第8話 遅すぎた気づき
執務室に花がない。
──いつから?
思い出せない。いつも、あの人が活けていた。
朝、机についた。書類の束が積まれている。秘書官が昨夜のうちに置いていったものだ。外交関連が上、内政関連が下、緊急案件は赤い紐で束ねてある。その分類は秘書官がやっている。
以前は違った。
あの人が分類していた。外交案件を上に置くのは同じだが、あの人は緊急度ではなく対応期限の順に並べていた。今日中に返答が必要なものが一番上、今週中が次、今月中が一番下。赤い紐ではなく、付箋に一言だけ書いてあった。「ライヒスタット、返答期限明後日」「南方伯、催促二度目」。
秘書官の分類は正確だが、あの付箋がない。
だから俺は毎朝、全部の書類を開いて自分で期限を確認しなければならない。十五分余計にかかる。十五分。たったそれだけだ。
たったそれだけのことが、三ヶ月半続くと、積もる。
茶を淹れさせた。出てきたものを一口飲んで、違うと思った。
「この茶葉は何だ」
「厨房にあったものです、閣下」
侍女が答えた。あの人の代わりに残っている侍女だ。名前は……すぐに出てこない。
あの人なら、俺が飲む茶の銘柄を知っていた。季節ごとに変えていた。春は薄い花茶、夏は渋みのある緑茶、秋は深みのある紅茶。冬は……何だったか。思い出せない。飲んでいたのに、名前を聞いたことがなかった。
聞く必要がなかった。聞かなくても、いつも正しいものが出てきたから。
棚を見た。
茶器がある。白磁に青い花の模様。揃いの片方。あの人の分がない。
あれを片づけようとしたことがある。リゼッテがいた頃に。片方だけ残っていても仕方がないと思って手に取って……棚に戻した。理由はわからない。片づけられなかった。
執務室が広い。
前からこの広さだったはずだ。間取りは変わっていない。家具の配置も同じ。あの人の机を撤去したわけでもない。机はまだある。書類がない、ペンがない、インク壺がない。木の表面が乾いている。
この執務室は二人で使うように設計されている。宰相と、宰相夫人と。窓が二つあるのもそのためだ。一つは俺の机に光が当たる角度で、もう一つはあの人の机に光が当たる角度で。
今、片方の窓からの光が、空の机を照らしている。
あの人がいない執務室は、こんなに広かったか。
離縁届の審査が進んでいる。
婚姻局から確認の書簡が来た。正当事由の確認。「感情的別居」の実態について、双方への聞き取りを行うと書いてあった。
六十日。
あと一ヶ月と少しで、審査期間が終わる。終われば……離縁は成立可能になる。
「成立可能」と「成立」は違う。ヴィクトリアが最終的に署名し、国王が承認すれば成立する。どちらかが止めれば、止まる。
止められるのか。
止めるなら、理由がいる。「外交が困るから」では、あの人の言った通り、補佐官が欲しいだけだ。「国が困るから」も同じだ。
あの日、俺は言った。「違う」と。
何が違うのか、まだ言えない。
王太子クラウスは、その日も失敗した。
隣国ライヒスタットとの宮廷式典で、歓迎の辞を自ら読み上げた。しかし、ライヒスタットの建国記念日を一ヶ月間違えた。
「本年も貴国の建国をお祝い申し上げ──」
隣国の使節団長が、静かに言った。
「殿下。我が国の建国記念日は先月でございます」
広間が凍った。
建国記念日を間違えることは、相手国の歴史を軽視していることになる。外交上、これは格の問題だ。
クラウスは顔を赤くした。隣に立つリーリエを見た。リーリエは何も言わなかった。言えるはずがない。この程度の知識があるなら、晩餐で白鹿を出すこともなかっただろう。
式典の後、使節団が公式に抗議文を提出した。
「謝罪を求めるものではございません。ただ、今後このような事態が繰り返されないよう、適切な人員の配置をお願いしたい」
適切な人員。
それが誰を指しているか、この場にいる全員がわかっていた。
クラウスは執務室に戻ると、椅子に腰を下ろして天井を見上げた。
「……カロリーネ。今日の式典は、どの順番で」
言いかけて、止まった。
カロリーネはいない。離宮にいる。式典の式次第を確認してくれる人間が、もういない。
隣の部屋で、リーリエが泣いていた。
「私のせいじゃないわ。誰も教えてくれなかったのよ」
誰も教えてくれなかった。
以前は、教えなくても誰かがやっていた。名前も呼ばれず、肩書も与えられず、ただ当然のようにそこにいた人間が。
元帥ヘルマンは、同盟国の将軍に鼻で笑われた。
合同演習の前日、歓迎会を開いた。段取りは副官に任せたが、副官は式典運営の経験がない。来賓の席順を間違え、同盟国の将軍を末席に案内した。
「ヘルマン殿。貴国の式典運営は、いつもこうなのか」
ヘルマンは黙った。怒鳴りたかったが、怒鳴る相手が見つからない。副官は命じられた通りにやった。エルヴィラの手順書がないことは副官の責任ではない。
夜、一人で酒を飲みながら思った。
エルヴィラがいた頃は、こういう失敗はなかった。式典の席順も、勲章の段取りも、歓迎会の料理も、全部彼女がやっていた。俺は戦場に立てばいいだけだった。
「あいつの仕事だったのか」
声に出して言ってみた。酒の味がまずくなった。
あいつ。自分の妻をそう呼ぶ癖がいつからついたのか、思い出せない。名前で呼んだのはいつが最後だったか。式典の席で「エルヴィラ」と呼んだ記憶は……ある。あるが、遠い。
認めたくない。戦場で百の戦術を組み立てられる自分が、式典の席順一つ決められないなど。
だが事実は事実だ。
離宮を訪ねたのは、夕刻だった。
理由は……自分でもよくわからない。離縁届の話をするためだと、自分に言い聞かせた。法的な確認事項がある、と。
嘘だ。確認事項などない。
離宮の門前に立った時、ヴィクトリアが出てきた。庭仕事の帰りらしいカロリーネ妃殿下と一緒だったが、俺を見てカロリーネ殿下は中に入った。
二人になった。
門と門柱の間に、夕日が差していた。ヴィクトリアの顔が半分だけ光に照らされている。痩せた、と思った。宰相邸にいた頃より頬の線が細い。
「何かご用ですか」
敬語だ。十年間ずっと敬語だったが、以前は敬語の中に業務上の馴れ合いがあった。今はそれもない。他人に向ける丁寧さだ。
「俺は」
また崩れた。執務室では「私」で通しているのに、この人の前だと「私」が出てこない。
「俺は、お前に……何もしてこなかった」
ヴィクトリアの表情が動かない。
「不貞はしなかった。暴力も振るわなかった。生活の面倒も見た。だがそれは……何もしなかっただけだ」
不貞をしないことは愛ではない。暴力を振るわないことは優しさではない。それは、ただ何もしないことだ。
ヴィクトリアにとって、俺は「何もしない人」だったのだ。十年間。
「何も。お前のためには、何もしなかった」
ヴィクトリアが目を伏せた。
門柱に蔦が巻いている。誰かが手入れしているのか、葉が整っている。こういう細部に気づくようになったのは、あの人がいなくなってからだ。いた頃は、整っているのが当たり前だと思っていた。
「……ええ。何も」
短かった。
短い返事の中に、十年分の重さがあった。
ヴィクトリアはそれだけ言って、門の中に戻った。背中を見た。まっすぐだ。揺れていない。宰相邸の廊下を歩いていた時と同じ背筋。でもあの頃よりも……歩幅が広いような気がした。
門が閉まった。
夕日が落ちていく。離宮の壁がオレンジ色に染まっている。この壁の色を、俺は今まで見たことがなかった。宰相邸から離宮まで来たことがなかったのだから。
十年間、妻の住む場所を訪ねたことがない。
いや、妻は宰相邸にいた。同じ屋敷にいた。でも俺はあの人の部屋を訪ねなかった。執務室で顔を合わせるだけで十分だと思っていた。仕事の話ができれば、それでいいと。
馬車に乗った。宰相邸に向かう道は暗くなり始めている。
「必要だ」と言った。
「有能だ」と言った。
だが──「いてほしい」と、一度も言ったことがなかった。
あの人がいてほしい。執務室に。食卓に。窓辺に。隣に。
それは……何だ。
補佐官への依存か。習慣への執着か。それとも。
わからない。
俺は三十八年間、感情を非効率だと切り捨てて生きてきた。父にそう教えられた。感情は判断を鈍らせる。合理的に考えろ。冷静でいろ。
冷静でいた。三十八年間、ずっと。
だが今、冷静であることが、ヴィクトリアを失う理由になっている。
馬車が宰相邸の門をくぐった。
正面玄関の灯りが見えた。あの人がいた頃は、灯りの数も時間帯も、全て指示が行き届いていた。今は侍女が引き継いでいる。
玄関を入った。廊下を歩いた。執務室の前で足が止まった。
扉を開けた。
暗い。灯りをつけた。
あの人の机が見えた。空の机。乾いた木の表面。
ペンを取った。紙を出した。
何かを書こうとした。手紙か。釈明か。謝罪か。
ペンが動かなかった。
何を書けばいい。
何を書けば、あの人に届く。
「必要だ」は言えた。「有能だ」も言えた。
「戻れ」も言った。「待ってくれ」も言った。
でもどれも……違う。
あの人が本当に聞きたかった言葉は、もっと簡単なはずだ。もっと短くて、もっと当たり前の何か。
俺はそれを知らない。三十八年間、使ったことがないから。
ペンを置いた。インクが先端で乾き始めている。
収穫祭の夜会まで、あと二週間。
その二週間で、俺は何を見つけられるだろう。
何も見つけられなければ……あの人は、本当にいなくなる。




