11話 初めての練習試合
八月三十日。
県立緑ヶ浜高校のグラウンドは、潮見ヶ丘よりひと回り広かった。
人工芝が、真夏の日差しを照り返して、ゆらゆらとかげろうを立てている。
「うわ、人工芝だ……」
吉野が、スパイクの先で芝をつついた。
緑ヶ浜の選手たちは、もう、ウォーミングアップを始めていた。
二十人以上。全員が同じ色のジャージを着て、同じリズムでステップを踏んでいる。号令がなくても、動きがそろっていた。
去年、俺たちはここで、1対5で負けた。
「スタメンは、変えないでください」
試合の三日前。
そう言ったのは、サフィールだった。
紅白戦のあと、菅野先生は、スタメンを見直そうかと俺たちに相談した。そのとき、サフィールがきっぱりと言ったのだ。
「わたしの十一人が、本当にチームではないのか。それを、本物の試合で確かめたい。……確かめないまま捨てたら、わたしは、何も学ばないままだ」
俺は、反対しなかった。
サフィールの目が、本気だったからだ。
だから、今日のスタメンは、七月に発表したとおり。
キーパー、鉄平先輩。
ディフェンス、ローデリック、ボルグ、大吾、ミロ。
中盤、サフィール、タリク、俺。
前線、ゼノ、セリオ、奏太。
ベンチには、航平、小日向、西村、吉野、堀。
航平は、ベンチの一番はしで、腕を組んでピッチを見ていた。
◇ ◇ ◇
キックオフから八分。
試合は、思いがけない形で動いた。
ペナルティエリアの少し外で、ゼノが倒された。フリーキック。
ボールの前に立ったのは、セリオだった。
緑ヶ浜の選手たちが、ゴール前に壁を作る。五人。キーパーが、大声で位置を指示している。
セリオは、ボールを置くと、ゆっくりと三歩下がった。
あの日と同じだった。
おどおどした目が、すっと細くなる。背中が、まっすぐに伸びる。
グラウンドの音が、セリオのまわりだけ、消えたように見えた。
笛が鳴った。
セリオの右足から放たれたボールは、壁の一番はしの選手の頭上を、髪の毛一本ぶんのすきまで越えた。
そこから、まるで糸で引っぱられたように、すとんと落ちる。
ゴールの左上の、すみ。
キーパーは、一歩も動けなかった。
1対0。
「うそだろ……」
緑ヶ浜のベンチから、声がもれた。
潮見ヶ丘のベンチでは、小日向と吉野と堀が、立ち上がって叫んでいた。
セリオは、自分が蹴ったボールがネットを揺らすのを、ぼうっと見つめていた。
あわてたように振り向いて、サフィールを見た。
サフィールは、小さくうなずいた。
その瞬間、俺は思った。
もしかしたら。
もしかしたら、このまま――。
その考えが甘かったと気づくまで、十分もかからなかった。
◇ ◇ ◇
緑ヶ浜は、すぐに作戦を変えてきた。
セリオにボールが入った瞬間、三人がいっせいに囲みに来る。
セリオのトラップは、まだ下手だ。ボールが足から離れたところを、あっさりと奪われる。
前線のゼノには、二人がぴったりとつく。
ゼノがどれだけ速く動いても、緑ヶ浜の二人は、交代で彼を追いかけた。一人が離されても、もう一人が待っている。
「一人ずつは、たいしたことないのに……!」
ゼノが、いら立った声を上げた。
前半二十五分。
ゼノの足が、止まった。
肩で息をしながら、センターサークルでひざに手をつく。その横を、緑ヶ浜の選手たちが、楽々と駆け抜けていった。
右サイドが、がら空きになった。
緑ヶ浜のフォワードが、ゴールに向かってくる。
ボルグが立ちはだかった。
でも、ボルグは遅かった。
相手の一歩目に、ついていけない。
二歩目で、横に並ばれる。
三歩目で、ボルグは手を伸ばし――相手のユニフォームをつかんで、引きずり倒した。
笛。
ペナルティエリアの、中だった。
PK。
鉄平先輩は、コースを読んで跳んだ。
指先が、ボールにふれた。でも、止められなかった。
1対1。
◇ ◇ ◇
そこから先は、まるで坂道を転がり落ちるようだった。
ローデリックは、一人で守ろうとした。
右に出てきた相手をつぶしに行き、左に出てきた相手もつぶしに行き、そのたびに、彼のいなくなった真ん中が、ぽっかりと空いた。
「ローデリック、真ん中!」
俺は叫んだ。何度も叫んだ。
でも、俺の声は、ローデリックの耳に届く前に、緑ヶ浜の選手たちの声にかき消された。
緑ヶ浜の選手たちは、試合中ずっと、しゃべり続けていた。
「右、来てるぞ!」
「俺、行く! カバー頼む!」
「オッケー、まかせろ!」
当たり前のことだった。
当たり前のことを、当たり前にやっていた。
それが、俺たちにはできていなかった。
前半三十八分。二点目を取られた。
ローデリックが右に引き出されたすきに、真ん中をきれいに崩された。
前半終了まぎわ。
ミロが、相手のペナルティエリアで、わざと倒れた。
主審は、それを見のがさなかった。
「シミュレーション。イエローカード」
ミロにとって、二枚目のイエローだった。
一枚目は、前半の早い時間に、同じように倒れてもらっていた。
赤いカードが、高くかかげられた。
「え……退場? なんで? うまく倒れたのに?」
ミロは、本気でわからないという顔をしていた。
主審は、首を横に振って、ピッチの外を指さした。
◇ ◇ ◇
ハーフタイム。
ロッカールームには、誰の声もなかった。
古い扇風機が首を振るたび、熱い空気がかき混ぜられるだけだった。消毒液と汗の匂いで、息がつまりそうだった。
1対2。十人。
サフィールは、ベンチに座って、ずっと自分の両手を見つめていた。
息は、少しも乱れていなかった。
走れなかったのではない。何度声を出しても、誰にも届かなかったのだ。
前半、サフィールは何度も叫んでいた。「右翼、下がれ」「中央の陣を厚くしろ」――戦の言葉で。日本人の誰も、その意味がわからなかった。
「……サフィールくん、後半は、外から見てみようか」
菅野先生が、静かに声をかけた。
サフィールは、しばらく黙っていた。
小さくうなずいた。
「はい。……わたしの言葉は、この戦場では、誰にも通じていません」
後半、ゼノとサフィールに代わって、航平と小日向が入った。
航平は、ピッチに入るとき、俺の横を通り過ぎながら、ぼそっと言った。
「……やっと出番かよ」
その声には、怒りよりも、どこかあせりがにじんでいた。
◇ ◇ ◇
後半は、日本人の時間になるはずだった。
紅白戦のときみたいに、ボールを回して、三角形を作って――。
でも、うまくいかなかった。
十人では、三角形が作れない。
暑さで、全員の足が重い。
そして何より、俺たちは、まだ「十一人」としてプレーしたことが、一度もなかった。
日本人だけなら、つながる。
七人だけなら、個人で突破できる。
でも、日本人と七人が混ざると、どちらもできなくなった。
航平が動き出しても、ローデリックはそこにパスを出さない。
タリクが絶好のパスを出しても、小日向はそこに走りこんでいない。
言葉が、通じていなかった。
後半二十分に、三点目。
後半三十五分に、四点目。
最後の笛が鳴ったとき、得点板には、こう書かれていた。
緑ヶ浜 4 潮見ヶ丘 1
◇ ◇ ◇
整列のあと。
緑ヶ浜の監督が、菅野先生のところへあいさつに来た。日焼けした、五十歳くらいの男の人だった。
「いやあ、あのフリーキックには驚きました。あの金髪の子、すごいですね。それに、あの足の速い子も、大きいセンターバックの子も」
監督は、気さくに笑いながら言った。
少しだけ声を落とした。
「ただ……失礼ですが、個人はすごいけど、チームじゃないですね」
菅野先生は、深く頭を下げた。
「……おっしゃるとおりです」
その言葉は、少し離れたところにいた俺たちにも、はっきり聞こえた。
ローデリックが、こぶしをにぎりしめた。
ボルグが、自分の手のひらを見つめた。
ミロは、ベンチの裏で、ひざを抱えていた。
サフィールは、誰よりも遠い場所に、一人で立っていた。
帰りのバスの中で、サフィールは一言もしゃべらなかった。
窓の外を、夕暮れの住宅街が流れていく。エアコンの風が、乾いた汗を冷たく冷やした。
学校に着いて、みんながバスを降りたあと。
俺は、座席の上に、一本の鉛筆が落ちているのを見つけた。
サフィールが、いつも戦術ノートを書くのに使っていた鉛筆だった。
真ん中で、二つに折れていた。




