13話 強豪校の秘密
九月一日から、抽選会までの十日間。
俺たちは、連星システムの練習だけを、くり返した。
朝練は、六時半から。
まだ誰もいないグラウンドに、朝露にぬれた芝の匂いがたちこめている。東の空が白むころ、十六人の吐く息と、ボールをける音だけが、校舎の壁にこだました。
問題は、山ほどあった。
ひとつずつ、つぶしていった。
◇ ◇ ◇
一つ目は、セリオのトラップだった。
「ボールを、矢だと思わないでください」
部室の壁の前で、奏太がセリオに言った。
「的だと思うんです。飛んでくるボールが矢で、足のここが――」
奏太は、自分のスパイクの内側を指でたたいた。
「的。矢を、的で受け止める。それだけです」
セリオは、目を丸くした。
壁に向かって、ボールを蹴っては受け止めはじめた。
百回。三百回。五百回。
六日目の朝、奏太がわざと強く蹴ったボールを、セリオの右足が、ぴたりと止めた。
ボールは、セリオの足もとで、すとんと眠るように止まった。
「……止まった」
セリオがつぶやくと、奏太が、自分のことのようにガッツポーズをした。
◇ ◇ ◇
二つ目は、ゼノのオフサイドだった。
教えたのは、航平だった。
「背後ってのはな、取るもんじゃねえ。もらうもんだ」
航平は、ディフェンスのラインと横に並んで立ってみせた。
「ここで、横並びで待つ。パスが出る瞬間に、走る。一歩でも早く出たら反則。一歩でも遅かったら追いつかれる」
ゼノは、しばらく航平の足もとを見つめていた。
「……暗殺と同じだ。合図を待ち、合図で動く」
「物騒なたとえすんな」
最初の日、十回だったゼノのオフサイドは、一週間で一回になった。
◇ ◇ ◇
三つ目は、ローデリックのラインの上げ下げだった。
大吾と二人で、合言葉を決めた。
「上げ」「待て」「下げ」。
使っていいのは、この三つだけ。
ローデリックは前の敵を見る。大吾は、うしろから全体を見る。大吾が叫び、ローデリックがそれをくり返す。
「上げ!」
「上げぇっ!」
ローデリックの声は、グラウンドの反対側まで届いた。四人のディフェンスが、一本の線になって前に出た。
四つ目は、ボルグのファウル。
「手は、背中で組め」
鉄平先輩が言った。
「おまえは、体だけで十分強い。手を使うから、ファウルになるんだ」
それから三日間、ボルグは、両手を背中で組んだまま練習した。その姿が、どう見ても散歩中のおじいさんで、小日向は毎回、笑い転げていた。
でも、ボルグのファウルは、一つも出なくなった。
五つ目は、ミロのダイブだった。
「盗賊はな、つかまらないのが一流なんだろ」
航平が、ミロに言った。
「倒れたら、つかまったのと同じだ。立ってるやつしか、ボールは盗めねえ」
ミロは、しばらく考えこんでいた。
「……それ、一理あるかも」
ミロは一度も、自分から倒れなくなった。
◇ ◇ ◇
最後は、サフィールだった。
練習のあと、部室に残って、俺とサフィールは一冊のノートを作った。
表紙には、サフィールの字で、こう書いてある。
『翻訳表 戦の言葉 → サッカーの言葉』
「右翼、下がれ」→「右、下がって!」
「中央の陣を厚くしろ」→「真ん中、しぼって!」
「敵の将を討て」→「十番、フリーにすんな!」
「伏兵あり」→「うしろ、来てる!」
一つ書くたびに、サフィールは、その言葉を何度も口の中でくり返した。
「……戦の言葉より、ずっと短い」
「短くないと、試合中に届かないんだよ」
「なるほど。短い言葉は、速い矢と同じか」
サフィールは、そう言って、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
九月八日。
菅野先生が知り合いの先生に頼んで、県立港南台高校との練習試合を組んでくれた。
港南台は、緑ヶ浜と同じくらいの強さのチームだ。
試合は、2対1で勝った。
一点目は、セリオのトラップから。止めたボールを、そのまま航平へ。航平が、ラインと横並びの位置から、パスが出た瞬間に飛び出して、ゴールに流しこんだ。
二点目は、後半だった。
前半、ほとんど声を出さずに相手を見ていたサフィールが、ハーフタイムに七海のノートと自分の読みを合わせた。
そして後半、ピッチのまんなかで、初めて大きな声を出した。
「右、下がって! 真ん中、しぼって! ――十番、フリーにすんな!」
翻訳表の言葉だった。
全員が、その声で動いた。
相手の攻撃が、まるで網にかかった魚みたいに、真ん中で止まった。奪ったボールを、ミロが航平へ。航平が、セリオへ。セリオのクロスに、ローデリックが頭で合わせた。
試合が終わったとき、菅野先生は、ベンチの前で、何度も眼鏡をふいていた。
勝った。
練習試合でも、勝ちは勝ちだった。
十日間で、俺たちは変わった。
少なくとも、そう思っていた。
◇ ◇ ◇
九月十日。
全国高校サッカー選手権・神奈川県予選の組み合わせ抽選会は、県の青少年センターの大ホールで行われた。
抽選会に出られるのは、一校につき二人まで。
顧問の先生と、キャプテンだけだ。
「わたしも行きたい」
前の日、サフィールはそう言ったけれど、規則は規則だった。
かわりに、サフィールは、俺に一枚のメモをわたした。
『聖覇の主将の顔を、よく見てきてくれ』
ホールに入った瞬間、冷房の冷たい空気が、汗ばんだ首すじをなでた。
赤いじゅうたんの床。ずらりと並んだ折りたたみいす。ステージの上には、大きなトーナメント表が貼り出されている。
県内の百を超える学校から、顧問の先生とキャプテンが、二人ずつ並んで座っていた。あちこちで、低い話し声がうずを巻いている。
「すごい人だね……」
菅野先生が、俺の横で小さくつぶやいた。
俺たちの席は、ホールの一番うしろだった。
「去年の成績順に、前から座るんだって」
先生が、プリントを見ながら教えてくれた。
一番うしろ。それが、俺たちの今の場所だった。
◇ ◇ ◇
抽選が始まる、少し前のことだった。
ホールの後ろの扉が開いて、ひんやりとした風が、背中から吹きこんできた。
ざわめきが、すうっと引いていった。
入ってきたのは、白いジャージの二人だった。
聖覇学院。
前を歩くのは、白髪まじりの、背の高い男の人だった。鋭い目。まっすぐな背すじ。この人が、全国常連の名将――鷹司監督だと、誰かがささやく声が聞こえた。
そして、そのうしろに続く、キャプテン。
銀色の髪の男子だった。
夜明け前の空のような、冷たい青い目。
背すじが、定規を当てたようにまっすぐ伸びている。一歩ごとに、まったく同じ歩幅。
――あの日、体育館で見た七人と、同じ歩き方だった。
その目は、歩きながら、ホールの出入り口の位置を、ひとつずつ確かめていた。
銀色の髪の男子が、ふと、こちらを振り向いた。
ホールの一番前と、一番うしろ。
はなれているのに、その目は、まっすぐに俺をとらえていた。
まるで、最初から、俺がそこにいることを知っていたみたいに。
ほんの一瞬。
銀色の髪の男子の口のはしが、わずかに上がった。
◇ ◇ ◇
抽選は、一時間ほどで終わった。
潮見ヶ丘高校の名前は、トーナメント表の左はしに書きこまれた。
聖覇学院は、右の一番はし。
「……決勝まで、当たらないね」
菅野先生が、ほっとしたような、少し残念なような声で言った。
決勝まで、当たらない。
逆に言えば、決勝まで勝ち上がらなければ、あいつらとは戦えないということだ。
ホールを出て、ロビーの自販機の前で、先生が飲み物を買ってくれた。
ガラス張りのロビーには、午後の日差しが斜めに差しこんでいた。外の木々が、少しだけ色づきはじめているのが見えた。
先生が、ほかの学校の顧問にあいさつをしに行った、そのときだった。
「――潮見ヶ丘の、〈長〉だな」
背後から、声がした。
振り向くと、銀色の髪の男子が立っていた。
なめらかで、少しだけ古めかしい日本語。
サフィールと、同じ話し方だった。
「……キャプテンの、早瀬湊だけど」
「アズラクだ」
アズラクは、胸に手を当てて、軽く頭を下げた。
礼儀正しい、きれいなしぐさだった。それなのに、なぜか背すじが寒くなった。
「サフィールに、伝えてくれ」
アズラクは、聞いたことのない言葉で、何かを短く言った。
英語でも、中国語でも、韓国語でもない。低くて、なめらかで、どこか古い歌のような響き。
俺がぽかんとしていると、アズラクは、少しだけ口のはしを上げた。
「覚えられないか。なら、この国の言葉で。――『星は、ひとつずつ落ちる』と」
アズラクは静かに言った。
「決勝で会おう、などとは言わない。おまえたちは、そこまで来られない」
白いジャージがひるがえった。
かすかに、雨上がりの石のような匂いが残った。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
航平から、スクリーンショットが一枚、送られてきた。
中学の同級生――聖覇学院の今井の投稿だった。
写真には、白いユニフォームの七人が写っていた。練習のあとらしい。夕焼けのグラウンドで、七人が横一列に並んでいる。
その下に、こう書いてあった。
『今年の聖覇、マジでエグい。新しく来た留学生七人、全員バケモン。おかげで俺、ベンチ外になりました笑』
そして、もう一枚。
今井が、別のアカウントに書いた、短い書きこみだった。
たぶん、消し忘れたんだろう。
『二年間、何のためにやってきたんだろ』
スクリーンショットのあとに、航平からのメッセージが届いた。
『あいつも、同じだった』
俺は、しばらくスマホを見つめていた。
航平の控えだった今井。
聖覇に進んで、ベンチ入りして、全国を目指していた今井。
その今井も、七人に居場所を奪われていた。
航平が七月に叫んだ「俺たちの二年間は何だったんだよ」と、今井の「二年間、何のためにやってきたんだろ」。
同じ言葉が、丘の上の白い学園でも、ひびいていたのだ。
『返事、した?』
俺がたずねると、少しして返事が来た。
『してねえ。なんて書けばいいか、わかんねえ』
◇ ◇ ◇
その夜、俺は家を抜け出して、堤防へ行った。
九月の夜風は、八月より少しだけ冷たかった。波の音にまじって、草むらで鳴く虫の声が、にぎやかに聞こえる。
思ったとおり、サフィールがいた。
堤防のはしに座って、黒い海を見つめている。
俺は、少し間をあけて、その隣に座った。
「……あいつら、何者なんだ」
サフィールは、答えなかった。
「アズラクってやつ、おまえたちと同じなんだろ。歩き方も、出口を確かめる目も、全部同じだった」
俺は、ロビーで言われた言葉を、そのまま伝えた。
「星は、ひとつずつ落ちる――って、伝えてくれって」
サフィールの顔から、すっと血の気が引いた。
「……わたしたちの国の、古い言葉だ。どれだけ束ねても、星は、ひとつずつ落ちていく。――束ねる道など無意味だと、そう言いたいのだろう。あの男らしい」
俺は、サフィールの横顔を見た。
「合宿の夜、縁側で、ローデリックと話してたよな。負けた道の七人がどうとか」
サフィールの肩が、小さく動いた。
「……聞いていたのか」
「ごめん。聞くつもりは、なかった」
長い沈黙が落ちた。
波が、堤防の下のテトラポッドにぶつかって、白くくだけた。
「今は、まだ言えない」
サフィールは、ようやく口を開いた。
「だが、一つだけ。――あの七人は、わたしたちと同じ七つの国から来た。一つの国から、一人ずつ。わたしたちと、まったく同じように」
「同じ、国……」
「アズラクは、わたしの兄弟子だ。同じ師のもとで、同じことを学んだ」
サフィールは、ひざを抱えた。
「そして、あの男は、一度も負けたことがない」
俺は、空を見上げた。
雲の切れ間に、月がひとつ、浮かんでいた。
花火の夜、セリオがつぶやいた言葉が、頭の中によみがえった。
――月が、ひとつしかない。
そのとき、ポケットのスマホがふるえた。
菅野先生からの、部員全員あてのメッセージだった。
『聖覇学院から、練習試合の申しこみがありました。九月二十三日、聖覇のグラウンドで』
サフィールも、自分のスマホの画面を見つめていた。
その顔が、月明かりの中で、真っ白に見えた。




