第二話 好きでやっていたのだから
フェイの屋敷に戻って、玄関の敷石の上で杖を逆さに立てました。
石突を外すのは久しぶりでございます。革の袋のところを両手で握って、引きます。すぐには抜けません。半年も嵌めておりますと、内側の膠が軸に食いついております。少しずつ回しながら引きますと、乾いた音を立てて外れました。
中から黒い屑がこぼれました。手のひらに受けて、指で潰します。指の腹が黒くなりました。
接地面は、右の前のほうが深く削れて、斜めになっております。わたくしが左脚をかばって、右へ体を預けて歩いているからでございます。
削れ方を見れば、歩き方が分かります。
玄関の脇の引き出しに、替えの石突が二つ入っております。去年まとめて誂えたもので、軸の直径を測って作らせました。合わないものを力任せに嵌めますと、歩いている途中で裂けます。
引き出しは開けませんでした。
今日は、嵌めないでおきます。
「お姉様」
妹が扉のところに立っておりました。十六でございます。わたくしより背が高くなりましたのは、去年の春です。
「それ、三年で何本目」
「数えておりませんわ」
「わたしは数えてる」
リディアは指を折りはじめました。
「婚約が決まった年の夏に一本。その冬に一本。次の年は春と秋。去年は三本。今年に入ってもう二本目。九本」
「よく覚えているのね」
「取り替えるたびに、お姉様が屋根裏で泣いてるから」
屋根裏には、母の古い衣裳箱が置いてございます。冬でも日の当たる時間があって、あそこだけ床が乾いております。
わたくしは石突を持ち直しました。
「泣いてはおりません」
「じゃあ、あれは何」
答えませんでした。
リディアは敷石の段に腰を下ろして、わたくしの手のひらの黒い屑を見ております。それから、自分の指でそれをひとつ摘まみました。
「終わったの」
「終わりました」
「向こうから」
「ええ」
「そう」
妹は屑を敷石の隙間へ落として、立ち上がりました。何か言おうとして、やめたのが分かります。
昼過ぎに、ハースト家から使いが参りました。
若い従僕でございます。玄関で外套も脱がずに、封を切った書き付けを両手で持って、そのまま読み上げようとなさいました。
「あの、奥様からの言伝でございます」
「うかがいます」
「『あの子は好きでやっていたのだから、気を落とさないで』」
従僕はそこで顔を上げて、わたくしを見ます。それから、書き付けをもう一度見ました。
「以上、でございます」
「ご丁寧に」
「あの、お返事は」
「ございません」
従僕は書き付けを畳んで、懐に入れかけて、それからまた広げました。
「あの。差し出がましいことでございますが」
「はい」
「奥様は、ロザリンド様のお手のことを、ときどき」
そこで口を閉じられます。
「お手のこと」
「いえ。失礼いたしました」
従僕は頭を下げて、帰っていきました。
わたくしは玄関に立ったまま、その書き付けの一行を頭の中で並べ直しました。
好きでやっていた。
そのとおりでございます。奥様は嘘を仰いません。三年前、ハーストの屋敷の東の間で、わたくしが何をしているのかをあの方は最初にお気づきになりました。気づいて、何も仰いませんでした。ただ翌月から、わたくしがギルバート様のお近くに座れるよう、席の順を変えてくださいました。
親切な方でございます。
三年前のその日、わたくしは東の間の暖炉のそばで、ギルバート様の手当てをしておりました。狩りで落ちて、右の肩を打たれた翌日でございます。医者が置いていった軟膏を塗るのに、手袋を外しました。
奥様は扉のところにいらっしゃいます。わたくしがギルバート様の手首を握って、目を閉じているところをご覧になりました。目を開けたときには、もういらっしゃいませんでした。
翌月から、晩餐の席順が変わりました。それまでは卓の端。それが、ギルバート様のすぐ隣になりました。手の届く距離でございます。
お礼を申し上げましたら、奥様は「あなたがいてくれると、あの子が落ち着くから」と仰いました。
夕方に、もう一つ報せが参りました。
厨に出入りしている御用聞きが、噂話として置いていったものです。ハースト家の馬車の車軸が、王都へ向かう途中の坂で折れたと。奥様と侍女がお乗りで、二人とも軽い打ち身で済んだと。
台所で、料理番のばあやが言いました。
「あちらのお家は、三年ほど何もございませんでしたのに」
「そうね」
「その前は、毎年何かしらございましたでしょう。旦那様の代の火事とか、坊ちゃまの落馬とか。三年きれいに止まっておりましたのが、不思議でしたけれど」
「そうね」
「お嬢様がお通いになるようになってからでしたわねえ。ご縁というのは、あるものでございますね」
ばあやは鍋の縁を布で拭きながら、そう仰いました。悪気で仰っているのではございません。
不思議でした、と、この家の者も言うのでございます。
夜、リディアがわたくしの部屋へ参りました。寝間着の上に肩掛けを羽織って、扉を閉めてから、寝台の端に座りました。
「お姉様。聞いていい」
「どうぞ」
「あれ、勝手に移るの」
わたくしは、しばらく黙っておりました。
この問いを、誰かに向けられたのは初めてでございます。父も母も、聞きませんでした。ギルバート様も、奥様も、聞かれませんでした。皆さま、勝手に移るものだと思っておいででした。
そう思っていただくほうが、都合がよろしかったのです。
「移りません」
「え」
「触れているだけでは、何も起きません。こちらが引き受けると決めて、そう思ったときにだけ、移ります」
リディアは、肩掛けの端を握ったまま動きませんでした。
「引き受けるって、どうやって」
「決めるだけでございます。この人のものを、わたくしのものにする、と」
「それだけ」
「それだけです」
「じゃあ、三年間」
「はい」
「毎回」
「毎回でございます」
妹は何も言いません。わたくしも言いませんでした。
蝋燭の芯が長くなって、炎が揺れました。わたくしは鋏を取って、芯を切ります。
「お姉様の誕生日」
「ええ」
「三年、全部あちらの行事だった」
「そうでしたわね」
「一昨年は収穫祭の前夜で、去年は狩りの支度で、今年は」
「今年はまだでございます。秋ですから」
「一昨年、お姉様、朝から着替えて待ってた」
「そうでしたかしら」
「わたし、覚えてる。青いのを出してた。あれ、結局一度も着てない」
リディアは指を三本立てたまま、その手を下ろしました。
「ねえ、お姉様」
「はい」
「あちらの人たちは、お姉様が好きでやってたって言うの」
わたくしは石突の屑の跡が残った手のひらを、寝間着の膝で拭きます。
「言っておいででした」
「ひどい」
「いいえ」
わたくしは妹のほうを向きました。
「好きでやっておりました。ですから、やめるのもわたくしが決めます」
リディアは、口を開けて、それから閉じます。目のふちが赤くなっておりましたが、涙は出ませんでした。この子は泣くのが下手でございます。わたくしに似たのだと思います。
「うん」
「はい」
「うん、そうだね」
妹は寝台から下りて、肩掛けを直しました。扉のところで一度振り返って、それから何も言わずに出ていきました。
蝋燭を消して、寝ました。左脚は、まだ熱を持っております。二日と申し上げましたが、三日かかるかもしれません。落馬の重さは日によって違います。
眠る前に、指を一本ずつ動かしました。右手の指でございます。三年、あの方の手の形に合わせて曲げておりましたので、まっすぐに伸ばすと関節が鳴ります。
手袋屋への注文書には、指の長さを一本ずつ書き入れます。人差し指と中指は、右のほうが二分ほど長うございました。
五組、と書きました。一組では洗い替えが足りません。二組では、片方をなくしたときに困ります。三年のあいだに、そういう数え方をする癖がつきました。
明日から、この手は何も握りません。
窓の外で、風が鳴っておりました。
わたくしは翌朝、指の長い手袋を五組、注文いたしました。




