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サレ妻同盟の夜会革命  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 離宮のサロン

十年分の荷物が、木箱ふたつに収まった。


思ったより軽い──いいえ、最初からこの程度の重さだったのだ。



引っ越しは半日で終わった。


木箱の中身は、実家から持ってきた数冊の本と、着替えと、繕い道具と、あの揃いの茶器の片方。他に持っていくものがなかった。


宰相邸の調度品は宰相家のものだ。食器もカーテンも寝台のシーツも。壁に飾った花の水彩画は、私が描いたものだが、額縁は夫の家のもの。額ごと持っていくのは違う気がした。


リゼッテが木箱を一つ抱えて、馬車に乗り込んだ。


「奥様、もう一箱は私が」


「いいのよ、持てるから」


実際、片手で持てた。十年間の結婚生活が片手で持てるという事実に、不思議と感傷はなかった。感傷の代わりにあったのは、妙な軽さだった。身体の、ではなく、心の。何かの義務から降りた時に感じる、あの浮遊感に似ている。


仕事のやりがいで自分を誤魔化してきた十年だった。

外交の書簡を書く時、各国大使と交渉する時、完璧な晩餐を差配した時──私は確かに充実していた。でもその充実は、夫に愛されていない現実から目を逸らすための装置だったのだと、今になってわかる。


そしてその仕事すら、「私のもの」ではなかった。宰相の名前で呼ばれ、宰相夫人の肩書で語られ、宰相府の成果として記録される仕事。私がいなくなっても、宰相府の引き継ぎ書に名前が一行残るかどうか。


馬車が宰相邸の門を出た時、振り返らなかった。


振り返ったら、庭の薔薇が見える。あれは、たぶん少しだけ未練だ。



カロリーネ様の離宮は、宮廷の北の外れにあった。


石造りの小さな館で、窓が大きい。宮廷の豪奢な装飾はないが、日差しがよく入る。庭には手入れの行き届いた薬草園があって、カロリーネ様が自分で世話をしているのだと聞いた。


部屋は二階の東向きの一室を割り当てられた。簡素な寝台と、書き物机と、衣装箪笥が一つ。宰相邸の私の部屋より狭い。でも窓から薬草園が見える。ローズマリーの匂いが風に混じってくる。


悪くない。


リゼッテが荷解きを手伝いながら、ぽつりと言った。


「奥様。宰相邸から持ってこなかったもの、取りに戻りましょうか」


「持ってこなかったものはないわ」


「封蝋のスタンプは」


私は少し驚いた。リゼッテはあれに気づいていたのか。


「あれは宰相家のものよ」


「でも奥様がずっとお使いに……」


「私のものではないの、リゼッテ」


リゼッテは何か言いたそうにしていたが、黙って茶器を棚に並べた。揃いの片方だけの茶器は、棚の上で少し寂しげに見えた。



午後、エルヴィラとマリアンヌが離宮に来た。


エルヴィラは大きな体を椅子に沈めて、まず茶を一口飲んだ。


「あら。宮廷の茶より素朴ね」


「離宮の厨房にあったものです。銘柄がわからなくて」


「いいのよ、あたしは茶の味なんかわからないから。温かければ何でもいい」


マリアンヌは窓際の椅子に座って、薬草園を眺めていた。


「いい庭ですわね。ローズマリーの育ちが見事です」


「カロリーネ様が育てているのだそうです」


カロリーネ様本人は少し遅れて来た。庭仕事をしていたらしく、爪の間に土が残っている。


「すみません、手を洗ってきます」


「いいわよ、座りなさい。泥がついてたって死にはしない」


エルヴィラに促されて、カロリーネ様は少し照れたように席についた。


四人が揃った。


建国祭の夜から一ヶ月。あの控室で結んだ約束を、今日正式に形にする。



「まず、確認しましょう」


私は手元の紙を広げた。引っ越しの合間に書いたもので、インクの乾きが不揃いだ。


「私たちが担っている実務を、全部書き出しました」


エルヴィラが身を乗り出した。


「外交は、ヴィクトリア。各国大使との連絡窓口、晩餐の差配、外交書簡の起草と翻訳、贈答品の選定、条約交渉の下準備」


「軍は、あたし。記念式典の運営、同盟国との軍事連絡の取り次ぎ、勲章授与式の段取り、軍の福利厚生行事」


「学院は、わたくし」マリアンヌが続けた。「入学推薦状の発行と署名、貴族家への学院説明会の開催、学術表彰の選考、学院と社交界の橋渡し」


カロリーネ様が最後に言った。


「宮廷儀礼は……全部です」


少しだけ笑った。


「全部、としか言いようがないのです。夜会の進行、王室行事、外国要人の謁見、日常儀礼の管理。細かく分けたら終わりません」


書き出してみると、膨大だった。


「……これ、全部妻が?」


エルヴィラが自分で言って、少し呆れたような顔をした。


「全部よ。法的な職位はない。慣習として妻がやることになっていて、誰もそれを『仕事』とは呼ばない。だから給金もない、肩書もない、記録にも残らない」


「でも止めたら」


マリアンヌが静かに言った。


「止めたら、全部止まりますわね」


沈黙が落ちた。窓の外でローズマリーが風に揺れている。


「方針を決めましょう」


私は言った。


「私たちは、断罪しません。復讐もしません。ただ、自分の仕事を自分の元に引き上げるだけ。辞めるだけです」


「辞めるだけ、ね」


エルヴィラがワインではなく茶を飲みながら繰り返した。


「辞めるだけなのに、この国の上半分が止まる。なんだか笑えるわね」


笑えるし、少し怖い。


自分たちがどれだけのものを背負っていたか、こうして並べるまで、私たち自身も正確にはわかっていなかった。それは誇らしいというよりも、ただ疲れる事実だった。


「ただし」


カロリーネ様が、土のついた指を組んで言った。


「やるなら、きちんとやりたいのです。証拠もなく騒ぐだけでは、私たちが悪者にされてしまう」


「そうですね」


私は頷いた。建国祭の夜から、一つ考えていたことがあった。


「証拠が揃えば、公正に裁ける人物が必要です。……一人、心当たりがあります」



大法官フリーデの屋敷は、王城の東門の近くにあった。


質素な石造りの邸宅で、門扉に飾りがない。フリーデらしいと思う。この人は飾りを嫌う。


「ヴィクトリア。久しいわね」


応接室に通されると、フリーデは書き物をしていた手を止めずに言った。五十五歳。白髪交じりの髪をきっちりとまとめ、眼鏡の奥の目は鋭い。


「三ヶ月ぶりですわ、フリーデ閣下」


「閣下はやめなさいと言っているでしょう。……で、今日は何かしら。外交案件の法的助言?」


「いいえ。今日は、個人的なお願いです」


フリーデの手が止まった。眼鏡の上から、私を見た。


三年前、隣国との通商条約の法的解釈で行き詰まった時、この人に助言を求めた。それ以来、年に数回、外交と法が交わる問題について相談してきた。フリーデは毎回、厳密で容赦のない意見をくれた。私の解釈が甘いと、遠慮なく指摘した。


だから信頼している。この人は権力に忖度しない。同時に、感情にも忖度しない。


私は、聖女の浄化に疑義があること、学院の入学審査に不正の可能性があること、そして宮廷女官が元帥夫人の業務を盗用している疑いがあることを、持っている情報の範囲で伝えた。


フリーデは最後まで聞いて、ペンを置いた。


「証拠は」


「まだ、揃っていません」


「それは困るわね」


「ですから、これから集めます」


フリーデは椅子の背にもたれた。この人が背もたれを使うのは珍しい。普段は背筋を伸ばして座っている。


「ヴィクトリア。私はあなたの味方にはならないわよ」


「存じています」


「証拠が揃えば、裁きましょう。ただし証拠は完璧に。聖女の件、学院の件、女官の件、全てにおいて。物証と、利害関係のない証人と、関係者の弁明の機会。どれが欠けても私は動かない」


「わかっています」


「わかっているなら、結構。……お茶でも飲んでいく?」


話はそれで終わった。


フリーデの茶は濃くて苦かった。砂糖を入れずに飲む人で、客にも砂糖を出さない。昔からそうだ。


でも今日は、その苦さが少しだけ頼もしかった。


甘い言葉をくれる味方より、苦い茶を出す裁定者の方が信頼できる。



離宮に戻ると、日が傾いていた。


カロリーネ様が庭にいた。薬草園の端に座って、ローズマリーの枝を剪定している。鋏の音が、夕暮れの空気に小さく響く。


「おかえりなさい。……どうでした?」


「証拠が揃えば動いてくださいます。揃わなければ動かない、とも言われました」


「フリーデ閣下らしいですね」


カロリーネ様は鋏を置いた。土のついた手で、膝の上のエプロンを払った。


「ヴィクトリア」


「はい」


「私も、辞めます。王太子妃を」


風が吹いた。ローズマリーの香りが強くなった。


「収穫祭の夜会で出します。辞任申請書を、事前に王室に提出しておいて……夜会の場で、宣言します」


「……決めていたのですか」


「建国祭の夜からずっと。ただ、言う相手がいなかっただけです」


カロリーネ様は立ち上がった。エプロンの土を払い、鋏を腰の紐に挟んだ。その動作は五年間宮廷儀礼をこなしてきた人のものではなく、庭仕事をする人のものだった。


「私、王太子妃よりこっちの方が向いているかもしれません」


笑った。今度は目まで笑っていた。



夕食後、リゼッテが報告に来た。


「奥様。宰相邸のことですが」


「何かあった?」


「旦那様が、お食事を残されるようになりました。特に夕食を」


「胃でも壊したのでしょう」


「いえ、厨房の者に聞きましたら、献立がお変わりになったそうで。奥様がいらした頃は、奥様が季節の食材を厨房にお伝えになっていたので……」


「リゼッテ」


「はい」


「それは、もう私の仕事ではないわ」


リゼッテは少し困った顔をしたが、頷いて下がった。


部屋に一人になって、棚の茶器を見た。揃いの片方。青い花の模様。


食事を残している。

季節の食材を伝える人がいなくなったから。


それは──仕事の話だ。私が季節のものを見繕っていたのは、妻としてではなく、屋敷の管理者としてだった。


そうだ。そういうことだ。


窓を閉めた。ローズマリーの匂いが薄くなる。


代わりに、紙とインクを出した。明日からの計画を書かなければならない。学院の推薦状を止めること。隣国大使ヘレーネ殿への返事。証拠の収集。


ペンを取った。書き出しに迷って、まず日付だけ書いた。


──明日の朝は、マリアンヌと学院のことを詰めよう。


そう考えながら、インクの乾かない紙を前に、私は椅子の背にもたれた。フリーデの癖がうつったのかもしれない。

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