第八話 受け取り係
杖を詰めていただいたのは、舞踏会の四日前でございます。
細工師は麻紐をもう一度当てて、前より二分短く切られました。軸の先を鋸で落として、真鍮の当たり金を嵌め直します。石突も新しいものにいたしました。
床に当ててみますと、柔らかく鳴りました。
「お丈が決まりましたな」
「決まりました」
「では、あと三年は保ちます」
握りの下の銀環だけは、そのままにしていただきました。詰めるときに一度外して、また嵌め直したものでございます。
三年ぶりに、丈の合った杖で歩きました。
肩の位置が変わります。右へ預けずに済みますので、左の肩が上がりません。歩幅も広がりました。玄関から門までを、以前は二十七歩で歩いておりました。今日は二十二歩でございます。
慈善会は、王都の南の会館で毎年開かれます。
孤児院と施療院への寄付を集める会でございまして、上のほうの家がいくら出したかが、その場で読み上げられます。読み上げるのは主催の伯爵未亡人で、六十をいくつか越えておいでです。声のよく通る方でございました。
わたくしはフェイの名代として参りました。父が留守でございますので。
三年前も、二年前も、去年も参っております。ただし三年間は、ハースト家の馬車で、ハースト家の席におりました。今年は自分の家の馬車で参りまして、壁際の椅子をいただきました。
会館の広間は、床が寄木でございます。杖の音がよく通りますので、壁沿いを歩きました。
「フェイ嬢」
ソーン様が柱のところにおいででした。記録院は毎年、寄付の記録を取りに来るのだそうです。今日は外套ではなく、黒い上着を着ておいででした。手袋は嵌めておいでです。
「杖が、変わりましたね」
「詰めていただきました」
「よくお似合いです」
それだけ仰って、少し離れたところにお立ちになりました。近づきもなさらず、離れもなさいません。
広間には、施療院の子どもたちが花を配っております。一人が、わたくしの杖を見て、それから花を差し出しました。手袋を嵌めた手で受け取りますと、その子は不思議そうな顔をいたしました。
名簿の読み上げがはじまりました。
未亡人が壇の上で紙を広げて、上から順に読まれます。
一番。北の公爵家。金額。
二番。王都の商会の連名。金額。
三番。ハースト侯爵家。
広間の空気が、少しだけ動きました。
わたくしは壁のほうを見ておりました。三年前も、二年前も、去年も、ハーストのお名前は一番でございました。この会では、順位がそのまま家の勢いとして読まれます。
未亡人は次を読み、その次を読み、名簿を畳まれました。
八番まで読まれました。八番は、去年ハーストのすぐ下におられた家でございます。金額は去年と同じでした。
拍手のあいだに、扇の陰でいくつも言葉が交わされました。わたくしのところまでは届きません。
「ロザリンド」
振り向きますと、ハースト様が立っておいででした。
三月ぶりでございます。頬が少し痩せておいででした。上着の肩が合っておりません。
「ご無沙汰しております、ハースト様」
呼び名を変えたことに、この方は気づかれませんでした。
「話がしたい」
「ここで、でよろしいですか」
「ここでいい」
そう仰って、ハースト様は一歩前に出られました。
壁際でございます。人の目が集まりました。ドレイク伯とドレイク様が、柱の向こうからご覧になっております。ハースト夫人は、二つ離れた輪の中で扇をお持ちのまま、こちらを向いておいででした。
主催の未亡人が、壇を下りる途中で足を止められました。
ハースト様が、右手の手袋を外されました。
人前で手袋を外すというのは、この国では礼のかたちでございます。婚礼の誓いのときと、詫びのときにいたします。
広間の音が、少し小さくなりました。
わたくしの後ろで、どなたかが「まあ」と仰いました。
「ロザリンド」
「はい」
「日誌を見た。全部見た。三十四だった。三年前までの三年だ」
「さようでございますか」
「それから、記録院の別紙も読んだ。十八行あった。九行が君の左脚だった」
「はい」
「私は、知らなかった」
その手は、まだ下ろされたままでございます。
「母上から一度だけ聞かされている。婚約の年の冬だ。君がそういう家系の娘だと。私はそのとき、では続けてもらおうと言った。言ったことを、今日まで忘れていた」
「そうでしたか」
「思い出したのは、日誌を数え終えた晩だ」
「そうでしたか」
「君が来るようになってから、私は一度も落ちていない。厩番も火傷をしていない。人足の肩も無事だった。私はそれを、自分の運だと思って三年過ごした」
「はい」
「厩を建て替える見積もりが三通来る。以前は一通だった。誰が二通を断っていたのか、私は知らなかった」
「それは、わたくしではございません」
少しだけ、口を開けられました。
「では」
「オズウィンさんかと存じます」
「ロザリンド」
ハースト様が、右手を差し出されました。
「知らなかったんだ。頼む、もう一度だけ」
手が、わたくしの胸の高さにございました。指の付け根の硬いところが見えます。三年、わたくしが握っていたところでございます。
広間の誰かが、息を吸う音がいたしました。
楽師が弓を構えたまま、止まっております。主催の未亡人は壇の三段目でお立ちのままでございます。踊りの輪を作りかけていた方々が、輪を作りかけたところで止まっておいででした。
わたくしは、その手を見ておりました。
もう一度だけ、と仰いました。
一度だけ何をするのかを、この方は仰いません。仰らなくても、手を差し出しておいでですから、分かります。詫びるおつもりであれば、手は要りません。詫びは、口で申し上げるものでございます。
手が要るのは、握るためでございます。
胸のあたりが、少し痛みました。移し身の痛みではございません。こういう痛みには、行き先がございません。
三年、わたくしはこの方を好いておりました。今も、少しだけ。
三月前の応接間で、わたくしはこの手を握って、婚約を解消するという話を最後までうかがいました。あのとき握っていたのは、この方のためでございます。
今、差し出されている手も、この方のためでございます。
「ハースト様」
「ああ」
「そのお手は、ご自分でお使いください。わたくしはもう、受け取り係ではございません」
指が、少し動きました。
「受け取り係」
「三年、わたくしはそういう役目でございました。役目を降りましたので、お戻しいたします」
「ロザリンド、私は」
「もう、握りません」
手が、そこに残りました。
下ろすでもなく、引くでもなく、胸の高さで止まったままでございます。誰も声を出しませんでした。壇の上の未亡人も、扇を持ったハースト夫人も、柱の向こうのドレイク伯も。
わたくしは杖を左手に持ち替えました。
握りの下の銀環に、右手の指をかけます。三年前より指が細くなっておりますが、環は軸に嵌まっておりますので、少し力が要ります。二度目で外れました。
環の下から出てきた軸には、色の変わった帯が一本ございます。三年、日に当たらなかったところでございます。黒檀は日に焼けますと赤みが出ますので、そこだけが元の色のままでした。
帯の幅は、指一本ぶんもございません。
わたくしは、その環をハースト様の手のひらに置きました。
置いた指が、この方の手に触れました。手袋を嵌めておりますので、何も起きません。
「お返しいたします」
「これは、私が」
「ハーストの紋が入っております。お家のものでございますから」
ハースト様は、手のひらの銀環を見ておいででした。
それから、その手を握られました。環を握ったのでございます。
柱の向こうで、音がいたしました。
ドレイク様が、手袋を落とされたのでございます。片方だけでございました。拾おうとなさらずに、ご自分の手を見ておいでです。それから、その手をゆっくりと閉じて、開いて、また閉じられました。
わたくしは、ドレイク様のほうを見ます。
目が合いました。
ドレイク様は何も仰いませんでした。あの方は今日まで、なぜ手袋を外すのかを教えられておりません。教えられないまま、この広間で、教えられました。
わたくしは目礼をいたします。ドレイク様も、頭を下げられました。
ハースト夫人が、輪から離れてこちらへ二歩お進みになりました。それから、お止まりになります。
壇の上の未亡人が、咳払いをなさいました。
「では、皆さま。踊りのお時間でございます」
楽師が弓を上げます。
音が戻ってまいりますと、人の輪も戻ってまいりました。皆さま、何も見ていなかったという顔で、扇を動かしはじめられます。
ハースト様は、まだそこにお立ちでした。
右手に銀環を握って、左手は下ろしたままでございます。手袋は片方だけ嵌めておいででした。外したほうを、どこに置いたか思い出せないというお顔でございます。
わたくしは杖を持ち替えて、その手の横を通りました。




