七つの星が落ちた夜
十一月の空は、こんなに高かっただろうか。
見上げると、雲ひとつない青が、スタジアムの屋根のふちで四角く切り取られていた。
電光掲示板のオレンジ色の数字が、目に焼きつく。
潮見ヶ丘 1-2 聖覇学院
後半アディショナルタイム。残り、三分。
スタンドを埋めた観客の声が、ひとつの大きな波になって、ピッチに打ち寄せてくる。太鼓の低い音。ちぎれるような応援歌。どこかで誰かが泣いている。
俺は、ベンチ前のタッチラインに立っていた。
背番号10。左腕にはキャプテンマーク。
乾いたくちびるをなめると、汗の塩の味がした。
けれど、この決勝戦で俺がピッチに立った時間は、まだ一秒もない。
「早瀬」
肩に手が置かれた。顧問の菅野先生だ。
国語の先生で、オフサイドのルールを覚えたのは、ほんの数か月前。それでも、その手は少しも震えていなかった。
「行けるか」
「……行けます」
声がかすれた。のどの奥が、からからに乾いている。
ピッチの向こうで、白いユニフォームの十一人が、一枚の壁のように並んでいた。
聖覇学院。県内最強。去年の全国大会ベスト4。
その壁の真ん中に、銀色の髪の男が立っている。
アズラク。
あいつはこちらを見て、ほんの少し口の端を上げた。笑ったのか、あわれんだのか、俺にはわからない。
俺は、味方を見た。
赤いユニフォームの十人。
そのうちの七人は、半年前まで、ボールの蹴り方さえ知らなかった。
ゴール前で両手を広げる、岩のように大きなボルグ。
最終ラインで声を張り続ける、元騎士団長のローデリック。
右サイドで肩で息をしながら、それでも前だけを見ているゼノ。
中盤の真ん中で、静かにスタンドの風を読んでいるタリク。
中盤のまんなかで、サフィールが振り返った。ベンチ前の俺に、まっすぐ顔を向けている。
歓声にかき消されて、声は聞こえない。でも、その口の動きで、何を言っているのかがわかった。
「ミナト。最後の一手は、おまえが打て。それがこの戦の、いちばん美しい終わり方だ」
戦じゃない、試合だ。
この半年間、何十回もそう言い返してきた。でも、今日だけは言い返さなかった。
第四審判が、交代ボードを高くかかげる。
赤く光る数字の中に、「10」があった。
俺はタッチラインをまたいだ。
芝の青い匂い。頬を切るような冷たい風。スパイクの裏から伝わってくる、冬の地面の固さ。
――すべては、あの雨の日から始まった。
県大会の一回戦にすら勝てなかった、あの六月の雨の日から。
そして、俺たちの小さなグラウンドに、七つの星が落ちてきた、あの夜から。
◇ ◇ ◇
その世界には、月が七つあった。
セプテリア。
七つの国が、七つの月の下で、千年のあいだ戦い続けてきた大陸。
鉄の国ガルムントの騎士は、生まれた日に剣を握らされる。森の国シルヴァンの子どもは、言葉より先に弓を覚える。砂の国サルドでは、盗みは罪ではなく、生きのびるための技だった。
戦が終わらないのは、誰も負けを認めないからだ。
そしてこの大陸では、負けを認めることは、死ぬことと同じだった。
その夜。
大陸のまんなかにそびえる白い塔――〈天秤の塔〉の最上階に、七つの国の代表者たちが集まっていた。
円卓に、七つの椅子。
窓の外には、七つの月が、それぞれちがう色で浮かんでいる。白、青、赤、金――重なりあった光が、塔の石の床に、七色の影を落としていた。
卓の中央に置かれた銀の水盤には、この世界のものではない景色が、ゆらゆらと映っている。
緑色の、長方形の大地。
その上に引かれた、白い線。
色のちがう服を着た若者たちが、たったひとつの球を追いかけて、汗まみれで走っている。剣も、弓も、持っていない。
それなのに、彼らの顔は、戦場の兵士と同じくらい真剣だった。
「これが、異界の〈儀式〉か」
鉄の国の代表が、低くうなった。
「剣を持たず、血を流さず、それでも勝ち負けを決める。……信じられん」
「だからこそ、選んだのです」
円卓の上座で、白い髪の老女が答えた。
評議長グレイモア。七つの国のどこにも属さない、塔の番人だ。
「千年、わたしたちは殺し合いでしか勝ち負けを決められなかった。ならば、学びましょう。殺さずに競う方法を」
彼女は、細い指で水盤のふちをなぞった。
「七つの国から二人ずつ、もっとも優れた若者を選び、異界へ送ります。七人ずつ、二つの組に分けて」
「二つに分ける理由は」
「育て方を、競わせるためです」
老女の声は静かだった。けれど、塔の石壁がその響きを吸いこんで、いつまでも消えなかった。
「ひとつは、一人ひとりの力を、極限まで磨きあげる道。もうひとつは、ちがう者どうしを束ねる道。どちらの道が、あの球の儀式で勝ち残るのか。――勝った道が、これからの七国の形になります」
円卓が、ざわめいた。
「では、負けた道の七人は」
誰かがたずねた。
老女は、しばらく答えなかった。
水盤の中で、異界の若者がひとり、球を蹴りそこねて転んだ。仲間たちが駆け寄り、手を差しのべて、彼を起こしていた。
「……それは、彼ら自身が決めることです」
◇ ◇ ◇
塔の地下。
ひんやりとした石壁から、しずくの落ちる音がする。古い油のランプが、じじっと小さく鳴っていた。
〈門〉と呼ばれる石の輪の前に、十四人の若者が並んでいた。
右に七人。左に七人。
右の列の端で、サフィール・オルドは、星の国の紋章が入った外套のえりを、指先で何度も直していた。
緊張しているのではない。
――いや、正直に言えば、少しだけ緊張している。
門をくぐれば、魔法は消える。
星を読み、風を呼び、千の兵を動かしてきた彼の力は、異界では何ひとつ使えない。残るのは、鍛えた体と、頭の中の知識だけだ。
「サフィール」
左の列から、聞きなれた声がした。
銀色の髪。夜明け前の空のような、冷たい青い目。
同じ師のもとで学んだ兄弟子、アズラクだった。
「おまえはまた、弱いほうの船に乗るのか」
「船の強さは、漕ぎ手がそろったときに決まる。――と、師匠は言っていた」
「その師匠は、戦に負けて死んだ」
アズラクの声には、怒りも、からかいもなかった。ただ、事実を並べるような平らな声だった。
「俺は負けない。負けるわけにはいかない。俺の後ろにいる六人の命が、かかっているからな」
左の列の六人が、無言でアズラクの背中を見ている。その目に、迷いはなかった。
サフィールは、自分の列を振り返った。
鉄の国の騎士団長、ローデリックは、腕を組んで仁王立ちしている。
「案ずるな、軍師どの。いかなる戦場であろうと、我ら七人がそろえば、負けはせぬ」
岩の国のボルグは、門をくぐる前に食べておくのだと言って、干した果物をもぐもぐとほおばっている。
影の国のゼノは、壁のくぼみにもたれて、目を閉じていた。いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。
砂の国のミロは、さっきから評議員の外套についた飾りを、こっそり数えている。
森の国のタリクは、門の向こうから吹いてくる、知らない世界の風のにおいをかいでいた。
風の国のセリオは、列の一番後ろで、弓を持たない自分の両手を、不安そうに見つめていた。
(……ばらばらだ)
サフィールは、小さくため息をついた。
戦場なら、この七人は最強だろう。
けれど、自分たちが向かうのは戦場ではない。
あの緑色の大地で、たったひとつの球を、十一人で運ばなければならない世界なのだ。
「門を開け」
評議長の声が、地下の石室に響いた。
石の輪の内側に、青白い光が満ちていく。風が逆巻き、外套のすそが激しくはためく。冷たい空気の中に、かすかに雨と土の匂いがまじっていた。
「行くぞ!」
ローデリックが、真っ先に光の中へ飛びこんだ。
ボルグが続き、ミロが続き、ゼノはいつの間にか消えていた。
セリオだけが、最後まで足をすくませていた。
サフィールは、その背中をそっと押した。
「行こう、セリオ。的は、向こうにある」
光が、十四人をのみこんだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
日本の神奈川県、海沿いの町――潮見ヶ丘の空に、流れ星が落ちた。
十四の光が夜空を横切り、途中で二つの方角へ分かれていった。
七つは、町はずれの小さな高校のほうへ。
もう七つは、遠くの丘の上に建つ、白く大きな学園のほうへ。
気づいた人は、ほとんどいなかった。
雨上がりのグラウンドで、泥だらけのボールをひとつずつ拾い集めていた、ひとりの少年をのぞいては。
少年は、ボールを抱えたまま空を見上げ、つぶやいた。
「……なんだ、今の」
それが、俺――早瀬湊と、七人の異世界人との、最初の出会いだった。
まだ、おたがいの顔も名前も知らないまま。




