第9話 夜会革命
春の建国祭から五ヶ月。同じ大広間。同じ花の香り。
──だが今夜、泣くのは私たちではない。
秋の収穫祭夜会。
蝋燭の蝋が焦げる匂いがする。楽団が調弦している。五ヶ月前と同じ匂いと音だ。ただ、花が違う。季節外れの夏の花が混じっている。誰が選んだのだろう。私ならこの組み合わせにはしない。
大広間に入った時、最初に気づいたのは配席の乱れだった。隣国の席と東方の席が近すぎる。あの二国は領土問題を抱えていて、席を離すのが常識だ。南方の伯爵の席にカトラリーが右に置かれている。左利きなのに。
五ヶ月前まで、こういうことは起きなかった。
リーリエが正妃として差配をしているはずだが、そのリーリエは壇上の近くで王太子と並んで立っていた。差配をしている気配がない。給仕たちが迷った顔で動いている。
私は何もしなかった。
今夜は、客として来ている。
エルヴィラが隣に来た。いつもの豪快な足音ではなく、静かな歩き方だった。
「準備はできてるわよ」
「ええ」
マリアンヌが反対側から近づいた。
「学院の教授とルイーゼさんは、控室に待機しています」
「フリーデ閣下は」
「大広間の東の入口にいらっしゃいます。合図を待っている、と」
カロリーネ様は離宮から来ていた。今夜は庭仕事のエプロンではなく、白いドレスを着ている。五年間王太子妃として着こなしてきた正装だが、今夜が最後だ。
胸元に手を当てた。ドレスの内側に、辞任申請書の控えが入っている。本書は二週間前に王室に提出済みだ。
「大丈夫ですか」
カロリーネ様に聞いた。
「ええ。……最後にこのドレスを着られてよかった。明日からは、もう着ることもないですから」
笑っていた。目まで笑っていた。
夜会が始まって一刻ほど経った頃、大広間の空気が変わった。
東の入口から、一人の女性が歩いてきた。
大法官フリーデ。
黒い法服を着ている。夜会に法服で現れるのは異例だが、フリーデは異例をやる人だ。必要であれば。
広間が静かになった。
フリーデは壇上に上がった。王太子が怪訝な顔をしたが、フリーデは一瞥もしなかった。
「公益に関わる事案について、大法官の権限に基づき、緊急裁定を行います」
声は大きくない。だが広間の隅まで届いた。フリーデの声はいつもそうだ。怒鳴る必要がない。言葉の密度で空気を支配する。
「第一の件。聖女リーリエの浄化能力について」
フリーデが手を挙げると、控室の扉が開いた。
リゼッテが出てきた。
私の侍女。十八歳。この五ヶ月間、私の傍で静かに見て、聞いて、覚えていた娘。
リゼッテの手が震えていた。でも声は震えなかった。
「三ヶ月前、宮廷の東回廊において、聖女リーリエ様が浄化の儀を行うのを目撃しました。リーリエ様の手から出ていたのは浄化の光ではなく、光る粉末でした。実際の浄化は、横に立つ神官オスカー殿が行っていました」
広間がざわついた。
続いて宮廷警備兵マティアスが壇上に立った。利害関係のない第三者として、職務上の観察を述べた。浄化の清浄さが聖女の手からではなく神官の方角から感じられたこと。以前から違和感を覚えていたこと。
フリーデが物証を示した。リゼッテが回収した触媒粉末。鑑定の結果、市場で装飾用に販売される蛍光鉱石と成分が一致した。
そして、神官オスカーが壇上に立った。
顔が青い。手が震えている。リーリエの方を見ないようにしていた。
「……私が、実際の浄化を行っていました。リーリエ様は触媒粉末を散布していただけです。リーリエ様に命じられ……拒否すれば職を解くと脅され、従うしかありませんでした」
リーリエが叫んだ。
「嘘よ! 全部嘘! この人たちは私を陥れようとして……」
フリーデが静かに遮った。
「確認のため、聖女リーリエに浄化の実演を求めます。なお、この実演は補助的な確認であり、単体では裁定の根拠としません。先ほどの証言、物証、供述書と合わせて総合的に判断します」
リーリエは動かなかった。手を前に出すこともしなかった。
広間が、静まった。
「聖女の認定要件には、自力での浄化能力の保持が含まれます」
フリーデの声には感情がなかった。確認しただけだ。
「能力を偽って認定を受けた行為は、称号詐称に該当します」
続けて、二件の裁定が行われた。
学院生ゾフィーの不正入学について。推薦元「クラインフェルト子爵家」が架空であること、同級生ルイーゼの研究論文を盗用した証拠が示された。ゾフィーは泣いたが、ルイーゼの原稿の日付は動かない。
宮廷女官アンナの資料盗用について。エルヴィラの式典計画書との筆跡照合結果が示された。アンナは広間の隅で何も言わなかった。
フリーデが裁定を読み上げた。
聖女リーリエ。称号詐称により、聖女の称号を剥奪し、宮廷から追放する。
学院生ゾフィー。不正入学および研究盗用により、学院を除籍する。
宮廷女官アンナ。資料盗用により、女官を免職とする。
神官オスカー。証言により減刑を適用し、免職のみとする。
元帥ヘルマンには、大法官の権限に基づき監督責任を問い、国王への降格勧告を行う。
学院長ルドルフは、不正入学への関与により解任とする。
一つ一つ読み上げるたびに、広間の空気が変わった。重くなるのではない。軽くなった。腐っていたものが、切り取られていく感覚。
「最後に」
フリーデが王太子を見た。
「王太子クラウス殿下。聖女の称号が剥奪された以上、正妃交代の根拠は失われました。正妃交代の撤回を命じます」
王太子の顔が強張った。
「……わかった。撤回する。カロリーネ、戻ってくれ」
広間にカロリーネ様の声が響いた。
「不要ですわ」
静かだった。叫んでいない。宣言でもない。ただ、事実を述べる声だった。
カロリーネ様がドレスの胸元から紙を取り出した。
「王太子妃の辞任申請書は、すでに王室に提出してございます。受理もされております。……殿下、お戻りくださいませ、は、私に仰る言葉ではもうありません」
王太子が凍った。
広間が凍った。
五年間、この人のために宮廷儀礼をこなし、式典を差配し、外交の席で完璧な微笑みを保ち続けた女性が、自分の足で立って、自分の言葉で辞めた。
追い出されたのではない。
戻れと言われて、断った。
カロリーネ様は壇上を降りた。私たちの方に歩いてきた。エルヴィラが手を差し出して、カロリーネ様の手を握った。マリアンヌが背中に手を添えた。
私はカロリーネ様の目を見た。泣いていなかった。建国祭の夜に泣いて以来、この人は一度も泣いていない。
夜会は事実上、終わった。
人が引いていく。裁定の衝撃で、踊る者はいない。給仕たちが料理を片づけ始めた。音楽は止まっている。
広間に残っているのは、まばらな人影と、燭台の灯りと、片づけ途中のテーブルだけだ。
私は窓際に立っていた。秋の夜風が入ってくる。春の建国祭の夜よりも冷たい。半年分、季節が進んでいる。
エルヴィラとマリアンヌは、カロリーネ様を連れて控室に行った。フリーデは書記官と裁定記録の確認をしている。
一人になった。
広間の床に、花びらが落ちている。飾りの花が枯れかけて、はらりと散ったものだ。五ヶ月前の建国祭では、私が花の種類と配置を決めていた。今夜の花は誰が選んだのだろう。少し季節に合っていない。秋なのに夏の花が混じっている。
足音が聞こえた。
革靴の底が石の床を叩く音。聞き慣れた音だ。
振り返らなくても、誰かわかった。
ディートリヒが隣に立った。
何も言わなかった。しばらく、二人で広間を見ていた。片づけ途中のテーブル、倒れかけた燭台、散った花びら。
夜会の残骸だ。
「ヴィクトリア」
「はい」
「話がある」
低い声だった。いつもの冷静な声ではなかった。かといって、門前で「俺」と崩れた時の声とも違う。
もっと……不器用な声だった。言葉を探している声。
そして。
手が来た。
ディートリヒの右手が、私の左手を取った。
指が触れた。手袋越しではない。素手だ。この人は夜会の手袋をいつの間にか外していた。
手が大きい。温かい。指先が少しだけ震えている。
十年間で──初めてだ。
公の場のエスコートではなく。業務上の書類の受け渡しでもなく。ただ、手を取った。
驚いた。
何を言えばいいのかわからなかった。
「……明日にしてください」
自分でも驚くほど穏やかに、声が出た。
「今夜は、まだ終わっていないことがありますから。……明日、聞かせてください」
ディートリヒの手が、少しだけ強くなった。
それから、ゆっくりと離れた。
「……わかった」
踵を返す。足音が遠ざかる。
手のひらに、温度が残っていた。
窓の外を見た。
秋の月が出ている。丸くはない。少し欠けている。満月には数日足りないのだろう。
明日がある。
明日、十年越しの答えを聞く。
私はもう泣かない。その代わり、聞く。あの人が何を見つけたのか、見つけられなかったのか。
散った花びらを一枚、拾い上げた。
夏の花だ。季節外れの。
……でも、咲いている。




