2話 退部届
月曜日の朝。
校門の前で、小日向がビラを配っていた。
梅雨の晴れ間で、校門わきのアジサイが、青や紫の花を重たそうに揺らしていた。
『サッカー部、部員募集中! 未経験者大歓迎! 今なら即レギュラー!?』
手書きの文字が、やたらと大きい。すみっこには、どう見てもボールに見えないボールの絵が描いてある。
「サッカー部でーす! 初心者でもオッケーでーす! 一緒に青春しませんかー!」
登校してくる生徒たちは、ちらりとビラを見て、そのまま通り過ぎていく。受け取ってくれる人がいても、そのビラは昇降口のゴミ箱に吸いこまれていった。
「……小日向。その『即レギュラー』ってのは、やめたほうがいいんじゃないか」
俺が言うと、小日向はにかっと笑った。
「だって本当じゃん。今、九人しかいないんだから。入ったら全員、即試合に出られるって」
「それ、弱いって言ってるのと同じだろ」
「あ」
小日向はビラをまじまじと見て、それから大声で笑った。
つられて、俺も少しだけ笑った。
土曜日からずっと、笑い方を忘れていた気がした。
◇ ◇ ◇
一週間たっても、入部希望者は一人も来なかった。
放課後の練習は、選手九人とマネージャーが一人。
紅白戦もできない。四人対四人のミニゲームをやると、残ったひとりがボール拾いになる。
「おい、湊」
練習の合間、水を飲んでいると、航平がスマホの画面を突き出してきた。
「見ろよ、これ」
SNSの投稿だった。白いユニフォームを着た選手たちが、トロフィーを囲んで笑っている。
その中に、見覚えのある顔があった。
「……今井か」
「そう。中学で、俺の控えだったやつ。聖覇でベンチ入りしたってさ。インハイ予選、決勝まで行ったって」
聖覇学院。県内で一番強い私立。毎年のように全国大会に出ている、白いユニフォームのチーム。
「俺の控えだったんだぞ。俺がフォワードで、あいつはベンチ。それが今じゃ、あいつは全国、俺は0対6」
航平は、笑っていた。
笑いながら、スマホを握る指先が白くなっていた。
「航平」
「わかってるよ。比べてもしょうがないって言うんだろ」
航平は、スマホをバッグに放りこんだ。
「でもさ、毎日流れてくんだよ。見たくなくても」
俺は、何も言えなかった。
画面の向こうの「全国」は、ここから電車で四十分の場所にあるのに、月より遠く見えた。
◇ ◇ ◇
その日の練習のあと。
部室の鍵をしめようとしたとき、鉄平先輩に呼び止められた。
「早瀬。ちょっといいか」
部室の裏。自販機の明かりが、先輩の横顔を青白く照らしていた。
自販機のモーターが、ぶうんと低くうなっている。草むらのどこかで、気の早い虫が鳴き始めていた。
先輩は、カバンから一枚の封筒を取り出した。
表に、角ばった字で書いてある。
『退部届』
心臓が、どくんと鳴った。
「……先輩」
「親がな。受験に集中しろってさ」
鉄平先輩は、封筒を俺の手に押しつけた。
「推薦もない。スカウトが来るわけでもない。0対6のチームのキーパーを続けて、何になるんだってよ。……まあ、そのとおりなんだけどな」
「そんなこと――」
ない、と言いかけて、言葉が止まった。
本当に、そうだろうか。
先輩が何本シュートを止めても、俺たちは点を取れない。先輩の夏休みを、受験勉強の時間を、俺たちのチームは何で返せるんだろう。
「ただな」
鉄平先輩は、自販機で缶コーヒーを二本買って、一本を俺に放った。冷たい缶が、手のひらでころりと転がる。
「それ、まだ出さない。七月末まで、おまえが預かっといてくれ」
「え……」
「十一人そろったら、破って捨てろ。そろわなかったら、そのとき俺が菅野先生に出す」
先輩は、缶のプルタブを開けた。
カシュッ、という音が、静かな部室裏に響いた。
「どうせ同好会になったら、俺がいてもいなくても同じだからな」
それは、あきらめの言葉なのか。
それとも、最後のチャンスを俺に預けてくれたのか。
俺には、わからなかった。
ただ、薄い封筒は、思ったよりもずっと重かった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、リビングから野球中継の音が聞こえた。玄関には、焼き魚の匂いがただよっていた。
「ただいま」
「おかえり。ご飯、温めるね」
台所から母さんが顔を出した。
テーブルでは、父さんがビールを飲みながらテレビを見ている。父さんは、俺のほうを見なかった。
食卓につくと、母さんがみそ汁をよそってくれた。
湯気の向こうで、父さんが口を開いた。
「部員、集まったのか」
「……まだ」
「だろうな」
父さんは、テレビから目を離さないまま言った。
「勝てない部に、人は来ない。当たり前のことだ」
リビングの壁には、色あせた写真が飾ってある。
三十年近く前の、全国高校サッカー選手権。満員のスタジアムで、こぶしを突き上げている高校生。
早瀬剛志。俺の父さんだ。
県大会で八得点。全国でベスト8。プロのスカウトも見に来ていたらしい。
でも、その冬に膝をこわして、サッカーをやめた。
父さんは、その話をほとんどしない。
かわりに、俺の試合の結果だけをきく。
「湊。おまえ、もうやめたらどうだ」
箸が止まった。
「才能がないやつが、いくら走っても無駄だ。それより勉強しろ。そのほうがよっぽど将来のためになる」
「あなた」
母さんが、たしなめるように言った。
父さんは、それ以上何も言わなかった。
俺も、何も言い返さなかった。
言い返せば、父さんはきっと、写真の中の自分と俺を比べる。
そして俺は、どうやったって、あの写真には勝てない。
みそ汁の味が、しなかった。
◇ ◇ ◇
自分の部屋に戻ると、俺は机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。
表紙に、油性ペンで書いてある。
『戦術ノート No.7』
中学のころから書き続けているノートだ。
プロの試合を見て、フォーメーションを書き写す。選手の動きを矢印で描く。自分たちのチームなら、どう動けば勝てるかを考える。
身体能力も、技術も、平凡。
それでも、試合の流れを読むことだけは、誰にも負けない自信があった。
――読めても、動かせなければ意味がない。
ページをめくる。土曜日の試合の図が、そこにあった。
奏太がフリーだった位置に、赤い丸をつける。
航平が孤立した場所に、×をつける。
九人。
サッカーは、十一人でやるスポーツだ。
どんなに完璧な作戦を立てても、二人足りなければ、ピッチには穴があく。
俺はノートを閉じて、窓の外を見た。
あの夜、光が飛んでいった空。今夜は雲が厚くて、星ひとつ見えない。
机の上には、鉄平先輩の退部届が置いてあった。
(七月末まで、あと三週間)
◇ ◇ ◇
七月一日。
朝のホームルームで、菅野先生は出席簿を閉じてから言った。
「えー、急なお知らせです」
先生の声は、いつもより少しだけ上ずっていた。
「明日から、このクラスに転校生が来ます。……三人」
教室が、ざわっとした。
「三人!?」
「マジで? 三つ子とか?」
「いや、さすがにそれはないだろ」
先生は困ったように笑って、眼鏡を指で押し上げた。
「三人とも、海外からの帰国生だそうです。それから、ほかのクラスにも何人か。――全部で、七人」
七人。
その数字を聞いたとき、なぜか、あの夜の白い光が頭に浮かんだ。




