第四話 記入漏れの監査
その方は、玄関で外套を脱がれませんでした。
濃い灰色の生地に、天秤と羽根の紋。応接間へお通ししてからも、袖のところに雨の粒が残っておりました。
「王立記録院の、アダム・ソーンと申します」
「フェイでございます」
わたくしは右手を差し出しました。三年のあいだ、そうするのが習いでございましたので。
その方は、手を出されませんでした。
外套の裾を払って、腰を折られただけです。手袋は嵌めたままでございました。指の付け根に墨の染みがございます。
わたくしは手を戻しました。
「失礼を」
「いいえ」
「握手をしない主義でございます」
主義、と仰いました。
三年のあいだ、手を出して断られたことはございません。皆さま、お出しになります。
わたくしは指を膝の上で組みました。素手でございます。手袋はまだ届いておりません。
その方は卓に鞄を置いて、留め具を外されます。中から出てきたのは、表紙の厚い帳面が三冊。角が擦り切れて、糸が見えておりました。
「ハースト領の記録に、抜けがございます」
「うかがっております」
「三年ぶんです」
一冊目を開かれました。
罫線の入った頁でございます。左の列に日付、中に事の中身、右に届け出た者の名。文字は何人かの手が混じっておりました。
「こちらが六年前です」
三月に厩の火。五月に落馬。同じ月にもう一件、荷馬車の横転。七月に井戸の落盤。九月に、また落馬。
どの行にも、右の列に名前が書き込まれております。
「毎月、何かしら」
「珍しい家ではございません。厩と馬を多く持つ家は、こうなります。屋根と煙突を多く持つ家は、火が増えます」
「そういうものですの」
「運の良い家というのは、記録の上には出てまいりません。持ち物が少ないだけのことが多うございますので」
その方は頁をめくられました。二年ぶんが同じように埋まっております。それから、また一枚。
そこから先が、白うございました。
罫線だけが引かれております。日付の列も、事の列も、名の列も。頁を三枚めくっても、まだ白い。四枚目もでございます。
わたくしは、その白を見ておりました。
罫線は薄い藍で引かれております。日付の列だけが少し狭く、そこに指を当てますと、紙の厚みで爪が止まりました。
書き損じの跡もございません。前の頁には、二重線で消して上に書き直したところが何か所かございました。
白い頁には、二重線が一本もございませんでした。
「三年ぶん」
「はい」
「記入漏れ、ということですの」
「それを調べに参りました」
その方は、白い頁に指を置かれました。手袋の指でございます。
「空欄は、何も起きなかったという意味ではありません」
「では、何ですの」
「書かれなかった、という意味です。理由は三つございます。起きていない。起きたが届けられていない。届けられたが、記録する者が別の欄に書いた」
「三つ目は」
「先方の家令が、屋敷の日誌を別に付けておいでです。そちらには何か書いてあるかもしれません。まだお見せいただいておりません」
オズウィンさんの日誌でございます。あの方が卓の端で鉛筆を動かしておいでなのを、わたくしは何度も見ておりました。
「ハースト家は、何と」
「書くことがなかっただけだと」
「そうでしょうね」
「わたくしもそう思います。ただ、そう思うことと、記録が空いていることは別でございますので」
「ハースト家の方は、お怒りでしょう」
「ご当主の奥様が、机を一度お叩きになりました」
その方は二冊目を開かれました。
こちらは薄うございます。表紙に、フェイ領の名がございました。
「なぜ、うちのものが」
「近隣の領は照らし合わせます。同じ日に同じ街道で起きたことが、片方にだけ書いてあることがございますので」
その方の指が、頁の下のほうをたどります。
「こちらは、教区の通行記録です。橋の番小屋が付けております。誰が、いつ、どちらへ渡ったか」
「そのようなものが」
「橋の維持費を領ごとに割るために取っております。ほとんど誰も読みません。読むのはわたくしどもと、あとは川が増えたときの水利の役所くらいでございます」
その方は、番号の並んだ列を示されました。
「フェイ伯爵家のご息女。四年前の一年で、橋をお渡りになったのが百八十二回。三年前が百三十。二年前が四十一。去年が二十二。今年はまだ、四回でございます」
「四回」
「三月に二度、四月に一度、今月に一度。今月の一度は、街道沿いの細工師のところまでかと存じます。橋の南には、あの店しかございませんので」
数字を読み上げる声に、上がり下がりがございません。
「よくお調べになりましたのね」
「調べたのではございません。書いてあるだけです」
わたくしは杖の握りに手を置きました。
橋を渡らなくなった理由なら、いくつも申し上げられます。馬車を使うようになりました。人の集まる場所を避けるようになりました。用事が減りました。どれも本当でございます。
「体質ですので」
わたくしはそう申し上げました。
三年、この一言で片が付いてまいりました。誰もそれ以上お聞きになりません。体質と申し上げれば、それはわたくしの都合になって、話は終わります。
その方は、帳面から顔を上げられました。
「体質でございましょう。ですがそれは、何もしていないという意味にはなりません」
雨が窓に当たっております。
わたくしは、その言葉をもう一度、頭の中で置き直しました。
「稼働、と仰いますと」
「動いた分、という意味でございます。誰かが何かをして、それによって何かが起きなかった。そのとき、起きなかったほうだけが記録に残ります。した側は、どこにも残りません」
「記録院の方は、皆さまそのようにお考えですの」
「わたくしだけかもしれません」
その方は帳面を閉じられます。それから、三冊目には手をかけずに、両手を膝に置かれました。
「フェイ嬢。ひとつ、うかがってもよろしいですか」
「どうぞ」
「痛みますか」
わたくしは、答えを用意しておりました。三年間、同じ答えを使っております。
その方はわたくしの顔を見ておいででした。急かすところがございません。答えないままでも、この方は困らないのだろうと思いました。
「今日は、少し」
「そうですか」
それだけでございました。
薬のことも、医者のことも、お聞きになりません。休むようにとも仰いません。
その方は鞄に帳面を戻して、留め具をかけられました。立ち上がって、外套の前を合わせられます。雨の粒は乾いておりました。
玄関までお送りしました。石突が三和土を打って、硬い音を返します。
その方は靴を履き替えながら、こちらを見ずに仰いました。
「先ほどの空欄ですが」
「はい」
「ハースト領の三年ぶんは、こちらの様式では埋められません。事故の届け出の欄しかございませんので、届け出のなかったものを書く場所がないのです」
「では、どうなさいますの」
「別紙を付けます。付けたものは、綴じられて残ります」
「誰かが読みますの」
「読まれない紙も、残っていれば数えられます。数えられれば、後から誰かが読みます。二十年後かもしれませんが」
「二十年」
「わたくしどもの仕事は、そのくらいの速さでございます」
その方は扉を開けられました。雨は上がっておりましたが、庇の端から水が落ちております。
「フェイ嬢」
「はい」
わたくしは杖を持ち替えて、その方のほうを向きました。
あなたの三年を、記録として残しておきます、とその方は言いました。




