9話 夏合宿、海辺の地獄
八月十日。
潮見ヶ丘高校サッカー部の夏合宿は、学校から自転車で十分の、海辺の民宿で行われる。
民宿の名前は、「しおさい荘」。
古い木造の二階建てで、廊下を歩くたびに床がぎしぎし鳴る。毎年お世話になっている、おばあさんが一人でやっている宿だ。
玄関の前には、潮風でさびた自転車と、干したビーチサンダルが並んでいた。
「ここが、我らの陣か」
ローデリックが、玄関の前で腕を組んだ。
「陣じゃなくて、宿な」
「宿か。……城壁がないが、敵襲には備えられるのか」
「敵、来ないから」
俺がつっこむと、後ろで小日向がげらげら笑った。
合宿の参加者は、十五人。
航平は、来なかった。
『考えとく』のメッセージのあと、航平からの連絡は、まだない。
◇ ◇ ◇
一日目の午後は、砂浜でのランニングだった。
これが、地獄だった。
足が砂に沈む。一歩ごとに、ふくらはぎが悲鳴を上げる。照りつける太陽と、砂からの照り返しで、上からも下からも焼かれているみたいだった。
「はい、あと五本!」
七海が、ビーチパラソルの下でストップウォッチを振っている。
「七海、鬼……」
吉野が、砂の上に倒れこんだ。
七人は、さすがだった。
ローデリックとタリクは、砂の上でも平気な顔で走り続けた。ボルグは遅いけれど、一歩一歩がまるで重機のように力強く、決して止まらない。ミロは、なぜか砂の上を一番軽やかに走っていた。砂の国で育ったからだと、あとで知った。
でも、二十分をすぎたころ。
ゼノが、砂の上にひざをついた。
「ゼノ!?」
駆け寄ると、ゼノは顔を真っ青にして、肩で息をしていた。体力テストのシャトルランのときと、同じだった。
「……放っておけ」
ゼノは、俺の手をふりはらった。
「でも――」
「俺の体は、長く動くようにできていない」
ゼノは、目を閉じたまま言った。
「影の国の者は、一撃のために生きる。気配を消して近づき、一瞬で仕留め、消える。何時間も走り続けるような戦い方は、教わらなかった」
ゼノが、こんなに長くしゃべるのを、俺は初めて聞いた。
「この儀式は、九十分もある。……俺は、二十分で、ただの荷物になる」
その声には、くやしさがにじんでいた。
俺は、砂の上に、ゼノの隣に座った。
「じゃあ、二十分で決めればいい」
「……何?」
「九十分全部、全力で走る必要なんてない。サッカーは、交代があるから。ゼノが一番輝く二十分を、俺たちが作ればいいんだ」
ゼノは、薄く目を開けて、俺を見た。
何か言いかけて、やめた。
そのかわり、ほんの少し、口のはしが上がった気がした。
◇ ◇ ◇
二日目の朝。
まだ暗いうちに目が覚めた。枕が変わると、どうも眠れない。
障子の向こうが、うっすらと青くなりかけている。遠くで、漁船のエンジンの音がした。
トイレに行こうと廊下に出ると、窓の外に人影が見えた。
民宿の裏の空き地で、ボルグが一人で体を動かしていた。
ゆっくり腕を回し、ゆっくり腰を落とし、ゆっくり足を伸ばす。まるで、時間をかけて何かを磨いているような動きだった。
声をかけようとして、俺は足を止めた。
空き地のすみに、もう一人いたのだ。
大吾だった。
大吾は、ベンチに座って、自分の右ひざに、ビニール袋に入れた氷を当てていた。
「……毎朝、やっているのか」
ボルグが、体を動かしながら、大吾に声をかけた。
大吾は、びくっとして、氷を後ろに隠した。
「な、何のことだよ」
「ひざだ。走るとき、右をかばっている。最初の日から気づいていた」
大吾は、しばらく黙っていた。
観念したように、氷をひざに戻した。
「……春ごろから、ちょっと痛くて。でも、言ったら試合に出してもらえなくなるだろ。ただでさえ、俺、うまくないし。走ることしか、取り柄ないし」
ボルグは、動きを止めた。
大吾の隣に、どすんと座った。ベンチが、ぎしっと鳴った。
「岩の国の掟を、教えてやる」
ボルグは、低い声で言った。
「――刃は、毎朝研げ」
「刃……?」
「戦士の体は、刃と同じだ。毎朝、研がねばすぐに錆びる。だから俺は、毎朝こうして体を研ぐ」
ボルグは、自分の大きな手のひらを見つめた。
「だが、掟には続きがある。――研ぎすぎた刃は、折れる」
大吾が、顔を上げた。
「休むのも、研ぐことのうちだ。折れた刃は、二度と元には戻らない」
ボルグは、それだけ言って立ち上がり、また、ゆっくりと体を動かし始めた。
大吾は、ひざの上の氷を見つめていた。
「……誰にも、言わないでくれ」
「戦士の傷は、その戦士のものだ」
ボルグは振り向かずに答えた。
「言うかどうかは、おまえが決めろ」
俺は、そっと廊下を戻った。
見てしまったことを、どうすればいいのか、わからなかった。
キャプテンとして、菅野先生に伝えるべきなのか。
それとも、大吾が自分で言うのを待つべきなのか。
その答えを、俺は、ずっとあとになるまで出せなかった。
◇ ◇ ◇
三日目の夜は、合宿の恒例行事――砂浜での花火大会だった。
「なんだ、これは!」
ローデリックが、手持ち花火から噴き出す火花を見て、のけぞった。
「火薬か!? こんな近くで火薬を!? 危険だ、全員下がれ!」
「団長、大丈夫だって。ほら、きれいでしょ」
小日向が、自分の花火を振り回して、空中に光の線を描いてみせた。
ボルグは、ねずみ花火が足もとを走り回るのを、真剣な顔で追いかけていた。
ミロは、いつの間にか花火の袋を三つ抱えていて、七海に取り上げられていた。
七海は、取り上げた袋を抱えたまま、ふと手を止めていた。その視線の先で、サフィールが、ひとりで夜空を見上げていた。
七海は、袋の中から線香花火を二本だけ取り出すと、少しためらってから、サフィールのほうへ歩いていった。
セリオと奏太は、並んで線香花火をしていた。どちらが長く玉を落とさずにいられるか、無言で競っている。二人とも、息を止めていた。
タリクは、吉野と堀といっしょに、砂浜に寝転がって夜空を見上げていた。
「あれが、夏の大三角。こと座のベガと、わし座のアルタイルと……」
「タリク先輩、星くわしいっすね」
「狩人は、星で道を読むからね。でも、この空の星は、知らないものばかりだ」
タリクは、少しさびしそうに笑った。
俺は、少し離れた波打ちぎわで、その光景を見ていた。
日本人と、七人。
最初の日、グラウンドに引かれていた見えない線が、この夜の砂浜には、どこにもなかった。
――航平が、ここにいたらな。
そう思ったとき、すぐ近くで、小さな声がした。
「……月が、ひとつしかない」
セリオだった。
線香花火を終えて、夜空を見上げている。
「ひとつしかないから、こんなにさびしいのかな」
「セリオ」
いつの間にか、サフィールがセリオの後ろに立っていた。
サフィールは、セリオの肩に手を置いて、静かに首を横に振った。
セリオは、はっとして、口をつぐんだ。
月が、ひとつしかない。
――あたりまえだ。月は、ひとつに決まっている。
それなのに、どうしてセリオは、あんなにさびしそうな顔をしたんだろう。
◇ ◇ ◇
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
大部屋に布団を並べて寝ているみんなの寝息が、波の音にまじって聞こえる。ボルグのいびきが、ときどき地鳴りのように響いた。
水を飲みに一階へ下りると、縁側に二つの影があった。
ローデリックと、サフィールだった。
俺は、なぜか、声をかけられなかった。
柱のかげで、足を止めた。
「――この者たちは、よい者たちだ」
ローデリックの声だった。
「ミナトも、ダイゴも、コヒナタも。わたしたちを、少しずつ受け入れてくれている。……だからこそ、わたしは恐ろしい」
「何がだ」
「もし、我らが負ければ」
ローデリックの声が、低くなった。
「負けた道の七人は――」
「まだ言うな」
サフィールが、さえぎった。
今まで聞いたことのない、するどい声だった。
「それは、この者たちに背負わせることではない。……わたしたちが、わたしたちの手で、終わらせることだ」
縁側に、長い沈黙が落ちた。
波の音だけが、ざあ、ざあ、とくり返していた。
俺は、足音を立てないように、階段を上った。
布団にもぐりこんでも、心臓がどきどきしていた。
負けた道の七人。
背負わせることではない。
あの七人は、いったい何を背負って、この町に来たんだろう。
窓の外に、月がひとつ、浮かんでいた。
明日は、合宿の最終日。
日本人チーム対、七人の紅白戦だ。




