第3話 侍女の見たもの
宰相邸に来て三ヶ月。
私は、この屋敷の奥様がなぜ笑わないのか、ようやくわかった気がした。
私の名前はリゼッテ。宰相邸の侍女になったのは冬の終わりで、まだ屋敷の廊下を間違えることがある。東棟と西棟の角を曲がる方向を逆にして、先輩の侍女に「また迷子?」と笑われたのは三日前のことだ。
奥様──ヴィクトリア様は、怖い人ではなかった。
朝は私より早く起きて、執務室で書き物をしている。外交の書簡を読み、返事を書き、配席表を作り、各国大使への贈答品のリストを確認する。その合間に私が持っていく茶を一口だけ飲んで、「ありがとう、リゼッテ」と言う。名前を間違えたことは一度もない。
この屋敷には侍女が四人いるが、奥様は全員の名前と、出身と、得意なことを覚えている。私が繕い物が得意だと知ると、外交用の刺繍入りナプキンの補修を任せてくれた。針仕事なら自信がある。それだけが私の取り柄だ。
でも奥様は笑わない。
正確に言うと、笑うことはある。大使への挨拶や、厨房の料理長との打ち合わせで見せる微笑み。でもあれは仕事の顔だ。口元は動くが、目が動かない。
旦那様──宰相ディートリヒ閣下は、もっとわからない人だった。
朝と夜に執務室ですれ違うことがあるが、奥様との会話はいつも短い。外交案件の確認、来客の予定、書類の受け渡し。夫婦というより、同じ役所に勤める官吏のようだった。
食事も別。寝室も別。茶も別。
ただ一つ、執務室の棚に揃いの茶器があった。白磁に青い花の模様が入った、上品だけれど華美ではない茶器。二客で一組。
奥様はその片方で茶を飲み、もう片方は……使われているのを見たことがなかった。
建国祭から三週間が経った日、私は宮廷に届け物に行った。
宰相邸から宮廷までは馬車で四半刻ほどだ。届け物は書類の束で、宰相府の書記官に渡すだけの簡単な仕事だった。
宮廷に着いたのは昼過ぎで、ちょうど軍の記念式典が行われている時間帯だった。
大広間の近くを通りかかった時、怒鳴り声が聞こえた。
「式次第はどこだ!」
元帥ヘルマン閣下の声だと、すぐにわかった。軍人の声は廊下まで響く。
大広間の扉は半分開いていて、中の様子が少しだけ見えた。
壇上に、若い女官が立っていた。名前は確かアンナ。元帥閣下の近くにいつもいる人だ。彼女が紙を何枚か抱えて、顔を真っ赤にしていた。
「エルヴィラ様の手順書はどこですか!」
アンナが叫んだ。
「エルヴィラ様が毎年お作りになる式次第の手順書です! あれがないと……」
「あいつは来ていない」
元帥閣下が低い声で言った。妻の名前を呼ばなかった。「エルヴィラ」でも「妻」でもなく、「あいつ」と。
「来ていないなら、お前がやれ。それが仕事だ」
アンナは紙をめくっていた。何かを探しているが、見つからないようだった。来賓の名前を読み上げ始めたが、序列を間違えた。侯爵を伯爵の後に呼び、公爵家の代理人を呼び忘れた。
会場がざわついた。
私は通りすがりの侍女にすぎないから、口を挟む立場ではない。でも、元帥夫人エルヴィラ様の式典がいつも完璧だったことは知っていた。去年の建国祭で、宮廷の臨時給仕として手伝いに入った時、式次第の紙一枚で百人以上の来賓が滞りなく案内されていくのを見た。あれを作っていたのがエルヴィラ様だと、後から聞いた。
アンナはまだ紙をめくっている。
手順書はない。エルヴィラ様の頭の中にしかなかったものを、紙の上に探している。
見ていられなくなって、私は大広間を離れた。
書類を届けた帰り道、私は宮廷の東回廊を通った。
西回廊の方が近いが、あちらは修繕中で足場が組まれていて通りにくい。東回廊は遠回りだが人が少ない。
少ない、はずだった。
角を曲がったところで、光が見えた。
回廊の中ほどに、聖女リーリエが立っていた。白い法衣を着て、両手を前に差し出している。その手のひらから、淡い光が広がっていた。
浄化の儀。
聖女が行う神聖な儀式だと聞いている。王太子殿下がリーリエ様を正妃に迎えると宣言した理由の一つが、この浄化の力だ。
私は足を止めた。邪魔をしてはいけない。柱の陰に身を寄せて、通り過ぎるのを待つことにした。
リーリエ様の横に、神官が一人立っていた。年若い、気弱そうな顔をした男だ。名前は知らない。
光が広がっていく。回廊の空気が澄んでいくような感覚がある。
……いや。
おかしい。
光は確かにリーリエ様の手のひらから出ている。でも、よく見ると、それは光ではなかった。粉だ。きらきら光る細かい粉が、指の間からこぼれている。
そして、浄化そのもの──空気が変わる、あの独特の清浄な感覚──は、リーリエ様の手からではなく、横に立つ神官の方から発せられていた。
神官は口を動かしていない。無詠唱。でも、彼の周囲の空気だけがわずかに揺れている。私は魔法の才能がないから術式の詳細はわからない。でも、幼い頃に教会で浄化を受けた時の感覚を覚えている。あの清らかさは、リーリエ様の手からではなく、神官の立っている場所から来ていた。
粉が光っているだけだ。
リーリエ様は、光る粉を振りまいているだけだ。
心臓がうるさい。柱に背中を押しつけて、息を殺した。見つかってはいけない。理由はうまく説明できないが、これを見てしまったことが、とても危険なことだという確信があった。
リーリエ様が手を下ろした。
「うまくいったわ。ねえ、オスカー、もう少し光を強くできない? この前より地味だったと言われたの」
神官──オスカーと呼ばれた男は、小さく頷いた。
「……努力します」
「お願いね。私がいないと、あなたも困るでしょう?」
リーリエ様は微笑んでいた。建国祭の夜会で見た、あの清楚な微笑みと同じ形。でも声の温度が全然違う。
二人が去った。
足音が遠ざかるのを待って、私は柱の陰から出た。
回廊の床に、光る粉が散っていた。踏まれて薄くなっているが、まだ残っている。細かい、きらきらした粉末。
宝飾店で見たことがある。蛍光鉱石の粉末。装飾用で、市場の露店でも買える。
私は懐から手巾を取り出して、床に屈んだ。粉を布の上に集めて、丁寧に包んだ。手が震えた。急いでいるのに、粉は細かくて、布の繊維に入り込んでなかなかまとまらない。
廊下の向こうから足音がした。警備兵の巡回だ。
私は手巾を握りしめて立ち上がり、何食わぬ顔で歩き始めた。
心臓がまだうるさかった。
宰相邸に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
裏口から入って厨房の横を通り、自分の部屋に手巾を隠してから、奥様のところに報告に行こうとした。
だが、奥様の執務室の前を通りかかった時、足が止まった。
扉が薄く開いていた。
中にいるのは旦那様だった。奥様ではない。奥様はもう宰相邸にはほとんどいない。離宮に移ると聞いている。
旦那様は、棚の前に立っていた。
あの茶器だ。白磁に青い花の模様。二客で一組。でも今は片方しかない。奥様の分がない。
旦那様の手が、残った茶器に触れていた。持ち上げるでもなく、棚にしまうでもなく、ただ指先が縁をなぞっている。
長い時間だった。たぶん、本当は短かったのだろうけれど、私には長く感じた。
この人は寂しいのだ、と思った。
でもそれは、私が口にしていい言葉ではなかった。侍女は見なかったふりをするのが仕事だ。
私は音を立てないように後ずさりして、廊下を戻った。
自分の部屋で、手巾を開いた。
光る粉末が、布の上で鈍く輝いている。
聖女様の浄化は、嘘だった。
そして私の手には、その証拠がある。
誰に言えばいいのかわからない。
今はまだ、言えない。
でも、覚えておく。




