1話 雨の初戦
六月の雨は、ボールを重くする。
それを知ったのは、高校に入ってからだった。
中学のころは、雨の日の試合がむしろ楽しかった。水たまりでボールが止まるたびに笑って、泥だらけのユニフォームを見せ合って……。
でも今は、笑えない。
雨粒が、ユニフォームのえりもとから背中へ流れこむ。芝の匂いと、泥の匂い。口の中には、さっき転んだときの砂の、じゃりっとした感触が残っていた。
「早瀬! 前、前!」
ベンチから、菅野先生の声が飛んでくる。
言われなくても、わかっている。
前を向いた瞬間、目の前に紺色のユニフォームが二人、壁のように立ちはだかった。
私立湘陽学園。インターハイ予選、一回戦。
俺――早瀬湊は、ボールを足もとに置いたまま、パスコースを探した。
右には、二年の航平。でも、マークが二人ついている。
左には、一年の奏太。フリーだ。
奏太は手を上げかけて――すぐに下ろした。三年の先輩が「よこせ!」と叫んでいるのが聞こえたからだ。
(奏太、呼べよ。今、おまえが一番いい位置にいるんだ)
迷った一瞬で、ボールは奪われた。
紺色の背中が、雨のしぶきを上げて遠ざかっていく。追いかけても、追いつけない。
「止めろぉっ!」
最後尾で、大吾が体ごと飛びこんだ。スライディング。
ボールは外へ――出なかった。濡れた芝の上をつるりとすべり、相手のフォワードの足もとへ転がっていく。
シュート。
ゴールキーパーの鉄平先輩が、横っ飛びで右手を伸ばす。
指先がかすめた。
でも、ボールはネットを揺らした。
主審の笛が鳴る。
電光掲示板なんてない、市営グラウンドの古い得点板。係の一年生が、ずぶ濡れの手で数字の板をめくった。
湘陽学園 6 潮見ヶ丘 0
後半三十二分のことだった。
◇ ◇ ◇
試合終了の笛は、思ったよりも小さな音だった。
整列して、礼をする。
湘陽のキャプテンが「ありがとうございました」と頭を下げ、そのまま仲間のところへ駆けていく。笑い声が聞こえた。二回戦に向けた、明るい声だった。
俺たちのほうは、誰も何も言わなかった。
雨は、さっきより強くなっていた。ユニフォームが肌にはりつき、重たくて冷たい。スパイクの中で、靴下がぐちゅっと音を立てた。
「……おつかれ」
最初に口を開いたのは、三年の先輩だった。
「まあ、こんなもんだよな。湘陽、去年ベスト16だし」
「だよな。くじ運が悪かった」
「俺ら、これで引退な。受験あるし」
先輩たちは、まるで天気の話でもするみたいに言った。
誰も泣いていなかった。泣くほど、本気じゃなかったのかもしれない。
三年生は七人いた。そのうち六人が、この日で部を去ることになった。
残ったのは、一人だけ。
ゴールキーパーの、大城鉄平先輩。
先輩はゴールポストにもたれたまま、自分の右手をじっと見ていた。最後の失点で、指先がボールをかすめた右手だ。
「先輩は……続けるんですよね」
俺がたずねると、鉄平先輩は少しだけ顔を上げた。
「……さあな」
それだけ言って、先輩はグローブを外した。
◇ ◇ ◇
着替えを終えたあと、菅野先生が俺たちを、グラウンドのすみのテントに集めた。
残った部員が並ぶ。
三年の鉄平先輩。
二年の俺、航平、大吾、小日向、西村。
一年の奏太、吉野、堀。
それに、マネージャーの七海。
選手は、九人。
数えなくてもわかる人数を、俺は頭の中で何度も数えていた。
「みんな、おつかれさま。……言いにくいんだけど、大事な話がある」
菅野先生は、国語の授業で教科書を読むときと同じ、ていねいな声で言った。
先生は俺のクラスの担任で、サッカーの経験はない。去年、ほかに引き受ける先生がいなくて、顧問になった人だ。
「学校の部活動規定で、部員が十一人に満たない部は、同好会に変わることになっている。七月末の時点で、だ」
「同好会になると、どうなるんですか」
大吾が、まじめな顔できいた。
「部費が出ない。グラウンドの優先使用権もなくなる。それから――」
先生は、少しだけ言葉を切った。
「秋の選手権予選に、学校の部として出られるかどうか、わからなくなる」
テントをたたく雨の音が、急に大きくなった気がした。
「は? それ、マジで言ってます?」
航平が、ベンチを蹴るように立ち上がった。
「九人でどうしろって言うんすか。あと二人、七月までに? サッカーやりたい一年なんて、もう全員どっかに入ってますよ」
「戸田くん」
「だいたい、勝てない部に誰が入るんだよ。0対6だぞ、0対6」
誰も、言い返さなかった。
言い返せる言葉が、どこにもなかった。
「俺、ビラ作ります!」
突然、明るい声がした。小日向だった。
「今からでも遅くないって! 帰宅部のやつとか、野球部やめたやつとか、絶対いるから! なっ、湊!」
小日向は、公式戦にまだ一度も出たことがない。今日もずっとベンチだった。
それなのに、この中で一番、目が死んでいなかった。
俺は、うなずいた。
うなずくことしか、できなかった。
キャプテンなのに。
◇ ◇ ◇
みんなが帰ったあと、俺はひとりでグラウンドに残った。
雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から、夕焼けの名残りがのぞいている。濡れた芝が、うっすらと赤く光っていた。
ゴールの裏や、フェンスの下に、ボールが散らばっていた。試合後のどさくさで、誰も片づけなかったボールだ。
ひとつ拾うと、ずしりと重かった。雨を吸った表面が、指にからみつく。
海から吹く風が、濡れた髪を冷たくなでていく。カラスが一羽、鳴きながらねぐらへ帰っていった。
(俺に、何ができたんだろう)
奏太に「呼べ」と、声をかけられなかった。
先輩たちに、もっと本気でやろうと言えなかった。
航平の怒りに、何も答えられなかった。
俺がキャプテンになったのは、四月だ。三年生が誰もやりたがらなかったからだ。
「早瀬は真面目だから」。
理由は、それだけだった。
ポケットのスマホがふるえた。
父さんからのメッセージだった。
『何点取られた』
試合の結果をきくのに、「勝ったか」でも「どうだった」でもなく、「何点取られた」。
父さんは、知っているのだ。俺たちが勝てないことを。
俺は返信しないまま、スマホをポケットに戻した。
ボールを抱えて、最後のひとつを拾いにゴール裏へ回ったとき――。
空が、光った。
白い光の筋が、夜になりかけた空を横切っていく。
ひとつ、ふたつ……いや、もっとだ。いくつもの光が並んで海のほうから飛んできて、町の上で二つの方角に分かれていった。
そのうちのいくつかは、まっすぐ、こっちへ向かってくるように見えた。
「……なんだ、今の」
光は、すぐに消えた。
あとには、雨上がりの湿った空気と、遠くの波の音だけが残った。
流れ星にしては、低すぎた。飛行機にしては、速すぎた。
俺はボールを抱えたまま、しばらくその場から動けなかった。
あの光が何だったのか。
それを俺が知るのは、もう少しあとのことだ。
――七つの星が、俺のサッカーを、根こそぎひっくり返しにやってきたのだということを。




