17話 キャプテン外し
「……父さんだって」
暗いリビングで、俺の声がふるえた。
「父さんだって、ひざこわして、やめたんだろ」
父さんの影が、ぴくりと動いた。
「才能があっても、やめたんだろ。だったら、才能がない俺が続けたって、いいだろ。どうせやめるなら、自分で決める。父さんに決められたくない!」
言ってしまってから、のどの奥が焼けるように熱くなった。
父さんは、何も言わなかった。
暗闇の中で、父さんがどんな顔をしているのか、俺にはわからなかった。
壁の写真――国立競技場でこぶしを突き上げている高校生の写真だけが、窓から差しこむ街灯の光で、ぼんやりと白く浮かんでいた。
俺は、そのまま家を飛び出した。
雨上がりの道は、水たまりだらけだった。スニーカーがびしょびしょになっても、走るのをやめられなかった。
気がつくと、堤防の上にいた。
海は、真っ黒だった。
雲が低くたれこめて、星ひとつ見えない。湿った潮風が、ほてった顔を冷やしていった。
その夜、サフィールは来なかった。
◇ ◇ ◇
次の日の昼休み。
菅野先生に呼ばれて、国語準備室に行った。
せまい部屋だった。壁一面の本棚に、古い文学全集がぎっしり並んでいる。紙とほこりのにおいが、少しだけ鼻をくすぐった。
菅野先生は、窓ぎわのいすに座って、湯のみを両手で包んでいた。
窓の外では、雨上がりのイチョウが、少しずつ黄色くなりはじめていた。
「座って」
俺は、先生の向かいのいすに座った。
先生は、湯のみを机に置いてから、まっすぐ俺を見た。
「早瀬くん。一回戦のスタメンから、きみを外そうと思う」
その言葉は、思ったより静かに、胸に落ちてきた。
驚かなかった。
どこかで、わかっていた気がした。
「理由を、言ってもいいかな」
俺は、うなずいた。
「きみは今、チームを見ていない」
先生の声は、やさしかった。でも、まっすぐだった。
「聖覇との試合のとき、ずっときみを見ていた。きみは、誰よりも走って、誰よりも叫んでいた。でも、誰の顔も見ていなかった。宮内くんが足を引きずっていても。戸田くんが観客席を見ていても。白石くんが何か言おうとしていても」
先生は、少しだけ言葉を切った。
「……私には、きみが、誰かのために必死に勝とうとしているように見えた。目の前の仲間じゃない、どこか遠くの誰かのために」
俺は、息をのんだ。
先生は、何も知らないはずだった。
七人の世界のことも、負けた道の運命のことも。
それなのに、先生には、見えていた。
「早瀬くん。何を背負っているのかは、きかない。きみが話したくなったら、話してくれればいい」
先生は、湯のみをもう一度、両手で包んだ。
「でも、今のきみは、通訳じゃない。……命令しているだけだ」
それは、俺が、自分でいちばんわかっていることだった。
◇ ◇ ◇
その日の練習で、菅野先生は、一回戦のスタメンを発表した。
俺の名前は、なかった。
キャプテンマークは、そのまま俺の腕に残された。
でも、ピッチに立たないキャプテンなんて、何の意味があるんだろう。
発表のあと、グラウンドは、しんとしていた。
小日向が、何か言いたそうに俺を見て、それから、目をそらした。
奏太は、また下を向いていた。
ローデリックが、一歩前に出かけて――サフィールに腕をつかまれて、止まった。
俺は、誰とも目を合わせずに、ボールを拾った。
練習のあいだ、俺は控え組に入った。
声を出さなかった。出せなかった。
グラウンドのまわりの木々から、秋の虫の声が、いつもより大きく聞こえた。
◇ ◇ ◇
夜。
俺は、また学校のグラウンドにいた。
照明は消えていた。月も、雲にかくれている。
暗闇の中で、俺は、部室の壁に向かって、ボールを蹴り続けた。
だん。返ってくる。だん。返ってくる。
ボールが壁に当たる音だけが、からっぽのグラウンドに響いた。
父さんに言われた言葉。
大吾の、「知ってたくせに」。
航平の、「俺がいてもいなくても、同じだろ」。
小日向の、「こわいよ」。
菅野先生の、「命令しているだけだ」。
蹴るたびに、ひとつずつ、よみがえった。
足がすべって、ボールがあらぬ方向へ飛んでいった。
暗闇の中に、転がっていく。
俺は、ぬれた芝の上に、ひざをついた。
「――ここにいたか」
暗闇の向こうから、声がした。
転がっていったボールを、誰かが足で止めた。
ローデリックだった。
◇ ◇ ◇
ローデリックは、ボールを足もとに置いたまま、俺の前に座った。
ぬれた芝の上に、あぐらをかいて。
「サフィールから、聞いた」
ローデリックは、静かに言った。
「アズラクが来た夜のこと。サフィールが、おまえにだけ話して、口止めしたこと。……すまぬ。わたしたちは、おまえに、一番重いものを背負わせてしまった」
俺は、首を横に振った。
「ちがう。背負ったのは、俺だよ。勝手に」
声がつまった。
「みんなが、戦場に送られるって聞いて……俺が勝たせなきゃって。俺がなんとかしなきゃって。それしか、考えられなくなって。気づいたら、航平も、鉄平先輩も、大吾も……」
言葉が、続かなかった。
ローデリックは、しばらく黙っていた。
ゆっくりと口を開いた。
「ミナト。鉄の国の第一の掟を、覚えているか」
「……己の剣は、己で握れ」
「そうだ。だが、あの掟には、続きがある」
ローデリックは、自分の両手を見つめた。
「騎士団の新兵に、わたしはいつも、こう教えてきた。――己の剣は、己で握れ。だが、仲間の剣まで、一人で握ろうとするな」
俺は、顔を上げた。
「仲間の剣まで握ろうとする者は、両手がふさがる。そして、最後には、自分の剣を落とす」
ローデリックの声は、やさしかった。
「わたしたちの命は、わたしたちのものだ。おまえが一人で背負うものではない。……だが」
ローデリックは、少しだけ笑った。
騎士団長の顔じゃない、十八歳の男子の顔だった。
「ともに戦ってくれるなら、それは、とてもうれしい」
俺の目から、涙がこぼれた。
止めようとしても、止まらなかった。
0対6の日も、0対8の日も、泣かなかったのに。
ローデリックは、何も言わずに、俺の肩に手を置いた。
大きくて、あたたかい手だった。
◇ ◇ ◇
どれくらい、そうしていたかわからない。
気がつくと、雲が切れて、月が顔を出していた。
ぬれたグラウンドが、月明かりで銀色に光っていた。
「ミナト」
ローデリックが、立ち上がりながら言った。
「おまえは、明日から何をする」
俺は、袖で顔をぬぐった。
「……わからない。何から、やり直せばいいのか」
「ならば、タリクに会え」
「タリク?」
「森の国の掟は、こういうときのためにある」
ローデリックは、足もとのボールを、軽く俺のほうへ転がした。
ボールは、ぬれた芝の上を、まっすぐ俺の足もとまで転がってきた。
あの日、パスの出し方も知らなかった騎士団長の、まっすぐなパスだった。




