第10話 十年越しの答え
約束の朝が来た。
離宮の庭で、ローズマリーの枝を触っていた。秋になって葉が硬くなっている。夏の青い匂いは薄れて、もっと乾いた、木に近い香りになっていた。
季節が変わると匂いも変わる。当たり前のことだが、この半年で初めて知った。宰相邸にいた頃は、庭に出る暇がなかった。
足音が聞こえた。
砂利を踏む音。革靴ではなく、もう少し柔らかい靴底の音。ディートリヒは宰相邸では革靴しか履かない。今日は違う靴を選んできたらしい。
門が開いて、姿が見えた。
眠っていない顔だった。目の下の影が昨夜よりも濃い。髪は整えてあるが、襟元が少しだけ乱れている。ボタンを一つかけ間違えて、直したような跡がある。
この人が身なりを乱すのは珍しい。三十八年間、冷静と合理で固めてきた人だ。ボタンを間違えるのは、たぶん、一晩中何かと格闘していたということだ。
「来たのですね」
「……ああ」
声が低い。いつもの宰相の声ではない。かといって、門前で「俺」と崩れた時の声とも違う。もっと奥の方から出ている声だった。
「座りますか。ベンチがあります」
庭の隅に石のベンチがある。カロリーネ様が薬草園の手入れの合間に休む場所だ。座面が少し苔むしている。二人分の幅がある。
ディートリヒは座った。私も座った。間に、拳ひとつ分の隙間を空けた。
朝の光が庭に差している。ローズマリーの葉が光を受けて銀色に見える。
しばらく、黙っていた。
ディートリヒは膝の上で手を組んでいた。大きな手だ。書類を捌く時は正確で、ペンを持つ時は滑らかで、昨夜初めて私の手を取った手。
「昨夜……」
ディートリヒが口を開いた。
「昨夜、帰ってから、書こうとした。手紙を。何を言えばいいのか、書いてまとめようと思った」
この人らしい。感情を文書にして整理しようとする。外交条約の草案と同じ手順だ。
「書けたのですか」
「書けなかった」
ディートリヒの手が、膝の上で握られた。
「何度書いても……業務報告みたいになった」
少しだけ、笑いそうになった。こらえた。
「だから、書くのをやめた。このまま来た。何を言うか決めないまま」
「それは……あなたらしくないですね」
「ああ。らしくない」
ディートリヒが顔を上げた。正面を見ている。私の方ではなく、庭のローズマリーを。
「十年間、お前が必要だと思っていた」
声が平坦だった。感情を排除しようとしている。でも排除しきれていない。喉の奥が震えている。
「だがそれは嘘だった」
息を止めた。
「必要なのではない。お前がいないと、俺は……」
言葉が途切れた。
ディートリヒの手が開いて、閉じて、また開いた。言葉を探している。掴もうとして、指の間からこぼれている。
「……箱だ。空の」
ぽつりと出た。不格好な比喩だった。
「中身が全部……いや、違う。そうじゃない。お前が箱の中身なんじゃない。俺が勝手に、お前に全部を……」
また途切れた。言い直そうとして、余計にほどけている。
「茶の銘柄も、花の名前も、季節の食材も、書類の並べ方も。全部お前が覚えていた。俺の生活の中身は、全部お前の手の中にあった。それを……必要、と呼んでいた。有能だから必要だ、と」
声が掠れた。
「違った。あれは……何と呼ぶのか、俺にはまだわからない。でも、必要とは違う」
目を閉じた。まぶたが震えている。この人が目を閉じるのを見たのは、いつ以来だろう。いつも開いている。いつも見ている。いつも冷静に判断している。
それが今、言葉を探すために目を閉じている。
「十年。遅すぎた」
目を開けた。こちらを向いた。
初めて──本当に初めて、この人の目をまっすぐに見た。宰相の目ではない。合理主義者の目ではない。
何も纏っていない目だった。
「……遅すぎた。何もかも」
風が吹いた。ローズマリーが揺れた。秋の朝の風は冷たくて、頬に触れると少しだけ痛い。
私は庭を見ていた。
十年分の感情が、胸の中で渦を巻いている。怒りと、寂しさと、諦めと、そして……名前をつけたくない何かが。
この人を許す、という言葉は違う。
許すというのは、上から見下ろす行為だ。
戻る、という言葉も違う。
戻る場所はない。十年前の私たちには戻れない。
でも。
「ええ。遅すぎましたわ」
声が震えなかった。自分でも驚いた。
「……でも、間に合わないとは言っていませんわ」
ディートリヒの目が見開かれた。
「今の私たちには、十年前の関係に戻ることはできません。あの頃に戻りたいとも思いません」
「……ああ」
「でも、新しく始めることはできるかもしれません。宰相と補佐官ではなく。……名前で」
ディートリヒの唇が動いた。声にならなかった。二度目に動いた時、かすかに聞こえた。
「ヴィクトリア」
名前だ。十年間、業務の呼びかけとして使われてきた名前。でも今の響きは違った。もっと重くて、もっと不器用で、もっと温かかった。
「離縁届を取り下げます。私の意思で」
「……いいのか」
「いいかどうかは、これから決めます。取り下げることと、やり直すことは同じではありません。やり直せるかどうかは……あなた次第です」
厳しいことを言っている自覚はあった。でも甘い言葉で包む気にはなれなかった。十年間、甘い言葉の代わりに沈黙をもらい続けた人間は、甘さに懐疑的になる。
ディートリヒは頷いた。
「わかった」
短かった。でも「わかった」の重さが、昨日までとは違う。外交条約を承認する「わかった」ではなく、自分の足で立つことを引き受ける「わかった」だった。
石のベンチの上で、拳ひとつ分の隙間はそのままだった。
でも、ディートリヒの手が、隙間の真ん中あたりに置かれた。手のひらが上を向いている。
取るか取らないかは、私に委ねられている。
少し迷って……指先だけ触れた。
手のひらは冷たかった。一晩中、暖炉の前にもいなかったのだろう。
「……冷たいですわね」
「ああ。手袋を忘れた」
ボタンもかけ間違えるし、手袋も忘れる。三十八年間冷静だった男の、ほころびだらけの朝。
少しだけ、おかしかった。
昼前に、離宮のサロンに四人が集まった。
最後の集まりだ。
エルヴィラがワインを持ってきた。今度は上等なものだった。
「あたしの実家の蔵にあったやつ。とっておきよ」
「朝から飲むのですか」
「朝じゃないわ、昼前よ。……それに今日は特別でしょう」
グラスに注いだ。カロリーネ様にも注いだ。
「飲めないかもしれませんが」
「一口だけでいいのよ」
四人でグラスを合わせた。
「サレ妻同盟、本日をもって解散します」
私が言うと、エルヴィラが鼻を鳴らした。
「解散って。同窓会くらいやりなさいよ」
マリアンヌが微笑んだ。
「学院の改革委員会に就任することが決まりました。当面は、不正入学の再発防止と推薦制度の見直しを行います」
「マリアンヌらしいですわ」
「推薦状の署名権を夫人に限定する慣習も見直します。制度として明文化して、透明性を確保したい」
エルヴィラはワインを飲みながら言った。
「あたしは軍の式典部門を独立させるわ。元帥府の下じゃなくて、独立した機関として。……離婚届は昨日出した」
「早い」
「遅いくらいよ。三年も我慢したんだから」
カロリーネ様はグラスを両手で持っていた。一口だけ飲んで、テーブルに置いた。
「私は……」
言いかけて、少し照れた顔をした。
「昨夜、夜会の後にヘレーネ大使にお声をかけていただきました」
「何て?」
「『あなたの宮廷儀礼の知識、我が国で活かしませんか』と」
エルヴィラがグラスを置いた。
「外交官?」
「見習いからですが。……ライヒスタットに、行こうと思います」
マリアンヌが目を丸くした。エルヴィラが口笛を吹いた。
「いいじゃない。この国の宮廷で腐らせるには惜しい才能よ、あんたは」
カロリーネ様が笑った。庭仕事の時と同じ、飾らない笑い方だった。
「でも、薬草園が少し心配です。誰かに水やりを……」
「あたしがやるわよ」
エルヴィラが即答した。
「あたし植物は枯らすのが得意なのだけれど」
「それは心配ですね」
四人で笑った。
窓から秋の光が入っている。ローズマリーの銀色の葉が揺れている。この庭で、この五ヶ月間、私たちは怒って、泣いて、笑って、計画を立てて、パンを食べて、ワインを飲んで……自分の人生を取り戻した。
「ヴィクトリアは?」
エルヴィラが聞いた。
「宰相邸に戻ります」
「旦那と?」
「新しく始めます。戻るのではなく」
エルヴィラは黙って頷いた。何か言いたそうにして、やめた。代わりにワインを飲んだ。
夕方、宰相邸に行った。
荷物は木箱ふたつ。半年前と同じだ。中身も増えていない。ローズマリーの小さな鉢植えが一つ加わっただけ。カロリーネ様がくれたものだ。
正面玄関を入ると、廊下に花が活けてあった。
秋の花だ。不格好な活け方で、花の高さが揃っていない。葉が一枚、花瓶の外に垂れている。
侍女に聞いた。
「あの花は誰が」
「旦那様です。今朝、庭から切っていらしたようで」
ディートリヒが。花を。
この人が自分の手で何かをするのを、私は初めて見た。書類の決裁や交渉の戦略ではなく、生活の中の、小さな、不器用な行為。
執務室に入った。
机が二つ。窓が二つ。棚の上に茶器。白磁に青い花。私の分が戻っている。荷物と一緒に届いたのだろう。侍女が棚に戻したのか。
二客が揃っている。半年ぶりに。
「……不格好ですね」
花のことだ。廊下の。活け方が。高さも角度も間違っている。花を活けたことがない人間がやった仕事だとすぐにわかる。
でも、活けた。
窓を開けた。秋の風が入ってくる。宰相邸の庭は広い。薔薇がある。十年前に私が植えたもの。秋になって花は終わっているが、枝は生きている。来年の春には、また咲くだろう。
ローズマリーの鉢植えを、窓辺に置いた。
離宮の匂いが、少しだけ、この部屋に入ってきた。
……聞けばいいのだ。これからは。わからないことは、聞けばいい。
半年後。
私は宰相邸の洗濯室で、シーツを畳んでいた。
侍女の仕事としてはこれが一番好きだ。大きな布をまっすぐに畳む作業は頭が空になるし、洗いたてのシーツは日の匂いがする。
奥様──ヴィクトリア様が宰相邸に戻ってから半年。
屋敷は変わった。
まず、花が増えた。奥様が活けるのではない。旦那様が庭から切ってくる。活け方は下手だ。半年経ってもあまり上手にならない。でも奥様は直さない。「不格好なのがいいのよ」と言って、そのまま飾っている。
食事が変わった。奥様と旦那様が同じ食卓で食べるようになった。最初の一ヶ月は会話がほとんどなかったが、二ヶ月目あたりから旦那様が「今日の茶は何だ」と聞くようになった。前は聞かなかったそうだ。銘柄を覚えようとしているらしい。まだ覚えられていない。
執務室の机が二つとも使われている。前と同じように書類を分けているが、旦那様が自分で期限を書き込むようになった。字が大きすぎて書類の余白に収まっていないことがある。奥様はそれを見て、何も言わない。少しだけ口の端が上がっているのが、私にはわかる。
旦那様の引き出しには、まだ何か入っているらしい。先輩の侍女が言っていた。奥様宛の外交招待状が数通、出すでもなくしまわれたままだと。何のために取っておいているのか、私にはわからない。でも旦那様は、捨てない。
エルヴィラ様は元帥と離婚して、軍の式典部門を独立機関として運営している。先日、同盟国との合同演習の歓迎会を完璧にこなしたという噂を聞いた。元帥は……再婚していない。
マリアンヌ様は学院の改革委員会の長として、推薦制度の抜本的な見直しを進めている。先学期、ルイーゼという学生が学術表彰を受けたそうだ。自分の名前で、自分の研究で。
カロリーネ様はライヒスタットにいる。ヘレーネ大使の下で外交官見習いを始めた。先月届いた手紙には、「こちらの宮廷儀礼は我が国とはだいぶ違いますが、楽しいです。庭に薬草園を作る許可をもらいました」と書いてあった。
私はまだ宰相邸にいる。奥様の侍女として。
今日の午後、旦那様の執務室にお茶を運んだ。
扉を開けると、旦那様が奥様に何か話しかけているところだった。
書類の話ではない。窓の外を指さして、何かを言っている。庭の薔薇だろうか。冬が近いから剪定の時期だ、というような話かもしれない。
奥様が答えた。何を言ったかは聞こえなかった。
でも、旦那様が笑った。
宰相閣下が奥様に笑いかけるのを見るのは、私がこの屋敷に来てから初めてだった。
いいえ、正確には……笑い方を、今ようやく覚えたのだろう。
上手な笑い方ではなかった。口角の上げ方がぎこちなくて、目元の皺の寄り方が不慣れで、たぶん鏡で見たら本人が一番驚く顔だ。
でも、奥様は笑い返していた。
私はお茶を棚に置いて、音を立てないように退室した。
これが、私が見た「夜会革命」の全貌だ。
春の建国祭の夜から、秋の収穫祭の夜まで。五ヶ月間。
あの夜、奥様方は泣くのをやめて、働くのをやめた。
そうしたら、この国の社交界が少しだけ変わった。
妻たちの仕事が、ようやく妻たちの名前で呼ばれるようになった。
私はただの侍女だ。歴史書に名前が載ることはない。
でも、あの廊下で柱の陰に身を隠した夜のことは、忘れない。
息を殺して、心臓の音だけが聞こえた、あの東回廊の冷たさを、ずっと覚えている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




