23話 最も重い一手
十一月八日。準決勝。
会場は、県立相模臨海スタジアムだった。
一回戦の市営競技場とは、まるでちがう。
コンクリートの観客席が、ピッチをぐるりと取り囲んでいる。屋根の上には、大きな電光掲示板。スタンドのあちこちに、各校の応援団ののぼりが、冷たい海風にはためいていた。
十一月の空気は、もう冬の入り口だった。
吐く息が白い。芝の上にうっすらと残った朝霜が、日差しを受けて、少しずつとけていく。
スタンドには、潮見ヶ丘の生徒たちが、思っていたよりずっとたくさん来ていた。
ベスト4まで勝ち進んだサッカー部を、学校じゅうが、やっと見つけてくれたのだ。
「湊ー! 航平ー! がんばれー!」
クラスの女子たちが、手作りのうちわを振っている。
小日向の弟たちは、今日も最前列で、少しだけ大きくなった横断幕を広げていた。
ピッチの反対側で、紺色のユニフォームが、ウォーミングアップをしていた。
私立湘陽学園。
六月の雨の日、俺たちに、0対6で勝ったチーム。
「……あのときの潮見ヶ丘か」
整列のとき、湘陽のキャプテンが、俺の顔を見て言った。
六月の試合のあと、「ありがとうございました」と頭を下げて、すぐに仲間のところへ駆けていった、あの人だった。
「別のチームみたいだな」
「別のチームですよ」
俺は、答えた。
「あのときとは、全部ちがいます」
◇ ◇ ◇
キックオフの前、ゼノが、俺のところに来た。
足首には、テーピングが何重にも巻かれていた。三回戦でひねった足首は、完全には治っていない。
「ミナト。今日は、二十分も走らない」
「……え?」
「影の国の掟だ。――最も重い一手を、先に打て」
ゼノは、自分の足首を見下ろした。
「この足では、二十分、全力で走れば、もたない。だから、最初から決めておく。走るのは、一度だけだ。一度だけ、全部を使う」
それは、九月に鉄平先輩に伝えた、あの掟だった。
「その一度が来るまで、俺は、何もしない。ただ、待つ。……合図は、サフィールに頼んである」
ゼノは、それだけ言うと、自分のポジションへ歩いていった。
◇ ◇ ◇
前半、ゼノは本当に、何もしなかった。
ボールが来ても、すぐに近くの味方へ返す。
相手のディフェンスについていくこともしない。ただ、ピッチの右はしに、影のように立っている。
湘陽のディフェンスは、最初こそゼノを警戒していた。
でも、十分たっても、ゼノは動かない。
少しずつ、ゼノへの注意が、ほかの選手へ移っていった。
前半十五分。
湘陽のコーナーキック。
湘陽の選手たちが、ほとんど全員、潮見ヶ丘のゴール前に上がってきた。
ボールが、ゴール前に蹴りこまれる。
ボルグが、両手を背中に組んだまま跳んだ。
その頭が、ボールをはね返した。
こぼれたボールを、サフィールが拾った。
サフィールが、ピッチの右はしを見た。
ゼノが、そこにいた。
湘陽の選手は、誰もゼノを見ていなかった。
「ゼノ!」
サフィールの声。
それが、合図だった。
ゼノが、消えた。
いや、消えたように見えた。それくらい、速かった。
十五分間、ためにためた力を、全部、一度に爆発させたみたいに。
サフィールの長いパスが、ゼノの前のスペースに落ちる。
ゼノは、それに追いついた。ハーフラインから、一人で、ゴールに向かって走る。
湘陽のディフェンスが、あわてて戻る。追いつけない。
キーパーが飛び出してくる。
ゼノは、キーパーの重心が右にかかった、その一瞬だけを見て――。
左に、流しこんだ。
1対0。
スタジアムが、どよめいた。
ゼノは、ゴールのうしろで、ゆっくりとひざをついた。
もう、走れない。足首を押さえて、肩で息をしている。
それでも、その顔は、満足そうだった。
「……一撃で、十分だ」
ゼノは、交代で入ってきた小日向に、手のひらを差し出した。
パチン、と音がした。
◇ ◇ ◇
湘陽は、そこから、猛攻をかけてきた。
去年のベスト16。
六月の試合で見せた、組織的で、速い攻撃。
鉄平先輩が、何度も、ゴールを守った。
ローデリックと大吾が、何度も、体を投げ出した。
「上げ!」
「上げぇっ!」
合言葉が、スタジアムに響く。
後半十五分。
俺は、大吾の動きが、少しおかしいことに気づいた。
右足を、ほんの少し、かばっている。
三回戦の雨の中で、ひざを使いすぎたのかもしれない。
――言うべきか。
一瞬、迷った。
今、大吾が抜けたら、ディフェンスのバランスがくずれる。
でも、九月のことを思い出した。
「知ってたくせに」と言った、大吾の顔を。
俺が、口を開きかけた、そのとき。
大吾が、自分から、右手を高く挙げた。
ベンチに向かって。まっすぐに。
「先生! 交代、お願いします!」
大吾は、ピッチの上で、大きな声で言った。
「ひざ、少し痛いです。このままだと、たぶん、みんなの足を引っぱります。だから――交代させてください」
スタジアムの喧騒の中で、その声は、はっきりと聞こえた。
菅野先生が、すぐに西村を呼んだ。
ピッチを出るとき、大吾は、ボルグとすれちがった。
ボルグは、何も言わずに、大吾の肩を、ぽんとたたいた。
大吾は、ベンチに戻ると、タオルを頭からかぶった。
肩が、少しだけふるえていた。
でも、その口から出た言葉は、くやしさじゃなかった。
「……言えた」
大吾は、タオルの下で、小さくつぶやいた。
「ちゃんと、自分で、言えた」
◇ ◇ ◇
後半の終わりが、近づいていた。
1対0のまま、残り五分。
湘陽は、最後の力をふりしぼって、前に出てきた。
潮見ヶ丘は、ゴール前に、全員で壁を作った。
まるで、準々決勝の白嶺のように。
後半四十四分。
湘陽のロングボールが、ゴール前に放りこまれた。
ボルグが跳ぶ。湘陽のフォワードも跳ぶ。
二人の頭が、ぶつかりそうになる。
ボールは、ボルグの頭を、ほんの数センチ越えた。
そのうしろに、湘陽の別の選手が走りこんでいた。
鉄平先輩が、飛び出す。
指先が、ボールにふれる。
――でも、止められなかった。
1対1。
湘陽の選手たちが、雄たけびを上げた。
紺色の応援団が、スタンドで跳ねている。
その直後、主審の笛が、長く鳴った。
後半終了。
延長戦だ。
ピッチの上に、潮見ヶ丘の選手たちが、ばらばらと座りこんでいた。
誰も、口をきかなかった。
冷たい海風が、汗に濡れた背中を、容赦なく冷やしていく。
夕方の光が、少しずつ、オレンジ色に変わり始めていた。
俺は、立ち上がった。
「まだ」
声が、かすれた。
もう一度、言い直した。
「まだ、終わってない」
サフィールが、俺の隣に立った。
ローデリックが。航平が。セリオが。
一人、また一人と、立ち上がっていった。




