18話 まず耳を開き、次に口を開け
次の日の朝。
まだ薄暗いうちに、俺は七人の家の坂道をのぼった。
空気が、ひんやりと冷たかった。息をはくと、ほんの少し白く見えた。どこかで、キンモクセイの甘い香りがした。
タリクは、庭の柿の木の下にいた。
しゃがみこんで、じっと動かない。
その視線の先、柿の枝に、小さな鳥が一羽とまっていた。
俺が声をかけようとすると、タリクは、振り向かずに人さし指を口に当てた。
鳥が、短く鳴いた。
チッ、チチッ。
少しして、遠くの電線から、同じ鳴き声が返ってきた。
チッ、チチッ。
鳥は、ふわりと飛び立って、電線のほうへ消えていった。
「……仲間を、呼んでいたんだ」
タリクが、ようやく立ち上がった。
「ローデリックから聞いたよ。来ると思っていた」
◇ ◇ ◇
縁側に並んで座ると、タリクは、湯気の立つお茶を出してくれた。
香ばしい、知らない葉っぱのにおいがした。
「森の国の掟を、教えるね」
タリクは、柿の木を見上げたまま言った。
「――まず耳を開き、次に口を開け」
「耳を、開く……」
「狩人は、獲物の声を聞くまで、矢をつがえない。獲物が何におびえているのか。どこへ逃げたいのか。何を守ろうとしているのか。それを聞かずに放った矢は、たいてい外れる」
タリクは、俺を見た。
「仲間も、同じだよ。ミナトは、この何週間か、ずっと口を開いていた。でも、耳は閉じていた」
胸が、ちくりと痛んだ。
「だから、これから会いに行くといい。コウヘイに。テッペイに。ダイゴに」
「……何を言えばいいんだ」
タリクは、首を横に振った。
「答えを、持っていかないこと」
「説得しに行くんじゃない。ただ、聞きに行くんだ。相手が全部話し終わるまで、ミナトは口を開かない。それが、掟だよ」
◇ ◇ ◇
その日の放課後、俺は航平の家に行った。
インターホンを押すと、航平のお母さんが出てきて、二階の部屋に通してくれた。
航平は、ベッドの上で、スマホを見ていた。
部屋のすみに、泥のついたスパイクが、そのまま転がっていた。
「……何しに来たんだよ」
航平は、俺を見ずに言った。
「説教なら、帰れ」
「説教じゃない」
俺は、床に座った。
「話を、聞かせてほしい。それだけ」
航平は、スマホから顔を上げた。
信じられない、という顔をしていた。
長い沈黙があった。
窓の外で、子どもたちが自転車で走り回る声がした。
航平は、ぽつりぽつりと話し始めた。
中学で、エースだったこと。
高校でも、点を取れると思っていたこと。
でも、一度も勝てなかったこと。
毎晩、今井の投稿を見てしまうこと。
見るたびに、自分が小さくなっていくような気がしたこと。
七人が来て、ポジションを取られたこと。
ミロと組んで、やっと楽しくなってきたところだったこと。
聖覇の観客席に、今井がいたこと。
シュートを外したとき、聞こえた笑い声。
動画についた、知らない誰かのコメント。
「俺、なんのためにサッカーやってんのか、わかんなくなった」
航平の声が、ふるえた。
俺は、何も言わなかった。
言いたいことは、たくさんあった。でも、全部飲みこんだ。
航平は、腕で目もとをこすった。
「……おまえ、何も言わねえのかよ」
「今日は、聞きに来ただけだから」
航平は、しばらく俺を見ていた。
ふっと、力が抜けたように笑った。
「なんだよ、それ。調子くるうわ」
航平は、スマホの画面を、俺のほうに向けた。
今井からの、メッセージだった。
『あの動画あげたの、うちの一年。消させた。ごめん』
『おまえのシュート外したの、笑えなかったよ。俺も、ベンチ外だし』
『おまえ、まだやれるだろ』
「昨日の夜、来た」
航平は、画面を見つめたまま言った。
「……他人のいいとこだけ見て、自分の全部とくらべてたんだな、俺。あいつも、ずっとしんどかったのに」
航平は、部屋のすみのスパイクを見た。
「退部届のことは、まだ考える。……でも、明日の部室には、行くだけ行く」
◇ ◇ ◇
その夜、駅前の塾の前で、鉄平先輩を待った。
俺の隣には、ゼノがいた。
「影は、待つのが得意だ」
そう言って、勝手についてきたのだ。
夜の駅前は、帰りを急ぐ人たちの足音と、コンビニの明るい光でざわめいていた。たこ焼き屋の屋台から、ソースの焦げるいいにおいがただよってくる。
九時すぎ、塾のドアが開いて、鉄平先輩が出てきた。
疲れた顔で、重そうなリュックを背負っていた。
俺たちに気づくと、先輩は、少し驚いた顔をした。
「……何してんだ、おまえら」
「話を、聞きに来ました」
ベンチに並んで座ると、鉄平先輩は、長いあいだ黙っていた。
話し始めた。
母親が泣いたこと。
その涙を見て、自分がひどいことをしている気がしたこと。
でも、サッカーをやめたら、自分には何も残らない気がすること。
勉強も、部活も、どっちも中途半端で、どっちも失敗しそうで、こわいこと。
俺は、ただ、聞いていた。
先輩が話し終わったとき、それまで黙っていたゼノが、口を開いた。
「影の国の掟だ」
鉄平先輩が、ゼノを見た。
「――最も重い一手を、先に打て」
ゼノは、夜空を見上げた。
「一撃で仕留める者は、何を一番に打つかを、最初に決めている。全部を同時に打とうとする者は、全部を外す」
ゼノは、鉄平先輩を見た。
「おまえの一番重い一手は、何だ」
鉄平先輩は、しばらく考えこんでいた。
ゆっくりと言った。
「……母親と、ちゃんと話すことだ。逃げないで、自分の言葉で」
鉄平先輩は、自分の手のひらを見つめた。
「朝、五時に起きて勉強する。部活は、放課後の二時間だけにする。そのかわり、その二時間は、全部ゴールの前で使う。……それを、自分で母親に言う」
先輩は、立ち上がった。
「早瀬。退部届、まだ持ってるか」
「はい」
「明日、俺の前で破れ」
◇ ◇ ◇
大吾には、ボルグといっしょに会いに行った。
大吾の家の近くの公園。
ベンチに座った大吾の右ひざには、白いサポーターが巻かれていた。
ブランコがきいきいと鳴る音と、落ち葉が風に転がる、かさかさという音がしていた。
大吾は、俺の顔を見るなり、頭を下げた。
「湊。……この前は、ごめん」
「謝るのは、俺のほうだ」
「ちがう。ひざのこと、隠してたのは俺だから。湊のせいにして、八つ当たりした」
大吾は、サポーターをそっとなでた。
「隠してたのは……言ったら、もう試合に出してもらえないと思ったから。俺、走ることしか取り柄ないし。走れなくなったら、このチームに、俺の場所なんてないって」
俺は、黙って聞いた。
ボルグが、大吾の隣に、どすんと座った。ベンチが、ぎしっと鳴った。
「研ぎすぎた刃は、折れる」
ボルグは、合宿の朝と同じ言葉を言った。
「休め、ダイゴ。おまえの刃は、決勝で要る」
大吾は、ボルグを見上げた。
少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「……明日、菅野先生に、自分で言う。二週間、ちゃんと休むって」
◇ ◇ ◇
次の日の放課後。
部室には、十六人全員がそろっていた。
航平も、鉄平先輩も、大吾もいた。
七海も、菅野先生も、入り口の近くに立っていた。
窓から差しこむ秋の西日が、ほこりっぽい部室を、オレンジ色に染めていた。
俺は、みんなの前に立った。
「まず、謝らせてほしい」
頭を下げた。
「聖覇の試合から、俺は、みんなの話を聞いてなかった。命令ばっかりしてた。……ごめん」
部室が、しんとなった。
「それで、今日は、俺がしゃべるんじゃなくて、みんなの話を聞きたい。言いたいこと、なんでもいいから」
誰も、すぐには口を開かなかった。
そのとき、すっと手が挙がった。
奏太だった。
一年生で、一番小さくて、いつも先輩の後ろで下を向いていた奏太が、まっすぐに手を挙げていた。
「……湊先輩」
奏太の声は、ふるえていた。
でも、止まらなかった。
「湊先輩は、最近、命令ばかりで、僕たちの話を聞いていませんでした」
部室の空気が、ぴんと張りつめた。
「でも、僕も、言いませんでした。紅白戦のときも、聖覇のときも、見えていたのに、先輩たちに言えなかった。一年だから、とか、先輩だから、とか、そういうことばかり考えて」
奏太は、大吾のほうを向いた。
「大吾先輩。聖覇の一点目、ヴォルフが股を抜いたとき、大吾先輩は、あと一歩、右にいたら間に合いました。……僕、ベンチから、それが見えてました。言えなくて、すみません」
大吾は、目を丸くした。
くしゃっと笑った。
「……次は、言えよ。でかい声で」
「はい」
奏太の目に、涙がたまっていた。
それを見て、小日向が「俺も!」と手を挙げた。吉野も、堀も、西村も。
みんなが、次々と、言えなかったことを話し始めた。
俺は、全部を、黙って聞いた。
◇ ◇ ◇
最後に、俺は、サフィールを見た。
サフィールは、俺の目を見て、それから、ローデリックを見た。
ローデリックが、小さくうなずいた。
「――わたしからも、話さなければならないことがある」
サフィールは、静かに、すべてを話した。
月が七つある世界のこと。
千年の戦のこと。
二つの道のこと。
そして、負けた道の七人が、どうなるのかを。
話し終わったとき、部室は、しんと静まり返っていた。
最初に声を上げたのは、小日向だった。
「……だと思ったーっ!」
全員が、小日向を見た。
「だって、団長、花火のとき『火薬だ! 全員下がれ!』って言ってたし! ボルグ、ボールを『儀式の球』って言ってたし! ゼノ、絶対に人間の動きじゃないし!」
ぶっ、と吉野が吹き出した。
それにつられて、堀が笑い、西村が笑い、気がつけば部室じゅうが笑っていた。
七人だけが、ぽかんとしていた。
笑いがおさまったあと、航平が、腕を組んだまま言った。
「で、負けたら、こいつら戦場行きなんだろ」
航平は、ミロを見た。
ミロは、いつものにやにや顔じゃなかった。
「……ムカつくな、それ」
航平は、ぼそっと言った。
「せっかく、盗みのコツ、まだ一個しか教わってねえのに」
鉄平先輩が、低い声で続けた。
「勝つ理由が、一個増えただけだ。やることは変わらない」
「待ってくれ」
サフィールが、あわてたように言った。
「わたしは、それをおまえたちに背負わせたくなかった。だから、黙っていた。これは、わたしたちの――」
「背負うんじゃないよ」
俺は、サフィールの言葉をさえぎった。
ローデリックが教えてくれた、掟の続きを思い出しながら。
「一人で全部を背負ったら、両手がふさがって、自分の剣を落とす。……俺は、それで失敗した」
俺は、部室にいる全員を見わたした。
「だから、いっしょに持つんだ。十六人と、七海と、先生で。一人ひとりが、ちょっとずつ」
サフィールの目が、大きく見開かれた。
ゆっくりと、うるんでいった。
◇ ◇ ◇
「それと、先生」
俺は、入り口の近くに立っている菅野先生のほうを向いた。
「一回戦、俺はベンチから見ます。七海といっしょに、外から全員の声を聞くところから、やり直したいです。ピッチの中は、サフィールにまかせます」
菅野先生は、何も言わなかった。
ただ、眼鏡の奥の目を細めて、深くうなずいた。
鉄平先輩が、俺の前に立った。
「早瀬。あれ」
俺は、カバンから、白い封筒を取り出した。
七月から、ずっと持ち歩いてきた封筒。
角がすり切れて、少しやわらかくなっていた。
《退部届》
俺は、それを、みんなの前で、二つに破った。
もう一度、四つに。
紙が破れる音が、静かな部室にひびいた。
「よっしゃあああ!」
小日向が叫んで、鉄平先輩に飛びついた。
先輩は、めずらしく、それをよけなかった。
航平は、窓の外を見ていた。
カバンから、もう一枚の白い封筒を取り出した。菅野先生から返してもらった、自分の退部届だった。
航平は、何も言わずに、それをミロにわたした。
ミロは、きょとんとして、それから、にやっと笑った。
「これ、盗んでいいってこと?」
「……好きにしろ」
ミロは、封筒をびりびりに破いて、紙ふぶきみたいに、部室の天井へ放り投げた。
白い紙きれが、西日の中で、きらきらと舞い落ちた。
「もう一度」
俺は、言った。
「もう一度、十一人で。――いや、十六人で」
部室の窓の外で、一番星がひとつ、光りはじめていた。
十月の選手権予選、一回戦まで、あと十日だった。
話すより先に、まず耳を開く。そんなやさしい時間が、あなたのまわりにもありますように。
第3章「もう一つの異世界チーム」を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
0対8の悔しさを越えて、湊はキャプテンとして大切なことに気づきました。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや★評価でそっと教えてください。その一つひとつが、次の一手を書く力になります。




