西村がきょろきょろしていると、背中のすぐ後ろから声がした。
「……ここだ」
「うわああっ!」
西村が、文字どおり飛び上がった。
「な、なんで後ろにいるんだよ」
「敵の背後を取るのは、基本だ」
「俺、敵じゃないって! 味方! パスの相手!」
ゼノは、少しだけ首をかしげた。それから、何も言わずに、また消えた。
タリクは、もっと静かだった。
吉野が何度ボールを蹴っても、タリクは動かない。
ボールが足もとを通り過ぎても、ただ立っている。
ときどき空を見上げたり、指をなめて風の向きを確かめたりしていた。
「あの……タリク先輩? ボール、取ってください」
「ああ、ごめん。見ていたんだ」
「何を、ですか」
「球が、どう転がるのか。この草の上だと、少し右に曲がるね。地面がほんの少しかたむいている」
吉野は、ぽかんと口を開けた。
それは、グラウンドで二年間練習してきた俺たちも、気づいていなかったことだった。
◇ ◇ ◇
一番大きな騒ぎを起こしたのは、ローデリックだった。
パス練習のあと、簡単なミニゲームをやることにした。八人対八人。日本人と七人を、まぜて二つに分ける。
キックオフの笛を吹いた瞬間、ローデリックがボールを持った。
そして、天に向かって叫んだ。
「全軍、我に続けぇっ!」
ローデリックは、ボールを蹴りながら、まっすぐ走り出した。
右も左も見ない。前だけを見て、一直線。
敵も、味方も、関係ない。
止めに入った大吾が、はじき飛ばされた。
奏太が、よけそこねて尻もちをついた。
なぜか同じチームの堀まで、巻きこまれて転がった。
「ローデリック! パス! パス出して!」
俺が叫んでも、ローデリックは止まらない。
「パスとは何だ! 敵陣は目の前ぞ!」
ゴール前。キーパーは、鉄平先輩。
ローデリックは、ボールを思いきり蹴った。
ボールは、ゴールの上を大きく越えて、グラウンドの外の植えこみに突き刺さった。
ローデリックは、勝ちほこったように両手を上げた。
「見たか! 敵の門を、越えたぞ!」
「……越えちゃ、ダメなんだよ」
鉄平先輩が、ぼそっと言った。
「ゴールの中に入れるんだ。上を越えたら、点にならない」
ローデリックの両手が、ゆっくりと下りた。
「……門をくぐらねば、ならぬのか」
「そう」
「なんと、奥ゆかしい儀式だ」
ぶふっ、と誰かが吹き出した。
小日向だった。
それにつられて、吉野も、堀も、西村も笑い出した。
気づいたら、俺も笑っていた。
おなかをかかえて、涙が出るほど笑った。
笑いすぎて吸いこんだ空気に、刈ったばかりの草の青い匂いがまじっていた。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。0対6で負けたあの日から、笑い方なんてすっかり忘れていたのに。
ローデリックは、みんなが笑っている理由がわからないらしく、まじめな顔で植えこみのボールを取りに行った。その背中が、また面白かった。
◇ ◇ ◇
でも、笑っていない人もいた。
「遊びじゃねえんだよ」
航平が、ボールを足で止めて、低い声で言った。
笑い声が、すっと消えた。
「なあ、湊。これ、サッカーか? 体当たりして、手でつかんで、服に隠して、どっか消えて、ゴールの上にぶっ放して」
航平は、七人を順番に見た。
「こんなやつらと、秋の予選に出んのかよ。また0対6だぞ。いや、もっとひどいかもな」
誰も、何も言わなかった。
ローデリックが何か言いかけたのを、サフィールが、そっと腕をつかんで止めた。
「……今日は、初日だから」
俺は、それだけ言った。
それ以上の言葉が、見つからなかった。
航平は、舌打ちをして、ボールを強く蹴った。
ボールはまっすぐ転がって、ゴールのネットを静かに揺らした。
◇ ◇ ◇
練習が終わって、みんなが帰ったあと。
俺がボールを片づけていると、サフィールが一人で残っていた。
ベンチに座って、菅野先生から借りた『はじめてのサッカー入門』を読んでいる。いや、読んでいるというより、ページをめくっている。教室のときと同じ、写真を撮るような速さだった。
最後のページを閉じると、サフィールは顔を上げた。
「ハヤセ・ミナト」
「湊でいいよ」
「ミナト。この儀式の規則は、すべて覚えた」
「……今ので?」
「ああ。オフサイドという規則だけは、まだ意味がわからないが」
サフィールは、本を胸に抱えたまま、グラウンドを見わたした。
夕日が、ゴールポストの影を、長く芝の上に伸ばしていた。
「ひとつ、きいてもいいか」
「なに?」
「なぜ、この儀式では、球を手で持ってはいけない?」
俺は、答えにつまった。
そんなこと、考えたこともなかった。
サッカーは、そういうものだから。最初から、そう決まっているから。
でも、サフィールの目は真剣だった。
俺は、手の中のボールを見た。
手で持てば、一人でどこまでも運べる。ゴールまで走って、そのまま投げこめばいい。
足だと、そうはいかない。
すぐに取られる。転がる。思ったところへ行かない。
だから――。
「たぶん、さ」
俺は、ゆっくりと言った。
「一人じゃ、運べないようにするためだと思う」
サフィールは、しばらく黙っていた。
ほんの少し、口もとをゆるめた。
「……そうか。一人では、運べない」
その言葉を、彼は何かの呪文みたいに、小さくくり返した。
「ミナト。わたしたちの国では、強い者は一人で戦う。一人で敵を倒せる者ほど、たたえられる」
サフィールは、立ち上がった。
「この儀式は、わたしたちにとって、思っていたよりずっと難しいかもしれない」
そう言って、彼は夕日の中を帰っていった。
部室のドアには、七海が貼った紙が一枚、風に揺れていた。
『明日 部内体力テスト 全員参加!』
七人の本当の力を、俺たちが知ることになる日だった。




