19話 開幕戦
十月四日。
選手権予選、一回戦の朝は、雲ひとつない秋晴れだった。
市営競技場のまわりには、キンモクセイの甘い香りがただよっていた。
観客席は、がらがらだった。それぞれの学校の部員と、家族が少し。それだけ。
それでも、俺の心臓は、六月の初戦と同じくらい、どきどきしていた。
相手は、県立相模川工業高校。
去年、二回戦まで進んだチームだ。
俺は、ベンチにいた。
隣には、七海。ひざの上に、ノートとストップウォッチ。
そのさらに隣に、菅野先生。
「緊張してる?」
七海が、小声できいてきた。
「……ピッチに立つより、こっちのほうが緊張する」
本当だった。
自分で走れないぶん、見ていることしかできない。
スタメンは、大吾が休養中のぶん、西村が入った。
キーパー、鉄平先輩。
ディフェンス、ローデリック、ボルグ、西村、ミロ。
中盤、サフィール、タリク、奏太、セリオ。
前線、航平とゼノ。
ベンチには、ゼノの「連星」の小日向が、ずっと貧乏ゆすりをしていた。
「小日向、落ち着けって」
「む、無理……。だって俺、今日、公式戦デビューかもしんないんだぞ……」
観客席の一番前で、小さな男の子が二人、手作りの横断幕を広げていた。
『ゆうきにいちゃん がんばれ』
小日向の弟たちだった。
◇ ◇ ◇
キックオフの笛が、高く鳴った。
最初の二十分は、ゼノの時間だった。
前半十二分。
航平が、相手のディフェンスラインと横並びに立った。ゼノも、その横に並ぶ。二人とも、ぴたりと止まっている。
サフィールが、ボールを持って顔を上げた。
その瞬間、二人が同時に飛び出した。
相手のディフェンスは、どちらを追えばいいのか、一瞬迷った。
その一瞬で、十分だった。
サフィールのパスが、ゼノの足もとにぴたりと届く。
ゼノは、キーパーが飛び出してくるのを最後まで見てから、反対側のすみに、ボールを流しこんだ。
1対0。
ベンチの小日向が、立ち上がって叫んだ。
観客席では、鉄平先輩のお母さんが、両手を口に当てていた。
鉄平先輩は、ゴールの前で、一度だけ観客席を振り返った。
「……来てくれたんだ」
七海が、うれしそうにつぶやいた。
◇ ◇ ◇
前半二十分。
ゼノの足が、止まった。
ゼノは、自分から手を挙げた。ベンチに向かって、まっすぐ。
「交代だ」
菅野先生が、小日向の背中をたたいた。
「小日向くん。出番だよ」
小日向は、ベンチから立ち上がって、そのまま固まった。
「お、俺……ほんとに?」
「ほんとに」
俺は、小日向の背中を、もう一度たたいた。
「ゼノの残り、七十分。全部、走ってこい」
小日向は、こくりとうなずいた。
ピッチの外で、ゼノと小日向が向かい合った。
ゼノは、何も言わずに、小日向の手のひらに、自分の手のひらを軽く当てた。
パチン、という音がした。
「……あとは、頼む」
ゼノが、そう言うのを、俺は初めて聞いた。
観客席で、小日向の弟たちが、横断幕をちぎれそうなほど振っていた。
◇ ◇ ◇
前半三十五分。
同点に追いつかれた。
相手のロングボールが、ローデリックの頭を越えた。
ディフェンスラインが、高すぎたのだ。
「上げ」「待て」「下げ」。
その合言葉を、うしろから叫ぶ大吾が、今日はいない。
西村は、必死に声を出そうとしていた。
でも、ローデリックの大きな声に、かき消されてしまった。
1対1で、前半が終わった。
◇ ◇ ◇
ハーフタイム。
ベンチの前に、十一人が集まった。
汗のにおいと、日焼け止めのにおい。誰かが開けたスポーツドリンクの、甘いにおい。
サフィールは、前半、ほとんどしゃべらなかった。
ずっと、相手を読んでいたのだ。
サフィールと七海が、ノートを突き合わせる。
「相手の右の守りは、前に出たがる。そのうしろが空く」
サフィールが言うと、七海がうなずいた。
「数字でもそう。右サイドバックが、前半だけで十二回、オーバーラップしてる。戻るのは、いつも遅い」
二人の読みが、ぴたりと重なった。
二人が、俺を見た。
「ミナト。おまえには、何が見えた」
俺は、ベンチから見ていたことを、思い出した。
「……相手の右サイドバック、小日向が入ってきたとき、笑ってた」
全員が、俺を見た。
「仲間と目を合わせて、にやっとしてた。たぶん、なめてる。控えの選手が出てきたって」
俺は、小日向を見た。
「でも、小日向の足は、まだ全然残ってる。あいつがのぼってきたら、うしろに走れ。小日向が一番、そこを走れる」
小日向が、ごくりとつばを飲みこんだ。
サフィールが、ゆっくりとうなずいた。
「相手の陣の弱さと、相手の心のゆるみ。二つが、同じ場所にある」
サフィールは、小日向の肩に手を置いた。
「後半は、そこを撃つ」
◇ ◇ ◇
後半が始まると、サフィールは変わった。
ピッチのまんなかで、大きな声を出し始めたのだ。
「左、上げて!」
「真ん中、しぼって!」
「小日向、まだ! ――今だ、走れ!」
翻訳表の言葉だった。
短くて、まっすぐで、誰にでもわかる言葉。
その声に合わせて、チームが動いた。
まるで、ひとつの大きな生き物みたいに。
後半二十八分。
相手の右サイドバックが、また前にのぼってきた。
そのうしろの、がら空きのスペース。
「小日向!」
サフィールの声と同時に、ミロが相手からボールを奪った。
奪ったボールを、ミロはそのまま前へ蹴り出す。
小日向が、走っていた。
前半からずっと走り続けているのに、その足は、少しも止まっていなかった。
相手の右サイドバックが、あわてて戻ってくる。でも、もう遅い。
小日向は、ゴールラインぎりぎりで、ボールに追いついた。
顔を上げる。
ゴール前に、航平が走りこんでいた。
小日向が、右足を振った。
不格好な、低いクロスだった。
でも、それは、航平の走りこむ場所に、まっすぐ向かっていた。
航平が、足を伸ばした。
ボールが、ネットを揺らした。
2対1。
◇ ◇ ◇
最後の笛が鳴ったとき、ベンチの全員が、ピッチに飛び出していた。
俺も、走っていた。
菅野先生も、七海も、走っていた。
潮見ヶ丘高校サッカー部の、公式戦の勝利。
四年ぶりのことだと、あとで先生から聞いた。
ピッチのまんなかで、小日向が、あおむけに倒れて泣いていた。
「俺……公式戦、出た……アシスト、した……」
その上に、航平が覆いかぶさった。
「おまえのクロス、へったくそだったぞ」
「うるせえよぉ……」
二人とも、泣きながら笑っていた。
観客席では、小日向の弟たちが、横断幕を振り回していた。
鉄平先輩のお母さんが、ハンカチで目もとを押さえていた。
そして――。
競技場のフェンスの、ずっと外。
キンモクセイの木の下に、帽子を深くかぶった男の人が、一人で立っていた。
その背中に、見覚えがあった気がした。
俺がもう一度見たときには、もう、誰もいなかった。




