第一話 右手はまだ、あの方の手の中に
その話は左の耳で聞きました。右手はまだ、あの方の手の中にありましたので。
ハースト家の応接間には、南向きの窓が三つ並んでおります。晩春の光が床の板目を斜めに切って、わたくしの杖の先まで届いておりました。
「率直に言う」
ギルバート様はそう仰って、それから少し黙られました。
わたくしは待ちました。この方は言いにくいことを言うとき、先に率直に言うと前置きをなさいます。「婚約を、解消したい」
窓の外で庭師が鋏を使っております。規則正しい音でした。
わたくしは右手に力を入れました。ギルバート様の手のひらは乾いていて、指の付け根に硬いところがあります。手綱の跡です。三年前からずっと同じ場所にあります。
「うかがっておりますわ」
「そう言ってくれると助かる」
助かる、と仰いました。
長椅子の向かいには、ドレイク様が座っておいででした。膝の上に手袋が二つ、揃えて置かれております。外した手袋を膝の真ん中に置く方は、そう多くはございません。たいていの方は膝の横か、卓の端に置かれます。ドレイク様は指先をこちらへ向けて、両方とも膝に伏せておいででした。
爪の形の見えるほど近くに、素手を出しておいでです。
その意味を、わたくしはまだ言葉にしないでおきました。
「セシリアとは、去年の冬から話が出ていた。母上が進めたことだ。だが私も、断らなかった」
ギルバート様は言い訳をなさらない方です。そこは、わたくしが最初に好ましいと思ったところでした。三年前、フェイの領地まで自らお越しになって、婚約の話は父より先にわたくしへ。そういう順序をお選びになる方です。
「ロザリンド様」
ドレイク様が小さな声でわたくしをお呼びになりました。膝の手袋に指を触れて、それからまた戻されました。
「ごめんなさい。わたし、こういう場に出るのは初めてで」
「気になさらないでください」
「あの、ロザリンド様は、手袋は」
「持っておりますわ」
嘘ではございません。持ってはおります。
わたくしは右手を握ったままでした。
ギルバート様は続けられました。ハースト家の事情、王都の縁組の慣例、フェイ家への配慮。どれも筋の通った話です。
途中で、庭のほうから馬のいななきが聞こえました。
続いて何かが倒れる音。人の駆ける足音。窓の下を、厩番が二人、走っていきました。
わたくしの左の膝から下が、内側から強く押されました。押されて、それから熱くなりました。骨のあいだに湯を注がれたような感じがいたします。息を細く吐きますと、少しだけ収まります。
顔は動かしませんでした。三年もやっておりますと、そのくらいはできるようになります。
「今の音は」
ギルバート様が窓のほうへ首を向けられました。
「厩でしょうか」
「ああ。またルーカスの馬が暴れたな。あの馬は気が立っている。去年から一度も落とされていないのが不思議なくらいだ」
不思議なくらい、と仰いました。
扉が叩かれて、家令のオズウィンさんが茶を運んでこられました。銀の盆の縁を左手で押さえて、右手で卓に置く順を決めておいでです。ギルバート様、ドレイク様、それからわたくし。三つ目を置くとき、オズウィンさんはわたくしの杖に一度だけ目を落とされました。
「フェイ様、お砂糖は」
「いただきません」
「かしこまりました」
オズウィンさんの後ろから、給仕の子が水差しを運んでまいりました。敷居の段に爪先を引っかけて、盆が前へ流れました。
右手は、握ったままです。
水差しは倒れませんでした。子は自分の膝で盆を受けて、それから顔を赤くして頭を下げました。同じ拍で、わたくしの右の手首の骨が内側から鳴りました。折れたときの音に似ておりますが、折れてはおりません。こういうものは、あとから来ます。
「気をつけなさい」
オズウィンさんはそれだけ仰って、子を先に下がらせました。この方が余計なことを仰るのを、わたくしは三年間で一度も聞いたことがございません。
わたくしは杖の握りに左手を添えました。握りの下に、細い銀の環が嵌まっております。三年前、婚約が整った日にギルバート様がくださったものです。ハーストの紋と、わたくしの頭文字が彫ってあります。杖に嵌める飾りをくださる方は珍しくて、わたくしはあの日、それを長いこと眺めておりました。頭文字を彫らせるのに三週間かかったと、ギルバート様は少し得意そうに仰いました。
そのころのわたくしは、まだ杖を使っておりませんでした。散歩のときに持つだけの、細い黒檀の一本です。
いまは飾りではございません。毎日握るところの、すぐ下にあります。
銀環は少し曇っております。磨いてはおりますが、彫りの溝までは布が入りません。
「ロザリンド」
「はい」
「その脚は、いつからだ」
わたくしは指を数えました。
「二年と、少し前からです」
「そうか。医者には」
「かかっております」
「そうか」
ギルバート様はそこで話を替えられました。
「セシリアは、緊張しやすい質でね。人前に出ると手が震える。君のように落ち着いていられたら、あの子も楽だろうと思うんだが」
「そうですか」
「君は昔からそうだ。何を言っても、うろたえない」
うろたえたところを、この方の前でお見せしたことがございません。
ギルバート様はうなずかれます。それから、わたくしの右手をご覧になりました。ご自分の手が握られていることに、このとき初めて気がついたようなお顔です。けれど、離そうとはなさいません。
そういう方です。差し出されたものを、押し返す習慣をお持ちでない。
「これ以上言っても、君を傷つけるだけだと思う」
「最後まで、うかがいます」
ギルバート様は少し驚かれたようでした。
「君は」
言いかけて、やめられました。
「君は、いつもそうだな」
わたくしは何も申しませんでした。
廊下のほうで扉の開く音がして、オズウィンさんが誰かを案内していきます。応接間の扉は半分開いております。通っていく人の背中だけが見えました。濃い灰色の外套に、天秤と羽根の紋が縫い取ってあります。王都の記録院の方です。歩き方に急ぐところがありません。腕に抱えた表紙の厚い帳面が、廊下の光を白く返します。
オズウィンさんが扉のほうへ手を伸ばして、応接間の扉を静かに閉めようとなさいます。それから、閉めずに手を下ろされました。
「オズウィン、あとで」
ギルバート様が声をかけられましたが、廊下の足音は止まりませんでした。
「記録院の方ですの」
「先月から何度か来ている。うちの領の記録に抜けがあるとかで。母上が対応している」
「抜け、と仰いますと」
「三年ぶんの欄が白いんだそうだ。書き忘れではないかと言われて、母上が怒っていた。書くことがなかっただけだと」
「そうですか」
わたくしは杖の石突を、そっと床に当てます。
三年前は、板張りに当てると柔らかく鳴りました。革の詰め物が効いておりましたので。いまは芯の真鍮が先に当たって、硬い音になります。この応接間の板は乾いていて、音がよく通ります。
音で分かります。どれだけ歩いたかは、脚ではなく杖のほうに残ります。
「ロザリンド」
「はい」
「君には、感謝している」
ギルバート様は、まっすぐにわたくしをご覧になりました。この方が嘘を仰らないことを、わたくしは知っております。
「君がいると何もかもうまくいく。本当に感謝しているんだ」
庭師の鋏がまた鳴りました。
「三年間、うちには何も起きなかった。父上の代までは、毎年何かあった家なんだ。それが君と婚約してから、ぴたりと止まった。母上も言っている。あの子が来てから、この家は運が向いたと」
「そうですか」
「だから、これは君のせいじゃない。君は何も悪くない」
「ええ」
「君のような人と一緒にいられたのは、私には過ぎた三年だった」
ドレイク様は膝の手袋をご覧になっております。それから顔を上げて、わたくしを見て、また膝に目を戻されました。
わたくしは、そのお二人を見ておりました。
三年のあいだ、この方の言葉を疑ったことはございません。感謝していると仰るとき、この方は本当に感謝しておいでです。
わたくしがしていたことを、この方は一度も、してもらっていることだとは思われませんでした。
そう思われないようにしていたのは、わたくしです。
言えばよかったのだと、いまでも思いません。言わずにいることを選んだのはわたくしで、選んだものは、選んだ者の持ち物です。
左脚の熱が、膝のあたりまで下がってまいりました。あと二日ほどでしょう。落馬の重さはそのくらいです。
「話は、以上でしょうか」
「ああ。以上だ」
「では」
わたくしは、右手を離しました。
離すのに、少し時間がかかりました。指が固まっております。一本ずつ、順に伸ばしました。
ギルバート様の手の甲に、わたくしの指の跡が四本。白く残っております。ギルバート様はご自分の手を見て、それから、何でもないようにお膝へ下ろされました。
窓の外で、厩のほうの騒ぎが収まります。庭師の鋏の音だけが、また同じ間隔で戻ってまいりました。
右の手首が、脈に合わせて鳴っております。左脚の熱と合わせて、二つ。今日の分でございます。
ドレイク様が膝の手袋を取って、指を通しはじめました。片方だけ嵌めて、それからもう片方に手をかけて、途中でおやめになります。
「ロザリンド様」
「はい」
「またお会いできますか」
「ご縁がございましたら」
わたくしは杖を持ち替えて、立ちました。石突が板を打ちます。硬い音でした。
右手が、軽うございました。
三年ぶりに、わたくしの手は、わたくしの手だけの重さでした。




