第2話 失われた晩餐
隣国大使歓迎晩餐会 差配引き継ぎ書。
そう書いて、私は筆を止めた。
インク壺の縁に滴が溜まっている。拭こうと思ったが、やめた。どうせこの引き継ぎ書も、誰かの手で汚れるだろう。
書けることは書いた。
晩餐の式次第。乾杯の順序。給仕の手順。席順の基本原則。食器の種類と用途。使用を避けるべき装飾品の一覧。
三日かかった。紙にして十二枚。私の十年分が、十二枚に収まってしまう事実は少し可笑しかったが、笑う気にはならなかった。
問題は、書けないことだった。
ヘレーネ殿が銀の燭台を嫌うのは、幼少期に火事で家族を亡くしたからだ。本人が私だけに話してくれた。東方の使節団長は表向きは宗教上の理由で豚肉を避けるが、実は単に嫌いなだけで、鶏肉なら喜ぶ。南方の伯爵は左利きだが、公の場では右手で食事をする。だから緊張する席ではカトラリーを右に置き、気心が知れた食事では左に置く。そうすると伯爵は少しだけ肩の力を抜いてくれる。
そういうことは、紙に書けない。
意地悪で書かないのではない。十年かけて食事を重ね、茶を飲み、雨の日に傘を差し出し、子どもの名前を覚え、好きな花を贈り、時に失敗し、時に許され、そうやって積み重ねた信頼は、引き継ぎ書の項目にはならない。
「書けるものだけ書きました」
誰に言うでもなく呟いて、私は筆を置いた。
執務室の窓から中庭が見える。十年前、この屋敷に来た日に植えた薔薇がある。今年も蕾をつけていた。水をやっているのは庭師だが、品種を選んだのは私だ。
その薔薇のことも、引き継ぎ書には書いていない。
一週間後。
隣国大使歓迎晩餐会の夜が来た。
私は出席していない。引き継ぎを済ませた以上、差配は新しい正妃──聖女リーリエの役目だ。私は離宮でカロリーネ様と茶を飲みながら、報告を待った。
茶菓子は離宮の厨房で焼いた素朴な焼き菓子だった。バターが少し足りなくて、端が硬い。宮廷の菓子職人が作る繊細な細工菓子とは比べものにならないが、カロリーネ様は黙って食べていた。
「……おいしい、ですね」
「端が硬いですけれど」
「それがいいのです。宮廷のお菓子は、きれいすぎて味がわからなくなっていたので」
カロリーネ様は少し笑った。建国祭の夜から一週間。泣いたのはあの一度きりで、それ以降は驚くほど静かだった。
報告が届いたのは、晩餐が始まって二刻ほど経ってからだった。
離宮に仕えている侍女──リゼッテという若い娘が、息を切らせて駆け込んできた。
「奥様、大変です」
「落ち着いて。何があったの」
「晩餐会で、その」
リゼッテは言葉を探していた。正確に伝えようとして、しかし何から言えばいいのかわからないという顔だった。
「……全部、です」
全部、というのは誇張ではなかった。
後から届いた詳細な報告を総合すると、こういうことらしい。
まず、料理。隣国ライヒスタットの宗教では神聖視される白鹿の肉を、メインの一皿として出した。これは引き継ぎ書にも書いた。「ライヒスタット使節団には鹿肉を避けること」と。リーリエはそれを読まなかったか、読んで忘れたか、あるいは鹿肉と白鹿の区別がつかなかったか。
次に、乾杯。隣国の慣習では、主催者が最初の杯を口につけてから客人が飲む。順序が逆になると「毒見をさせた」という意味になる。リーリエは客人であるヘレーネ殿に先に杯を渡し、自分は後から飲んだ。
最後に、称号。ヘレーネ殿の正式な称号は「ライヒスタット特命全権大使、侯爵ヘレーネ・フォン・ライヒスタット」だが、リーリエは「ライヒスタットの大使様」と呼んだ。二度。侯爵の称号を省いた呼び方は、相手を格下と見なしていることになる。
三つの失敗が重なった時、ヘレーネ殿は何も言わなかったそうだ。ただ、食事の手を止めた。
そしてリーリエは……
「こんな細かいこと、誰が覚えるの!」
そう叫んだらしい。
給仕の一人が王太子に耳打ちし、王太子が顔を赤くしたところで、晩餐は事実上終わった。
私は報告を聞き終えて、冷めた茶を一口飲んだ。
細かいこと。
そうかもしれない。鹿肉の禁忌も、乾杯の順序も、称号の正確さも、一つ一つは細かいことだ。でもその細かいことの積み重ねが外交であり、その細かいことを十年間覚えてきたのが私だった。
腹が立たないと言えば嘘になる。
でもそれ以上に、妙な寂しさがあった。
あの仕事が好きだった。
各国の大使と話し、文化の違いを理解し、食卓の上で小さな信頼を築いていく。それが「私の仕事」だと思っていた。でも実際には、私の名前で呼ばれることは一度もなかった。全部「宰相府の晩餐」であり、「宰相夫人の差配」であり、つまりは夫の付属品としての仕事だった。
「ヴィクトリア」
カロリーネ様が、焼き菓子の硬い端を指で割りながら言った。
「あなたがいなくなって初めて、あの人たちは気づくのでしょうね。細かいことが、どれだけ大きかったか」
「気づかないかもしれません」
「気づきますよ。……気づいた時には、もう遅いのですけれど」
翌日。
夫が来た。
離宮ではなく、宰相邸の執務室にまだ残していた私の机に。
私は荷物を整理していた。引き出しの中に、十年分の外交書簡の控えが入っている。持っていくつもりはない。宰相府の財産であって、私のものではない。
「昨夜の晩餐の件だが」
ディートリヒは扉の前に立ったまま言った。中に入ってこない。この人はいつもそうだ。私の空間には踏み込まない。礼儀だと思っているのだろう。私は十年間、それを尊重と呼んで、寂しいとは思わないようにしてきた。
「引き継ぎ書に記載しております」
「読んだ。だが……」
彼は少し間を置いた。
「……任せればよかった」
筆を持つ手が、一瞬止まった。
任せればよかった。
いつもなら「次回の改善案を出せ」と言うところだ。それが業務指示ではなく、もう少し個人的な響きを持っていた。ような気がした。
気のせいかもしれない。
十年も一緒にいて、まだこの人の言葉の温度がわからない。
「お仕事の話でしたら、引き継ぎ書をご確認ください。書けることは全て書きました」
「……そうか」
彼はそれ以上何も言わずに去った。
足音が遠ざかる。革靴の底が石の廊下を叩く音。聞き慣れた音だ。この音が近づいてくる時、私はいつも書類を整えて姿勢を正した。十年間、ずっと。
引き出しの中に、使い古した封蝋のスタンプが一つ残っていた。宰相家の紋章入り。私が外交書簡に押してきたものだ。
持っていこうか迷って、引き出しに戻した。
これも私のものではない。
その夜、離宮のカロリーネ様の私室に四人が集まった。
エルヴィラが赤ワインを持ってきていた。上等なものではない。元帥邸の厨房から失敬してきた普段飲みの一本だ。
「晩餐の話、聞いたわよ」
エルヴィラはグラスに注ぎながら、にやりと笑った。
「白鹿を出したんですって? あたしでも知ってるわよ、あれが禁忌だって」
「引き継ぎ書に書いたのですけれど」
「読まなかったんでしょ、あの娘」
マリアンヌが小さく溜息をついた。
「読んだとしても、理解できなかったのではないかしら。外交の禁忌は、知識ではなくて経験ですもの」
四人で飲んだ。カロリーネ様は少ししか飲めないが、唇をつけた。
「次は軍の記念式典が控えています」
私が言うと、エルヴィラがグラスを置いた。
「あたしの番ね」
「式典の運営は全てエルヴィラがやっているのでしょう?」
「全部よ。式次第も、来賓の序列も、勲章授与の段取りも。うちの旦那は戦場では天才だけど、式典の席順すら決められないわ」
エルヴィラは自分のワインを一息で飲み干した。
「やめる時は、あたしも引き継ぎ書を書こうかしら」
「書いても読まれないかもしれないわ」
カロリーネ様が言って、四人とも少し笑った。
笑えるようになっている。一週間前は泣いていたのに。
人は案外、泣くよりも笑い始めてからの方が強い。
窓の外は暗かった。春の夜風が、ワインの香りを少しだけ運んでいく。
隣国大使ヘレーネ殿からの手紙が、私の手元にあった。晩餐の翌朝に届いたものだ。封蝋はライヒスタットの鷲の紋章。
短い手紙だった。
『次はあなたとお話ししたい。──ヘレーネ』
私はその手紙を畳んで、胸元にしまった。
次、という言葉が温かかった。この国で十年間、私の名前で話したいと言ってくれた人は、外国の大使だけかもしれない。
エルヴィラがグラスにワインを注ぎ足しながら、ぽつりと言った。
「次の式典、あたしがいなくなったら……あの女官、泣くわよ。きっと」
まだ笑っていた。でも、目は笑っていなかった。
私たちの戦いは、静かに始まっている。




