第五話 手袋を外しても
ハーストのお屋敷に入る前の晩、父から言いつけられたことが三つございました。
背を伸ばすこと。人の名を間違えないこと。それから、人とお会いするときは手袋を外して、こちらから手を差し出すこと。
三つ目は、去年の冬からずっと言われております。
「なぜですの」
一度だけ、そう聞いたことがございます。
父は葉巻の先を切りながら、こうお答えになりました。あちらは古い家だ、手を出すのが礼にかなう、と。
ハースト邸の玄関には、青い石が敷いてございます。晴れた日は白く見えて、雨の日は濃い青になります。着いた日は雨でした。
出迎えてくださった家令に、わたしは手袋を外して手を差し出しました。
「ドレイク様、ようこそ」
オズウィンは腰を折っただけで、手はお取りになりません。使用人が主人筋の手を取らないのは当たり前でございますから、わたしは手を戻しました。
叔母様は東の間にいらっしゃいます。
「セシリア。よく来てくれたわね」
「お世話になります」
叔母様は両手でわたしの手を包んでくださいました。柔らかい手でございます。指輪が三つ、どれも大きうございました。
「あなたがいてくれると、この家は明るくなるわ」
そう仰いました。
その日から、わたしは朝の挨拶のときに手袋を外します。お茶をお持ちする者にも、庭師にも、お客様にも。誰にでも、というのが父の言いつけでございました。
十日目に、ギルバート様が落馬なさいました。
厩の裏の道でございます。ご無事でしたが、右の肘を擦りむかれて、医者が来ました。屋敷の者が「三年ぶりでございますね」と言うのを、わたしは廊下で聞きました。
十三日目に、厨で火が出ました。
油の鍋が倒れて、壁の板が焦げただけでございます。誰も怪我はしておりません。ただ、水を運ぶ人たちが廊下を走っている音を、わたしは自分の部屋で聞いておりました。足音が止まったあと、誰かが「今年はどうなっているんだ」と言うのが聞こえます。
十六日目に、北の取引先との話が流れました。
ただ、その日のお夕食の席で、叔父様が一度も口をお開きになりませんでした。
わたしは自分の指を、卓の下で折りました。人様のお家の不幸を数えるのは、よくないことだと存じております。十日、十三日、十六日。三つでございます。二週間と少しで三つは、多いのでしょうか。
分かりませんでした。比べるものを、わたしは持っておりません。
ドレイクの家では、この程度のことは年に何度もございました。馬が脚を折ったこともございますし、納屋の屋根が飛んだこともございます。父はそのたびに、そういう年もあると仰いました。
洗い場の前を通りますと、女中が二人で話しております。
「三年分が、いっぺんに帰ってきたみたいだねえ」
「戻ってきてるんだよ。あちらのお嬢様が持っていってらしたぶんが」
「怖いこと言わないでおくれ」
わたしが通りかかると、二人は黙って頭を下げました。
わたしは何も聞かなかったふりをして、通り過ぎます。それから廊下の角で立ち止まって、しばらく壁を見ておりました。
持っていってらしたぶん。
背中のあたりが冷とうございました。
その晩、わたしはギルバート様の書斎へ参りました。
肘の手当ての布を替えるという名目でございます。本当は、聞いてみたいことがございました。
「セシリア。どうした」
「布を」
「ああ、頼む」
ギルバート様は右腕を卓に出されます。わたしは巻いてある布を解いて、新しいものに替えました。傷は乾いております。
替え終わって、わたしは手袋を外しました。
それから、ギルバート様の右手を取りました。
指を包んで、少しだけ力を。父に言われた通りの形でございます。手袋を外して、こちらから、しっかりと。
ギルバート様は不思議そうにわたしを見ておいでです。
「どうした」
「いえ」
わたしは、待っておりました。
手のひらが温かくなるとか、指先が痺れるとか、何かが起きるのだろうと思っておりました。
何も起きませんでした。
暖炉の薪が崩れる音。それだけでございます。
しばらくして、ギルバート様が手を引かれました。
「セシリア。手が冷たい。火のそばにいなさい」
「はい」
わたしは手袋を嵌め直しました。指が上手く入りません。左の薬指のところで引っかかって、二度やり直しました。
書斎を出るとき、ギルバート様がわたしを呼び止められます。
「セシリア」
「はい」
「今日は、何か用があったんじゃないのか」
「いいえ。布を替えに参りましただけです」
ギルバート様はうなずいて、また書き物に戻られました。
翌日、叔母様のところへ参りました。
朝の間で、叔母様は刺繍の枠を膝に置いておいでです。糸を替えるところで、わたしを見上げてくださいました。
「どうしたの、その顔」
「叔母様」
「ええ」
「わたしは、何をすればよろしいのですか」
叔母様の手が止まりました。
「何をとは」
「父から、手袋を外して手を差し出すようにと言われております。そのようにしております。けれど、それだけでは足りないような気がいたします」
「セシリア」
「この十日ほどのあいだに、いろいろなことが起きております。わたしが何かをすれば、止まるのでしょうか」
叔母様は、糸を通し終えて、枠を膝に戻されます。
それから、笑ってくださいました。
「あなたは何もしなくていいのよ」
「けれど」
「ロザリンドさんは、好きでやっていたの。誰にも頼まれていないわ。あなたが同じことをする必要はないの」
わたしは黙っておりました。
同じこと、と叔母様は仰いました。それが何なのかを、叔母様はご存じです。
「叔母様」
「なあに」
「ロザリンド様は、何をなさっていたのですか」
叔母様は刺繍の針を布に刺して、それから抜かれます。
「あの方は、そういう体質だっただけよ」
体質、と仰いました。
叔母様は針を持ち直して、また刺しはじめられます。わたしは礼をして、下がりました。
扉を閉める前に、叔母様がもう一度仰いました。
「セシリア。あなたは、あの方の代わりではないのよ」
代わり、という言葉。わたしは何も申し上げませんでした。
朝の間を出ますと、廊下の突き当たりでオズウィンが立っておりました。窓辺の卓に厚い帳面を広げて、鉛筆で何か書き込んでおります。
「オズウィン」
「はい、ドレイク様」
「それは、何ですの」
「屋敷の日誌でございます」
「毎日、お書きになるの」
「毎日でございます」
わたしは近づいて、頁を覗きました。日付と、短い行が並んでおります。字は小そうございました。
「今日は、何をお書きになったの」
「東の間の暖炉の煤払いと、北の門の蝶番でございます」
「それだけ」
「それだけでございます」
オズウィンは鉛筆を置いて、帳面を閉じられます。閉じる前に、わたしは頁の端に小さな印がいくつも付いているのを見ました。
「オズウィン」
「はい」
「ロザリンド様は、こちらへよくいらしていたの」
「よくお越しでございました」
「どんな方でしたの」
オズウィンは少し黙っておいでです。
それから、こう仰いました。
「よくお歩きになる方でございました。三年前までは」
「その後は」
「その後は、あまり」
オズウィンはそれ以上仰いません。帳面を小脇に抱えて、廊下の奥へ下がっていかれました。
わたしは自分の部屋に戻って、寝台の端に座りました。
窓の外で、また雨が降っております。青い石が濃くなっているのだろうと思いました。
思い出したのは、婚約の解消をうかがったあの日のことでございます。
ロザリンド様は長椅子の向かいにお座りになって、ギルバート様の手を、ずっと握っておいででした。話が終わるまで、一度も離されません。わたしはそれを、最後まで諦めておいでにならないのだと思って見ておりました。
膝の上に、わたしの手袋が二つ並べてございました。
ロザリンド様は、いつも手袋をなさっていませんでした。
わたしが手袋を外しても、何も起こらなかったのです。




