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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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第9話:あなたのこと、何も知らないのに

 午後は、静かだった。


 静かというのは、いい意味じゃない。


 誰もあたしに話しかけなかった。昨日「紹介してくださいよ」と寄ってきた後輩たちも、今日は目を合わせなかった。悪意があるというより、触らないでおこうという感じだった。一晩で、何かが決まったらしい。


 三時ごろ、机の上を見た。


 缶コーヒーは、なかった。


 あたしは自分に少しあきれた。無意識に探していた。


 昨日のは、たまたまだったのかもしれない。誰かが置き場所を間違えただけかもしれない。


 そう思うことにして、あたしは仕事に戻った。


 この癖も、たぶん、一生直らない。



  *



 六時過ぎに、フロアを出た。


 残業する気になれなかった。昨日みたいに一人で遅くまでいて、またあのエレベーターに乗るのが嫌だった。


 一階まで降りて、エントランスを抜ける。


 夕方の車寄せは、帰る人で混んでいた。


 その先に、いた。


 白い髪が、街の灯りの下でよく目立つ。黒い服。柱に寄りかかるわけでもなく、スマホを見るわけでもなく、ただ立っている。人が周りを避けて歩いているのに、本人は気づいていない。


 あたしは、足を止めた。


 昨日の夜、あたしはこの人に連絡できなくて、それがどうしようもなく心細かった。


 なのに今日は、勝手に来ている。


 安心した、と思ってしまったのが悔しくて、あたしは少し乱暴に歩いた。


「なんで来るんですか」


「昼を食い損ねた」


「もう夕方ですけど」


「では、夕飯だ」


「切り替えが早い」


 はくが、あたしの顔を見た。


「顔色は、昨日よりいい」


「昨日、あなたに顔色が悪いって言われたので、意地でも」


「昼はちゃんと食べたか?」


「食べました」


 嘘だった。


 昼はゼリーだった。でも、この人の前で言うと、たぶんまた店に連れていかれる。それはそれで嫌じゃないと思ってしまったので、あたしは黙った。


 言いたいことがあった。


 昨日の夜のエレベーター。鏡。後ろに立っていたもの。それがあたしの目を見ていたこと。


 言おうとして、息を吸った。


「あの、昨日」


「先輩」


 声が、割り込んだ。


 美咲だった。


 いつの間に出てきたのか分からなかった。あたしのすぐ後ろにいて、そのまま横をすり抜けて、はくのほうへ歩いていった。


 止める間もなかった。


「すみません、突然」


 美咲は、はくの正面に立った。


 紙袋を胸の前で持って、少し首を傾げる。上目遣い。眉が下がる。声が半音上がって、語尾に息が混ざる。


 全部やっていた。三年かけてあたしから翔太を奪った手順を、順番どおりに。


「昨日、お見かけして。先輩の……お知り合いの方ですよね」


 はくは、答えなかった。


「私、水野美咲っていいます。リリン先輩の後輩で」


 言葉が、そこで止まった。


 はくが、美咲を見ていなかったからだ。


 睨んだわけじゃない。無視した、という感じでもない。もっと単純だった。


 この人の目は、あたしのほうを向いたままだった。


 美咲がすぐ正面に立って、名前を名乗って、顔を上げているのに、そこに人がいることを、この人は勘定に入れていなかった。


 あたしは、それを横から見ていた。


 昨日、鏡の中のものに見られたときのことを、なぜか思い出した。あのときは、見えていることがばれて怖かった。


 いまは、逆だ。


 この人には、見えていない。


「あの」


 美咲が、もう一度言った。


 声が、少しだけ大きくなっていた。


「はく」


 あたしが呼んだ。


 呼んでしまってから、しまったと思った。助け舟を出したみたいになった。


 はくが、少しだけ首を動かした。


「誰だ」


 あたしに聞いていた。


 美咲に、じゃない。


 空気が、変わった。


 周りを歩いていた人たちが、たぶん何人か、こっちを見ていた。誰も何も言わなかった。それでも、聞こえたはずだ。


 美咲の顔から、表情が落ちた。


 眉が上がった。下がっていたのが、水平に戻った。目が、丸くなくなった。唇が薄くなった。三秒か、四秒か、あたしの知らない顔が、そこにあった。


 昨日の夜、エントランスで見たのと同じ顔だった。


 でも、昨日より、ずっと近くで見た。


 この子は、いま、初めて気づいたのかもしれない。


 泣き顔も、上目遣いも、鼻にかかった声も、全部持っているのに、目の前の男には何一つ届かなかった。届かなかったというより、自分の好意が放たれた場所に、誰もいなかったような。


 それは、断られるより、たぶん、ずっと。


「水野美咲……後輩の子です」


 あたしが答えた。


 自分でも、なんでフォローしたのか分からなかった。


「そうか」


 はくは、それだけ言った。


 それから、もう美咲のほうを見なかった。


 美咲が、ゆっくり息を吸った。


 次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。眉が下がって、目が丸くなって、口の端が上がる。速い。相変わらず、気持ち悪いくらい速い。


「あ、失礼しました。私、勘違いしちゃって」


 美咲は、あたしを見た。


 笑っていた。


「先輩、すごいですね」


 それだけ言って、歩いていった。


 紙袋の持ち手を、握り直していた。指の先が、白かった。


 駅のほうへ向かう背中を、あたしは見ていた。


 すごいですね。


 三年間、あの子がその言い方をしたときは、いつも、そのあとに何かが起きた。



  *



 美咲の姿が人混みに紛れたあと、あたしはようやく息を吐いた。


「ああいう子なんです」


「そうか」


「怒らないんですね」


「何をだ」


「いま、ちょっと口説かれてたんですけど」


 はくは、少しだけ考えるような間を置いた。


「そうだったのか」


「気づいてなかったんですか」


「顔と声で寄ってくる者は多い。数えていない」


 嫌味でも、自慢でもなかった。天気の話をするみたいに言った。


 あたしは、なんだかどっと疲れた。


「あのですね」


「何だ」


「あなた、そういうところ、たぶん一番残酷ですよ」


「そうか」


「そうかじゃなくて」


 言いながら、あたしは自分でも意外なくらい、腹が立っていなかった。


 この人は、美咲を見下したわけじゃない。勝ち負けをつけたわけでもない。ただ、見ていなかった。


 そして、あたしのことは、初めて会った日から、ずっと見ている。


 それが何を意味するのか、考えるのが怖くなって、あたしは話を変えた。


「昨日、変なものを見ました」


 言った。


 言ってから、心臓が速くなった。


 二十七年、この一文をまともに言ったことがない。子どものときに言って、笑われて、それ以来ずっと飲み込んできた言葉だ。


 はくは、笑わなかった。


「どこで」


「エレベーターです。鏡になってる扉に、あたしの後ろに」


 声が少し震えた。


「顔がなくて。でも、こっちを見てて。目を、見てて」


 はくは、黙って聞いていた。


 それから、一つだけ聞いた。


「向こうは、凛が見ていると分かっていたか」


 あたしは、頷いた。


 はくの目が、ほんの少しだけ細くなった。


 怒っているのか、面白がっているのか、分からなかった。


「気のせいだ、って言わないんですね」


「言わん」


 それだけだった。


 それだけなのに、あたしは危うくまた泣きそうになって、慌てて上を向いた。夕方の空が、ビルとビルのあいだで細く光っていた。


「あの」


「何だ」


「連絡先、教えてください」


 はくが、こっちを見た。


「昨日、ほんとは怖くて……言いたかったんです。夜だったけど。でも、連絡する方法がなくて」


 言いながら、顔が熱くなった。


「あ、でも。別に、そういう意味じゃなくて。緊急用というか。だって、あなたいつも勝手に来るし、来ない日は連絡つかないし、それってけっこう不便で」


「凛」


「なんですか」


「長い」


「うるさい」


 はくが、笑った。


 声は出さなかった。口の端が少し動いただけだ。でも、あの座敷で会った日から、初めてちゃんと笑ったのを見た気がした。


 スマホを出させて、番号を入れさせた。登録名を打ち込むときに、少し迷った。


 天城はく。


 当たり前のことなのに、この人の名前を自分のスマホに保存するのが、なんだか大ごとに思えた。


 昨日まで、あたしはこの人の名前しか知らなかった。


 いまは、番号を一つ持っている。


 それだけのことが、心細さの真ん中に、小さく刺さって止まった。


「では、明日も来る」


「来なくていいです」


「来る」


「……はい」


 あたしは、そう答えた。


 自分の声が、思ったよりやわらかくて、聞かなかったことにした。



 歩き出そうとして、はくが足を止めた。


 駅のほうを見ていた。


 美咲が歩いていった方向だった。人が流れている。信号が変わって、傘みたいに人が広がって、また細くなる。


 あたしも同じほうを見た。


 夕方の歩道と、コンビニの明かりと、電柱と、自転車。それだけだった。


「何かいるんですか」


 あたしは聞いた。


 二回目だった。一度目は、山の屋敷の門の前だった。あのとき、この人は「いや」と言って、それから「いい」と言った。


 今日は、少し違った。


「いや」


 はくは、そう言った。


 それきり、何も言わなかった。


 いい、とは言わなかった。


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