28話 キャプテンの決断
「行けるか」
「……行けます」
声が、かすれた。
のどの奥が、からからに乾いていた。
ピッチのまんなかで、サフィールが振り返った。
ベンチ前の俺に、まっすぐ顔を向けている。歓声にかき消されて、声は聞こえない。でも、その口の動きで、何を言っているのかがわかった。
――最後の一手は、おまえが打て。
第四審判が、交代ボードを高くかかげた。
赤く光る数字の中に、「10」があった。
もう一つの数字は、「14」だった。
奏太の番号だった。
奏太は、ピッチから小走りで出てくると、俺の前で止まった。
息を切らしながら、まっすぐに、俺の目を見た。
「湊先輩」
一年生の、一番小さな選手。
半年前は、先輩に「右です」の一言も言えなかった奏太。
「さっき、ベンチに合図したの、僕です。……先輩が入ったほうが、勝てると思ったから」
奏太は、自分の手のひらを差し出した。
「行ってください」
俺は、その手のひらに、自分の手のひらを合わせた。
パチン、と音がした。
俺は、タッチラインをまたいだ。
芝の青い匂い。頬を切るような冷たい風。スパイクの裏から伝わってくる、冬の地面の固さ。
スタジアムの向こうから、かすかに、海の匂いがした。
◇ ◇ ◇
ピッチの上は、ベンチから見ていた景色とは、まるでちがった。
みんなの息づかいが、すぐそこで聞こえる。
ローデリックの肩が、大きく上下している。大吾の太ももが、ぴくぴくとふるえている。セリオのくちびるが、真っ白になっている。
それでも、誰一人、下を向いていなかった。
「湊!」
スタンドから、声が聞こえた。
一万人の歓声の中で、なぜか、その声だけが、はっきりと耳に届いた。
「――顔を上げろ!」
父さんの声だった。
スタンドの真ん中で、帽子を脱いだ父さんが、立ち上がっていた。
腕を組むのをやめて、両手を、口のまわりに当てて。
小学生のころ、公園で、初めて俺にボールの蹴り方を教えてくれたときと、同じ声だった。
俺は、顔を上げた。
◇ ◇ ◇
残り、二分。
聖覇は、守りに入っていた。
鷹司監督の声が、ベンチから飛ぶ。
白いユニフォームの十一人が、全員、ゴール前に下がってくる。
その中で、アズラクだけが、俺を見ていた。
サフィールに合図をさえぎられ続けて、アズラクの手は、もう上がっていなかった。
かわりに、その青い目が、俺の一歩一歩を追っていた。
ボールが、俺の足もとに転がってきた。
センターサークルの少し前。
顔を上げる。
――全部、見えた。
右サイドのタッチラインぎわ。
ゼノが、肩で息をしながら、それでも前だけを見て立っている。もう走れないはずなのに、シェイドは、まだゼノから目をはなせずにいた。同じ影の国の同期が、最後にもう一度だけ消えるかもしれない――そう思っているのだ。だから、右のスペースへの戻りが、半歩遅い。
ゴール前。
ゴドーとボルグが、まだにらみ合っている。ヴォルフは、ローデリックについている。
ペナルティエリアの手前。
航平が、聖覇のディフェンスラインと、横一列に並んでいた。ぴたりと止まって、俺を見ている。
その前に、アズラクがいた。
アズラクが、俺の前に立ちはだかる。
腰を落とし、俺の目と、足と、ボールを、同時に見ている。
八月の紅白戦で、ローデリックが航平を止めたときと、同じ構えだった。
――目は、行き先を教えてしまう。
七海のノートに書いてあった言葉を、思い出した。
だから、俺は、右を見た。
シェイドが空けた、右のスペースを。
アズラクの重心が、ほんの少し、右にかかった。
その瞬間。
俺は、右足のインサイドで、ボールを、アズラクの両足の間に通した。
八月の紅白戦で、ローデリックの股の下を通した、あのパスだった。
航平が、飛び出した。
ディフェンスラインと横並びの位置から。
パスが出た、その瞬間に。
一歩でも早ければ、オフサイド。
一歩でも遅ければ、追いつかれる。
――背後は、取るもんじゃねえ。もらうもんだ。
九月の朝、航平がゼノに教えていた言葉。
航平は、その背後を、ちゃんと「もらって」いた。
ボールが、航平の足もとに届いた。
キーパーが、飛び出してくる。
航平は、キーパーの動きを、最後まで見ていた。
六月の雨の日には、見えなかったもの。九月の聖覇の練習試合では、観客席の今井ばかり見ていて、見えなかったもの。
航平の右足が、ボールを、そっと押し出した。
ボールが、キーパーの脇の下をすり抜けて、ゆっくりと、ゴールラインを越えていった。
2対2。
◇ ◇ ◇
スタジアムが、ゆれた。
本当に、ゆれた気がした。
潮見ヶ丘のゴール裏から、地鳴りのような叫び声が、ピッチに降ってきた。
航平が、ゴールのうしろで、両ひざをついて、空に向かって叫んでいた。
「うおおおおおおおおっ!」
ミロが、航平の背中に飛び乗った。
「コウヘイ! 今の、最高の盗みだった!」
「盗んでねえよ! もらったんだよ!」
二人とも、泣いていた。
スタンドの真ん中で、今井が、立ち上がって拍手をしていた。
聖覇の制服を着たまま、両手を、ちぎれるほどたたいていた。
アズラクは、ピッチの上に、立ちつくしていた。
自分の両足の間を、抜けていったボール。
それを、信じられないという顔で、見つめていた。
その横を、ヴォルフが通り過ぎた。
ヴォルフは、アズラクを見なかった。かわりに、シェイドのほうを見て、何かを短く言った。
アズラクの合図を、待たずに。
◇ ◇ ◇
主審の笛が、長く鳴った。
後半終了。2対2。
延長戦。前半十分、後半十分。
ピッチの上で、十一人が、俺のまわりに集まってきた。
誰の足も、もう、ほとんど残っていなかった。
大吾は、ひざに手をついている。ローデリックは、ふくらはぎをさすっている。セリオは、自分の足で立っているのがやっとだった。
それでも、全員が、笑っていた。
「ミナト」
サフィールが、俺の肩に手を置いた。
「今のは、わたしの読みでも、おまえの読みでもなかった」
サフィールは、ピッチの上の十一人を見わたした。
「ゼノが走れない足でシェイドの目を盗み、カナタがおまえに場所をゆずり、ミロがボールの盗み方を変え、コウヘイが背後をもらい、おまえが通した。――十一の星が、一本の線になった」
延長戦の前の、短い休憩。
ベンチから、七海が、ドリンクのボトルを抱えて走ってきた。
菅野先生が、タオルを配っていた。
小日向が、つった足を引きずりながら、ボトルを一本ずつ、みんなに手わたしていた。
スタンドの上の空は、少しずつ、夕方の色に変わりはじめていた。
あと、二十分。




