第5話 推薦状の消えた日
推薦状は、妻の署名がなければただの紙切れだ。
──マリアンヌは、署名をやめた。
正確に言うと、マリアンヌは何もしなかった。
推薦状の用紙は学院が用意する。貴族家の当主が推薦文を書き、夫人がそれを確認して署名する。それが慣習だった。法律で定められた手続きではない。ただの慣習。でもこの国の学院入学は、百年以上その慣習で動いてきた。
マリアンヌが署名をやめたのは、建国祭から二ヶ月目の朝のことだった。
離宮のサロンで、マリアンヌ本人から聞いた話はこうだ。
「朝、主人が推薦状を持ってきました。いつも通り、署名しろと」
マリアンヌの声は穏やかだった。いつも穏やかな人だが、この日は特に静かだった。
「『わたくしは推薦状への署名を辞退いたします』と申しましたら、主人は最初、冗談だと思ったようです」
「怒った?」
エルヴィラが聞いた。
「ええ。『お前の仕事だろう』と」
「で、なんて返したの」
「『ええ、わたくしの仕事です。ですからわたくしの判断で、やめます』と」
エルヴィラが低く笑った。カロリーネ様は黙って茶を飲んでいた。
「主人は二十年間、推薦状の中身を一度も読んだことがないのです。誰を推薦しているか、何の学科か、成績要件を満たしているか。全部わたくしが確認していました」
マリアンヌの手元に、湯気の立つ茶がある。離宮の安い茶葉だが、マリアンヌはいつも最後まで飲み干す。
「署名をやめれば、推薦状は出せなくなります。新規の入学が止まります。そうなれば学院は原因を調べるでしょう。調べれば……」
「過去の推薦状も検証される」
私が言うと、マリアンヌは頷いた。
「ゾフィーの入学書類は、わたくしが署名したものではありません。主人が直接手配した推薦状です。推薦元の家名を、わたくしは知りませんでした」
知らない家名で推薦状が通っている。それが何を意味するか、この場にいる全員がわかっていた。
その日の午後、リゼッテが私の部屋に来た。
普段の報告ではない。扉を閉めて、声を低くした。
「奥様。お話ししなければならないことがあります」
「座って」
リゼッテは椅子に座らず、立ったまま懐から布の包みを取り出した。
手巾に包まれた何かを、机の上に置く。布を開くと、細かい粉末が鈍く光っていた。
「これは」
「聖女リーリエ様の浄化の儀で使われていた粉です。三週間前、宮廷の東回廊で目撃しました」
リゼッテは話し始めた。
浄化の儀を行うリーリエの手から光る粉がこぼれていたこと。実際の浄化は横に立つ神官が行っていたこと。リーリエは粉を振りまいているだけだったこと。
「回廊の床に残っていた粉を、リーリエ様たちが去った後に回収しました」
リゼッテの声は落ち着いていた。でも、手巾を机に置いた時に指先が震えていた。三週間、一人で抱えていたのだ。
「なぜ今まで黙っていたの」
責めるつもりはなかった。ただ聞いた。
「誰に言えばいいのか、わからなかったのです。でも奥様が離宮にいらして、奥様がフリーデ閣下にお会いになったと聞いて……今なら、と」
私は粉末に触れた。指先にざらつきがある。きらきら光る細かい結晶。
蛍光鉱石の粉末だろう。宝飾店や市場の露店で装飾用に売られているものだ。聖女の浄化能力とは何の関係もない。
「リゼッテ。よく見ていたわね」
「……怖かったです」
「そうでしょうね」
私は手巾を丁寧に包み直した。
「この粉は、預かります。フリーデ閣下にお渡しする」
ここで、迷った。
隣国大使ヘレーネ殿からも手紙が来ている。今朝届いたもので、封蝋は黒い。ライヒスタットの慣習で黒い封蝋は「公的な懸念の表明」だ。急を要する。
フリーデのところに先に行くべきか、ヘレーネ殿への返事を先に書くべきか。
両方大事だ。でも両方を同時にはできない。
粉末の鑑定は早い方がいい。時間が経てば劣化する可能性もある。だがヘレーネ殿の手紙を放置すれば、外交的な温度が冷める。
……先にフリーデだ。物証は待てない。ヘレーネ殿は、一日遅れても怒る人ではない。
判断に少し自信がないまま、私は粉末を持ってフリーデの屋敷に向かった。
フリーデは粉末を見て、手巾を開いて匂いを嗅ぎ、指で少量を取って光に透かした。
「蛍光鉱石。市場で買える」
「はい」
「聖女認定の要件に、自力での浄化能力が含まれている。この粉が聖女の浄化に使われていたとすれば、称号詐称に該当する」
フリーデは手巾を閉じた。
「だが、これだけでは弱い」
「何が足りませんか」
「侍女の証言だけでは、中立性を疑われる。あなたの侍女でしょう、その娘は。リーリエ側が『宰相夫人に忠誠を誓う侍女の証言は信用できない』と主張すれば、それだけで揺らぐ」
その通りだった。フリーデは甘い判断をしない。
「物証の鑑定は可能です。この粉末が市販品であることは証明できる。でもそれに加えて、利害関係のない独立した証人がもう一人欲しい。理想を言えば、浄化を実際に行っていた神官本人の証言があれば」
「神官を証言者にできますか」
「共犯者の自主的な証言には、減刑が適用される。通常刑の半分以下。それを交渉材料にすることは制度上可能よ」
フリーデはペンを取り、何かを書き始めた。
「私が直接、神官に会いましょう。供述書は裁定者が取る方が法的に強い。……ただし」
ペンが止まった。
「神官が証言するかどうかは、わからない。脅されている可能性もある。追い詰めすぎれば逃げるし、逃げれば証拠が消える。慎重にやるわよ」
「お任せします」
「任されたわ。……お茶は?」
「いただきます」
また砂糖のない苦い茶だった。今日はレモンの皮が入っていて、苦みの中にかすかな酸味がある。
「新しい茶葉?」
「もらい物よ。南方の裁判官から」
フリーデは答えながら書き物を続けていた。世間話のつもりはないらしい。この人の時間は、いつも半分が仕事に使われている。残りの半分も仕事だ。
でもレモンの皮を入れるくらいの余裕はある。そこが少し、好ましいと思った。
離宮に戻って、ようやくヘレーネ殿の手紙を読んだ。
封蝋を剥がす。黒い蝋が砕ける感触が硬い。
手紙は短かった。
『あなたの不在を、我が国は憂慮している。個人的にお会いしたい。──ヘレーネ』
公的な懸念。
個人的に会いたい。
この二つの言葉が同じ手紙に入っているということは、ヘレーネ殿が個人と国の両方の立場で動こうとしているということだ。
想定より早い。
フリーデを先にしたのは正しかったと思う。たぶん。
手紙を前回のものと並べた。一通目は白い封蝋、二通目は黒い封蝋。色が変わっている。ヘレーネ殿の温度が上がっている。
推薦状停止の余波も届いた。リゼッテ経由の情報だ。
貴族家からの問い合わせが殺到し、学院評議会が原因調査を開始。調査は新規の推薦状だけでなく過去分にも及び、ゾフィーの推薦元「クラインフェルト子爵家」が架空と判明した。
さらに同級生ルイーゼが論文盗用を告発。ゾフィーが脅迫に出たが、ルイーゼの友人三人が追加で証言に立った。
「ルイーゼさんのお友達が三人、追加で証言に立ったそうです」
リゼッテは報告しながら、少し頬を赤くしていた。怒りではなく、誇らしさに近い色だった。
脅しても崩れなかった。むしろ増えた。
それは……少しだけ、胸が温かくなる話だった。私たちサレ妻のことではない。学院の、名もない学生たちが、自分の言葉で立ち上がった。この国がまだ腐りきっていないという、小さな証拠のようで。
「もう一つ、宰相邸のことで」
リゼッテが続けた。
「旦那様の机に、奥様宛の外交招待状が溜まっているそうです。五通。転送も返送もされず、そのまま引き出しに」
「忘れているだけでしょう」
「……はい」
忘れているだけだ。あの人は、自分の業務以外のことには無頓着だ。
「ありがとう、リゼッテ。もういいわ」
リゼッテが下がった。
夕暮れの風にローズマリーが揺れている。
ヘレーネ殿への返事を書かなければ。隣国大使が動いている。学院が動いている。フリーデが動いている。
ペンを取った。書き出しの一文字目が太くなった。インクが少し濃すぎた。
書き直そうかと思ったが、そのまま続けた。完璧でなくていい。ヘレーネ殿は形式より中身を見る人だ。
『ヘレーネ殿。ご懸念を頂戴し、恐縮に存じます──』
返事を書きながら、頭の中で秋までの日程を数えた。収穫祭の夜会まで、あと三ヶ月。




