16話 仲間の離脱
0対8の翌日から、雨が三日続いた。
秋の長雨だった。
教室の窓から見える海は、いつもの青い色をなくして、空と同じ鉛色に沈んでいた。沖のほうは雨にけむって、水平線も見えない。
グラウンドはぬかるんで使えず、練習は、体育館のすみと、校舎の廊下でのランニングだけになった。
廊下には、雨のにおいと、上ばきのゴムのにおいがこもっていた。窓ガラスを、細い雨がひっきりなしに流れ落ちていく。
その三日間で、チームは、少しずつこわれていった。
◇ ◇ ◇
最初に崩れたのは、航平だった。
試合の次の日の夜。
聖覇の部員の誰かが、SNSに動画を上げた。
『潮見ヶ丘、ボコったw 8-0』
十五秒くらいの動画だった。
後半、航平がゴール前でシュートを外す場面。ボールは大きくゴールの上を越えて、観客席の聖覇の部員たちから、どっと笑い声が起きる。
その動画に、いくつもコメントがついていた。
『フォワードこれw』
『これで高校サッカーやってんの?』
『顔面ゴール前ww』
知らない誰かの、軽い言葉。
画面の向こうでは、たぶん、指一本で書かれた言葉。
でも、その言葉は、航平の胸に、まっすぐ突き刺さった。
次の日、航平は練習に来なかった。
その次の日、航平は、菅野先生のところへ行った。
俺が職員室に呼ばれたとき、先生の机の上には、白い封筒が置いてあった。
《退部届》。
角ばった字じゃなかった。
少しくずれた、急いで書いたような字だった。
「戸田くんから、さっき、あずかった」
菅野先生は、困った顔で言った。
「早瀬くん、何か聞いていた?」
俺は、首を横に振った。
何も聞いていなかった。
聞こうとも、していなかった。
あの試合の最中、航平が何度も観客席を見ていたことに、俺は気づいていた。
気づいていたのに、「走れ」としか言わなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、航平に電話をかけた。
十回鳴らしても、出なかった。
メッセージを送った。
『退部届、まだ先生のところで止まってる。話そう』
一時間後に、返事が来た。
『もう無理だわ』
『俺がいてもいなくても、同じだろ』
『おまえも、そう思ってんだろ。試合中、ずっと俺に怒鳴ってたし』
最後のメッセージを読んで、手がふるえた。
ちがう、と打とうとした。
でも、指が動かなかった。
ちがわなかったからだ。
あの試合で、俺は航平のことを、駒としか見ていなかった。
七人を勝たせるための、一つの駒。
◇ ◇ ◇
二人目は、鉄平先輩だった。
雨の二日目。体育館のすみで、鉄平先輩が、壁に向かってボールを投げては受け止めていた。
ボールが壁に当たる音が、だん、だん、と、広い体育館に反響していた。
「早瀬」
先輩は、ボールを抱えたまま、俺を呼んだ。
「九月の模試、返ってきた」
先輩の声は、いつもと同じで、静かだった。
「志望校、E判定。……母親が、泣いた」
俺は、何も言えなかった。
「父親には、『そんなんで部活なんか続けて、どうする』って言われた。――言い返せなかった。0対8のチームのキーパーだしな」
先輩は、もう一度、ボールを壁に投げた。
だん。受け止める。
「七月に預けたやつ、あるだろ」
退部届。
あれは、まだ俺のカバンの中にあった。破れないまま、ずっと。
「あれ、出していいぞ」
先輩は、そう言って、グローブを外した。
「……十一月まで、待ってくれませんか」
自分でも、何を言っているのか、わからなかった。
「十一月って……決勝の月か?」
鉄平先輩は、少しだけ笑った。
笑ったけれど、その目は、少しも笑っていなかった。
「早瀬。0対8だったんだぞ」
その言葉に、俺は、何も返せなかった。
先輩は、その日から、部活を休むようになった。
◇ ◇ ◇
三人目は、大吾だった。
雨の三日目。廊下のランニングで、大吾が足を引きずっていた。
最初は、気のせいだと思った。
でも、三周目で、はっきりわかった。右足を、かばっている。
ランニングのあと、俺は大吾を呼び止めた。
「大吾、ひざ」
大吾の顔から、さっと血の気が引いた。
「な、何でもない」
「何でもなくない。合宿のときから、ずっとだろ」
言ってから、しまった、と思った。
大吾は、目を見開いた。
「……知ってたのか」
「……」
「知ってて、何も言わなかったのか。0対8の試合も、俺、ずっと痛かったのに。ヴォルフに振り切られたのも、ひざのせいなのに」
大吾の声が、だんだん大きくなった。
「湊、試合中、俺に何て言ったか覚えてるか。『大吾、なんで追いつかないんだ』って。……知ってたくせに」
俺は、何も言い返せなかった。
大吾は、くちびるをかんで、背を向けた。
足を引きずりながら、廊下の向こうへ歩いていく。
窓の外の雨の音が、急に大きくなった気がした。
その日の夕方、大吾は病院へ行った。
診断は、ひざの腱の炎症。
「最低でも二週間、ボールを蹴るのは禁止」と言われたと、あとで七海から聞いた。
◇ ◇ ◇
三日目の夜。雨が、ようやく上がった。
体育館での練習が終わったあと、俺は、残った部員を集めた。
日本人は、俺と、小日向と、奏太と、西村と、吉野と、堀の六人。
七人は、全員いた。
「明日から、練習を倍にする」
俺は、そう言った。
「朝練も、毎日やる。土日も、休みなし。選手権予選まで、あと二週間しかない。このままじゃ、一回戦で終わる」
誰も、返事をしなかった。
「湊」
小日向が、おそるおそる口を開いた。
「最近の湊……ちょっと、こわいよ」
小日向は、いつもの明るい顔じゃなかった。
「試合のときも、ずっと怒鳴ってたし。航平も、鉄平先輩も、大吾もいなくなって……。倍にしたら、もっといなくなるんじゃないかなって」
「……いなくなったやつのことは、もういい」
その言葉が口から出たとき、自分の声だと思えなかった。
体育館が、しんとなった。
小日向の顔が、くしゃっとゆがんだ。
奏太は、下を向いた。
吉野と堀は、顔を見合わせていた。
七人は――ローデリックも、サフィールも、ボルグも、何も言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
その目が、何かを悲しんでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、玄関の明かりが消えていた。
リビングでは、父さんが、一人でテレビを見ていた。
画面には、ヨーロッパのサッカーの試合が映っている。暗い部屋に、テレビの青白い光だけがちらついていた。
父さんは、俺に気づくと、リモコンでテレビを消した。
部屋が、急に暗くなった。
「……0対8だったらしいな」
心臓が、どくんと鳴った。
「聖覇の監督とは、昔、選手権で戦ったことがある。あいつから、電話が来た。『おまえの息子のチームと練習試合をした』ってな」
父さんの声は、低くて、静かだった。
「湊」
暗闇の中で、父さんがこちらを見ているのがわかった。
その次の言葉を、俺は、聞きたくなかった。
聞かなくても、わかっていた。
でも、父さんは言った。
「――もう、やめちまえ」
窓の外で、雨上がりの空に、雲がゆっくり流れていた。
月は、出ていなかった。




