29話 最後の一撃
延長前半。
聖覇が、変わった。
それに最初に気づいたのは、ピッチのまんなかにいるサフィールだった。
「……ミナト。見ろ」
ヴォルフが、ボールを持った。
いつもなら、ここで一度、アズラクを見る。
でも、ヴォルフは見なかった。
かわりに、左サイドのシェイドを見た。
「シェイド!」
ヴォルフの声。
聞いたことのない言葉だった。たぶん、二人の故郷の言葉だ。
ボールが、ヴォルフから、シェイドへ渡った。
試合が始まってから、初めての、七人どうしのパスだった。
シェイドが、ワンタッチで、ナディムへ。
ナディムが、ワンタッチで、ゴール前へ。
速い。
〇・五秒の遅れが、どこにもない。
ナディムのシュートが、ゴールの右すみへ飛んだ。
鉄平先輩が、跳んだ。
指先ではなかった。
両手のひらで、がっちりと、ボールをはじき出した。
ボールは、ゴールポストの外へ転がっていった。
鉄平先輩は、ゴールの前に倒れこんだまま、空に向かって、大きく息をはいた。
朝五時に起きて勉強し、放課後の二時間を、全部ゴールの前で使ってきた。
その二時間が、今の両手の中に、全部つまっていた。
◇ ◇ ◇
アズラクは、そのプレーを、立ちつくして見ていた。
自分の合図なしに、七人がつながった。
それを、信じられないという顔で。
それから――アズラクは、ほんの少し、笑った。
くやしそうでもあり、どこか、ほっとしたようでもある笑いだった。
アズラクは、右手を上げなかった。
かわりに、大きな声で、仲間たちの名前を呼び始めた。
「ヴォルフ、下がれ! シェイド、右を見ろ! ナディム――おまえの弟が来ているぞ!」
合図じゃない。
命令でもない。
仲間に、見えたものを伝える声だった。
延長前半は、0対0のまま終わった。
◇ ◇ ◇
延長後半。
両チームとも、足は、もうほとんど残っていなかった。
ボールを追う足音が、重い。
誰かがボールをけるたびに、スタンドから、祈るような声がもれる。
スタジアムの屋根のむこうに、夕日がしずみかけていた。
オレンジ色の光が、ピッチを斜めに照らして、選手たちの影を、長く、長く、芝の上にのばしていた。
その光のむこうに、海が見えた。
冬の夕方の海は、一面、金色にかがやいていた。
六月の雨の日、ボールを拾いながら見た、あの暗い海と、同じ海だった。
延長後半、八分。
ミロが、ラシードからボールを奪った。
「セリオ!」
ミロの声で、ボールは右サイドのセリオへ。
セリオの前に、ナディムが立ちはだかった。
兄と弟。
ナディムは、セリオの右足を見ていた。
弓を引きしぼるように、ボールを狙う、あの右足を。
「セリオ」
ナディムが、低い声で言った。
「おまえは、いつも、最後の一本で手がふるえた」
セリオは、何も答えなかった。
ただ、右足を、振り上げた。
ナディムが、シュートコースに体を投げ出す。
――セリオの右足は、振り下ろされなかった。
足の裏で、ボールを、そっと横へ転がした。
二回戦で、航平と練習した、打つふり。
勝者を、二人つくるための技。
ナディムの体が、芝の上をすべっていく。
その横を、セリオが、ボールといっしょにすり抜けた。
ナディムは、倒れたまま、セリオの背中を見上げていた。
その顔が、ほんの少し、笑っていた。
◇ ◇ ◇
セリオが、ゴールラインの手前で、顔を上げた。
ゴール前には、ローデリックがいた。
ヴォルフが、そのうしろにぴったりとついている。
セリオの左足から、クロスが上がった。
ローデリックとヴォルフが、同時に跳ぶ。
元騎士団長と、元部下。
ローデリックの頭が、ヴォルフの頭より、ほんの少し高かった。
でも、ローデリックは、ゴールを狙わなかった。
頭を、下に向けた。
ボールを、ゴールの前の地面へ、そっと落とした。
――そこに、誰かが来ることを、信じて。
俺は、走っていた。
いつから走りはじめたのか、自分でもわからなかった。
セリオが顔を上げた瞬間か。ローデリックが跳んだ瞬間か。
ただ、わかっていた。
ローデリックは、きっと、ゴールを狙わない。
八月のあの日、「己の剣は、己で握れ」と言って頭を下げた騎士は、もう一人で突っこむことはしない。
ボールは、きっと、ここに落ちてくる。
才能じゃなかった。
足の速さでも、キックの強さでもなかった。
ずっと、みんなを見てきた。
仲間が、どこに走り、何を考え、どこにボールを置くのか。半年間、ベンチからも、ピッチからも、ずっと見続けてきた。
だから、わかった。
ボールが、俺の目の前で、ワンバウンドした。
聖覇のゴールキーパーが、飛び出してくる。
ゴドーが、横から飛びこんでくる。
全部、ゆっくりに見えた。
六月の雨の日。0対6。
退部届の白い封筒。
父さんの「やめちまえ」。
0対8の帰りのバス。
ローデリックの大きな手。
奏太の「行ってください」。
俺は、右足を振り抜いた。
ボールが、キーパーの指先と、ゴドーの足の間を抜けて――。
ゴールネットを、揺らした。
3対2。
◇ ◇ ◇
音が、消えた。
一瞬だけ、スタジアムの音が、全部消えた気がした。
ものすごい音が、上から降ってきた。
潮見ヶ丘のゴール裏が、立ち上がっていた。
一万人の声が、ひとつの大きな波になって、ピッチに打ち寄せてきた。
俺は、ゴールの前で、ひざから崩れ落ちた。
誰かが、背中に飛び乗ってきた。航平だった。
その上に、ミロが乗った。小日向が、足をつったまま、ベンチから走ってきた。ボルグが、全員をまとめて、両手で抱きかかえた。
ローデリックが、俺の頭を、大きな手でがしっとつかんだ。
「――見事だ、キャプテン」
スタンドの真ん中で、父さんが、両手で顔をおおっていた。
◇ ◇ ◇
残りの二分は、永遠みたいに長かった。
聖覇の最後の攻撃。
ヴォルフのシュートを、大吾が体で止めた。
こぼれたボールを、シェイドが拾う。
シェイドのクロスに、ゴドーが頭で合わせる。
鉄平先輩が、跳んだ。
ボールは、鉄平先輩の両手の中に、すっぽりとおさまった。
主審が、時計を見た。
笛を、口にくわえた。
長く、長く。
冬の夕空に、笛の音が、どこまでも、どこまでも、のびていった。




