第六話 数え終えても
朝から数えている。
書斎の卓に紙を一枚置いて、この二月で片付かなかったものを書き出した。
厩の建て替えの見積もりが三通。どれも金額が違う。以前は一通しか来なかった。届いたものに私が目を通して、署名して、それで終わっていた。
北の取引先への詫び状。まだ出していない。文面が決まらない。
叔父の家の婚礼の返事。期日を過ぎている。返事の期日というものを、私はこれまで気にしたことがなかった。気にする必要がなかったからだ。
セシリアの父君からの書簡が二通。どちらも「その後いかがか」という趣旨で、答えようがない。
紙の下のほうに、厩の落馬、厨の火、破談、それから今週になって門の蝶番と、井戸の釣瓶。二月で五つ。
紙の端に、今朝のことも書き足す。
出かける前に上着の袖を探ったら、いつも入っているはずの手袋が入っていなかった。誰が、とは考えたことがない。
厩へ行くと、鞍が二つとも湿っていた。昨日の雨のあと、誰も入れなかったらしい。以前は入っていた。
昼に来客があった。私は名前を思い出すのに三拍かかった。以前は、玄関に出る前に誰かが耳打ちしてくれていた気がする。気がする、というだけで、誰がしていたのか思い出せない。
五つが多いのかどうか、私には分からなかった。
比べる相手がいない。父の代のことは覚えていない。私が家のことを見るようになったのは、二十を過ぎてからで、それはちょうど婚約の年に重なる。
つまり私は、この家が本来どういう家なのかを、一度も見ないまま当主の仕事を覚えたことになる。
夕食のあと、オズウィンを呼んだ。
「オズウィン」
「はい」
「この家は、以前どのくらいだった」
「以前と申しますと」
「事故だ。年に何度あった」
オズウィンは盆を持ったまま、少し黙っていた。
「お持ちいたしましょうか」
「何を」
「日誌でございます」
夕方に、卓の上に六冊が並んだ。
背表紙に年号が入っている。表紙は同じ布で、擦れ具合だけが違う。古いものほど角が丸い。
「三年分と、その前の三年分でございます」
「もっと古いものは」
「地下にございます。お入り用でしたら」
「今はいい」
私は右から二冊目を取った。婚約の年のものだ。
開くと、日付の列と、短い行が並んでいる。字は小さく、傾きがない。一日に一行か二行。
四月十二日、東の間の暖炉の煤払い。翌十三日に北の門の蝶番。十五日、庭師の交代。
こういうものが延々と続く。屋敷の管理の記録だ。事故は、その中に紛れて書かれている。
紙は上等ではない。指で擦ると毛羽が立つ。罫線は薄い藍で、日付の列だけが狭い。
五月一日、厩の若馬が右前脚を傷める。獣医来訪。
私はその行を二度読んだ。覚えている。あの馬は結局売った。
頁をめくる。六月も、七月も、暖炉と門と庭師の話しかない。
八月に一行だけ、井戸の水位のことが書いてある。
九月、十月、十一月。何もない。
十二月に、雪囲いの手配。
私は一冊目を閉じて、次を取った。同じだった。屋敷の管理の記録が続いて、事故らしいものが年に一度か二度。それも、傷めた馬とか、水位とか、その程度のものだ。
三冊目も同じだ。
私は三冊を右へ寄せた。厚みは同じなのに、中身が軽い。
「オズウィン」
「はい」
「この三年は、ずいぶん静かだな」
「さようでございます」
私は左端の三冊を取った。婚約の前の年から、さらに三年遡る。
開いた。
四月三日、厩の火。厩番二名が火傷。医者来訪。
同じ月の十九日、荷馬車が坂で横転。馬一頭を処分。
五月二日、私が落馬。右鎖骨。
覚えている。これは覚えている。骨が付くまで六週かかった。あの六週のあいだ、私は右手が使えず、書簡の署名を全部左手で書いた。そのあとの三年、私は一度も落ちていない。
五月二十七日、井戸の落盤。人足一名が肩を打つ。
六月九日、母上の馬車の車軸。
六月十五日、南の納屋の屋根。
私は指を止めた。
二月で六つある。
頁をめくる。七月に三つ。八月に二つ。九月に四つ。
「オズウィン」
「はい」
「これは、多いのか」
「この家は厩を四つと、貸し出しの荷馬車を十二持っております。持ち物の数だけ、ものは起きます」
「では、これが普通か」
「三年前までは、この頁の厚みでございました」
オズウィンは左端の冊子の小口を、親指で押さえて見せた。書き込みで紙が波打っている。右端の三冊は、小口が平らだ。同じ紙を綴じて、同じ年月を挟んで、こうなる。
私は次の年を開いた。同じだった。その次も同じだ。
行が詰まっている。日付の列が埋まって、書き込みが二行に渡っているところがある。文字が小さくなって、欄からはみ出しているところもある。
そこから三年分だけが、白い。
正確には空欄ではない。暖炉と門と庭師のことは書いてある。ただ、事故の行がない。三年で、傷めた馬が一頭と、水位が一度と、雪囲いの遅れが一度。
三つだ。
その前の三年は、数えるのをやめた。
いや、数えた。二冊目の途中で指が足りなくなって、紙に正の字を書きはじめた。
三十四。
三年で三十四ある。
書き出しながら、種類も分けた。人が怪我をしたものが十一。馬が九。建物と道具が八。金と約束が六。
十一のうち、四つは私だ。落馬が二度、階段が一度、狩りの矢が一度。
私は書き終えた紙を見た。それから、白い三年のほうへ戻った。
三つ。
「オズウィン」
「はい」
「書き漏らしはあるか」
「ございません」
「なぜ言い切れる」
オズウィンは一冊目を開いて、私の前に置いた。
「訂正は、消さずに残す決まりでございます。誤りがございましたら、二重線を引いて、上に書き直します。線の上には私の印を捺し、欄の外に、削った字数と足した字数を書きます」
私は頁を見た。
確かに、古い冊子には二重線がいくつもある。二重線の下の字は読める。読めるように残してある。欄の外に、小さく数字が書いてある。四字削り、五字足す。そういう書き方だ。
私は三年分の冊子をめくる。全部めくった。
二重線は、一本もなかった。
「書き換えていない、ということか」
「書くことがなかったのでございます」
私は椅子に背を預けた。
しばらく、何も。天井の隅に、蜘蛛の巣の跡がある。
書いてあることは全部ある。暖炉の煤払いも、門の蝶番も、庭師の交代も、蜘蛛の巣の払い方も。
ロザリンドの名前が、ない。
私は探した。婚約の年から、三年分。来訪の記録は残るはずだ。客が来れば、名を書く。
書いてある。三年前の四月、フェイ伯爵家ご息女ご来訪。翌月も。その翌月も。
来訪の記録だけだ。
来て、帰った。それしか書いていない。
来て、何をしたかを書く欄が、この様式にはない。
私はもう一度、来訪の行を数えた。三年で百三十七回。ひと月に三度から四度。雪の月にも来ている。
百三十七回、この家に来て、百三十七回、帰った。それだけが残っている。
「オズウィン」
「はい」
「彼女が来た日と、そのあたりの日を並べて見せてくれ」
「頁の端に、印を付けてございます」
私は端を見た。小さな鉤形の印が、数えきれないほど付いている。
「これは何だ」
「私が付けたものでございます」
「何のために」
「分かりかねます」
オズウィンは目を伏せた。
三年、この男は毎晩ここで鉛筆を持っていた。何を見て、何を書かずにいたのか。私は何も言わなかった。
扉が開いた。
母上が入ってこられた。手に刺繍の枠を持ったままだ。
「ギルバート。まだ起きているの」
「これを見ていました」
卓の上の六冊を見て、それから私の書いた紙をご覧になる。正の字が並んでいる。
「そんなものを数えて、どうするの」
「三年前までは、年に十一ほどあったようです。この三年は、三年で三つでした」
「そう」
「母上は、ご存じでしたか」
母上は枠を卓の端に置かれる。それから、椅子には座らずに立ったまま仰った。
「あの子は好きでやっていたのよ」
私は顔を上げた。
そのお顔には、隠しごとをしている人の色がなかった。責められる覚えもないという顔だ。ロザリンドは頼まれてやったのではない。誰にも命じられていない。
この三年分の空白を、母上は贈り物として受け取っておられる。
私は紙の上の正の字を見た。三十四と、三。差は三十一だ。
三十一のうち、いくつが私の骨だったのか。いくつが厩番の火傷で、いくつが人足の肩だったのか。
三十一件を、誰かが順番に受け取っていた。受け取った側の記録は、この家にはない。
その全部が、どこかへ行った。行き先の名前は、この六冊のどこにも書かれていない。
「母上」
「なあに」
「これは誰の分だったんですか」
母上は少し眉を寄せられる。それから、刺繍の枠を取り上げて、扉のほうへ歩かれた。
「変な言い方をするのね」
扉が閉まった。
オズウィンが蝋燭の芯を切る。炎が短くなって、頁の白がよく見えるようになった。
私は最後の一冊を最初から見直した。もう一度、数えた。
三十四。
減らなかった。
私は数え終えて、頁を閉じた。閉じても、数は減らなかった。




