第6話 大使の通達
同盟更新交渉の窓口は、ヴィクトリア・フォン・ヴァイスブルク個人とする。代理は認めない。
ライヒスタット特命全権大使
侯爵ヘレーネ・フォン・ライヒスタット
リゼッテがその写しを持ってきたのは、朝食の途中だった。
離宮のパンは少し固い。宮廷の厨房から届くものではなく、近くの村のパン屋から買っているからだ。バターを多めに塗らないと食べにくいが、そのバターも少し塩気が強い。慣れた。
「奥様、宰相府から写しが回ってきました。今朝、正式に届いた通達だそうです」
リゼッテの声がいつもより硬い。紙を受け取って読んだ。
二度、読んだ。
ヘレーネ殿が動いた。しかも個人の手紙ではなく、公式な外交通達として。同盟更新交渉──つまりこの国とライヒスタットの同盟関係そのものの窓口を、私個人に限定した。
これは外交上、極めて重い一手だった。
同盟更新の期限は秋だ。収穫祭の前後に交渉が行われる慣例になっている。その交渉窓口を「代理は認めない」と指定するということは、私がいなければ同盟交渉が進まないということだ。
ヘレーネ殿の判断だろう。ライヒスタット本国の指示かもしれないが、通達の文面はヘレーネ殿の署名だ。あの人が個人の権限で出せる範囲の、しかし最大限に重い一手。
パンを置いた。食欲がなくなったわけではないが、考えることが増えた。
「リゼッテ。宰相府の反応は」
「大変な騒ぎだそうです。宰相閣下が緊急の会議を召集されたと」
そうだろう。同盟交渉の窓口を指定されて、その窓口が宰相府にいないのだから。
「もう一つ、ございます」
リゼッテが少しためらってから続けた。
「ヘレーネ大使のお付きの方から、個人的な伝言がありました。先日、大使がディートリヒ閣下にお会いになった際……」
「何て?」
「大使が『奥方を戻されてはいかがか』と進言されたそうです。そうしましたら閣下が、『妻は優秀だ』と仰ろうとされて……途中で、『……あの人は』と、言い淀まれたとか」
妻は優秀だ、と言おうとして。
あの人は、と言い直した。
「──そう」
それだけ返して、私はパンの続きを食べた。バターが少し溶けすぎている。
言い淀んだ理由はいくつか考えられる。政治的に「妻」という言葉を使いたくなかったのかもしれない。離縁の話が出ている以上、公の場で妻と呼ぶのは微妙だ。あるいは単に、ヘレーネ殿の前で言葉を選んだだけかもしれない。
それ以上は考えない。
午後、来客があった。
来客という言い方は正しくない。呼びつけられた、という方が近い。
王太子クラウス殿下が離宮に来た。護衛を二人連れて、前触れもなく。
カロリーネ様は庭にいた。薬草園の手入れをしている最中で、エプロンに土がついていた。王太子はそれを一瞥して、顔をしかめた。
「カロリーネ。その格好は何だ」
「庭仕事です、殿下」
カロリーネ様の声は平坦だった。以前なら慌てて着替えに走ったかもしれない。今は動かなかった。
王太子は私に向き直った。
「ヴィクトリア・フォン・ヴァイスブルク。ライヒスタットの通達を見たな」
「拝見いたしました」
「あれはお前が裏で手を回したのか」
「いいえ。ヘレーネ大使の判断です」
嘘ではない。ヘレーネ殿に働きかけたことはない。彼女が自分の意思で通達を出した。十年間の外交実務で築いた信頼が、私がいなくなったことで表に出ただけだ。
王太子の顔が赤くなった。
「国の命令だ。外交に戻れ」
私は姿勢を正した。離宮の応接室は狭い。王太子の護衛が扉の両脇に立っていて、圧迫感がある。でも、圧迫感と権限は別の話だ。
「殿下。私はすでに宰相府の職務を辞しております。殿下のご命令を受ける立場にはございません」
「辞した? 誰が許可した」
「宰相夫人の対外実務は法的な職位ではなく、慣習上の役割です。辞するのに許可は不要です」
王太子の口が開きかけて、閉じた。
法的な話になると、この人は弱い。宮廷儀礼も外交も法務も、全てカロリーネ様や私や他の夫人たちがやってきたことだ。王太子本人が法の細部を把握しているとは思えない。
「──ならば」
王太子は一歩前に出た。
「お前の離縁を認めない。宰相夫人のままでいろ。宰相夫人である以上、国のために働く義務がある」
少しだけ、言葉に詰まった。
義務。この人は「義務」と言った。十年間、義務として私が果たしてきたことを、今になって義務と呼ぶ。その義務に一度も対価を払わなかったくせに。
怒りが喉まで上がってきて、一拍遅れて、形になった。
「離縁の承認は国王陛下の権限です。殿下の権限ではございません。……そして、離縁が認められなかったとしても、慣習上の実務を行うかどうかは私の判断です。宰相夫人の肩書があっても、椅子に座っているだけの夫人は珍しくありません」
言いすぎたかもしれない。
でも撤回はしない。
王太子の目が細くなった。怒っているが、反論が出てこない。
「……覚えていろ」
王太子はそれだけ言って、踵を返した。護衛が続く。廊下の足音が乱れている。怒りで歩調が崩れているのだろう。
扉が閉まった。
カロリーネ様が、庭に通じる窓のそばに立っていた。エプロンの土はそのままだ。
「お見事でした」
「いいえ。事実を述べただけです」
「事実を述べるだけで、あの方を黙らせることができるのですね」
カロリーネ様は少しだけ笑った。五年間、あの人の隣で儀礼をこなしてきた人の笑い方ではなく、庭師の笑い方だった。
夕刻、サロンに四人が揃った。
エルヴィラがワインを持ってこなかったのは珍しい。代わりに水差しを持ってきた。
「今日は酔いたくない。頭を使うから」
王太子の「離縁を認めない」宣言への対策を話し合った。
「離縁を認めないと言っても、最終的には国王陛下の判断です。王太子殿下に拒否権はありません」
「でも父王に圧力をかけるでしょう」
マリアンヌが言った。
「かけるでしょうね。でも圧力の根拠が弱い。私が外交に戻らなければ同盟交渉ができないという理由で離縁を止めるなら、それは私の価値を公式に認めることになる」
「あら」エルヴィラが水を飲みながら目を丸くした。「そういう理屈になるのね」
「どう転んでも、あちらが不利です。離縁を認めれば私は自由になるし、認めなければ私の実務が国に不可欠だと認めたことになる」
エルヴィラが口笛を吹きそうな顔をした。
「あたしは難しいことはわからないけど、あんたが怒ると強いってことはわかるわ」
怒っている。
確かに、怒っているのかもしれない。
でもそれは王太子にではなく、十年間自分を誤魔化してきた自分自身にだ。その怒りが、今は役に立っている。
「ところで」
カロリーネ様が、水差しから自分のグラスに水を注ぎながら言った。手つきは丁寧だったが、少しだけ水がこぼれた。テーブルに小さな水溜まりができた。
「私の話をしてもいいですか」
全員が黙った。
「王太子妃の辞任は、王室への申請で成立します。国王陛下の受理が必要ですが、手続き上は私の意思で申請できます」
「カロリーネ様」
「辞任申請書を書こうと思います。今日から。王室に事前に提出しておいて……収穫祭の夜会で、宣言します」
エルヴィラがグラスを置いた。マリアンヌの手が膝の上で握られた。
「それは……大きな決断です」
マリアンヌが言った。
「ええ。五年分の決断です」
カロリーネ様はテーブルにこぼれた水を、指で拭った。
「建国祭の夜からずっと考えていました。でも、言う相手がいなかっただけです」
この一ヶ月で、カロリーネ様は変わった。泣いた夜からまだ二ヶ月も経っていないのに、今の目には決意がある。薬草園の土に触れ、自分の手で何かを育てる生活が、この人を変えたのかもしれない。
「辞任は、ご自身のためですか」
私は聞いた。夜会の演出のためではなく、本心から辞めたいのかを確認したかった。
「はい。……私、王太子妃よりも、こちらの方が好きなのです。土を触って、自分の手で何かを育てる暮らしが」
カロリーネ様は自分の手を見た。爪の間に、まだ土が残っている。
「宮廷では、自分の手は飾りでした。でもここでは、手が必要なのです」
エルヴィラが鼻の頭を指でこすった。泣きそうな時にこの人がやる癖だ。
「……いい理由ね。あたし好きよ、その理由」
夜。部屋で一人になった。
机に紙を広げて、収穫祭までの日程を改めて整理した。
学院の不正調査は進んでいる。ゾフィーの架空推薦元は発覚した。ルイーゼたちの証言も揃い始めている。
フリーデ閣下が神官への接触を進めてくれている。供述書が取れれば、聖女の件は大きく前進する。
隣国大使の通達は、想定より早かった。でも悪い方向ではない。外圧は国内の動きを加速させる。
カロリーネ様の辞任申請書。これは──予想していなかった。でも、あの人の決断を止める理由は私にはない。
秋までに、すべてを揃える。
証拠を。証人を。手続きを。
窓の外は暗い。春の終わりの夜風は少し湿っている。ローズマリーの匂いは薄くなって、代わりに夜の土の匂いがする。カロリーネ様が夕方に水を撒いたのだろう。
ペンを取った。ヘレーネ殿への返事の続きを書かなければならない。
書きながら、ふと思った。
五通の招待状。
あの人の引き出しの中で、まだ眠っているのだろうか。
……考えるな。
ペンを走らせた。インクの滑りが良い。今日は湿度が高いせいだ。それだけのことだ。




